いつも時計進めていたる友多くほんとうの時刻を私に聞きぬ

前田康子『色水』(青磁社)※引用は『前田康子歌集』(現代短歌文庫139、砂小屋書房)

家の時計をほんの少し早く進めている。はじめ3分くらいの違いだと思っていたが、いまでは多分5分はずれていて、掛けた時計の傍にある小さな時計を見なければ正しい時間はわからない。時計を進めることの利点はもちろんあるけれど、結局は正確な時刻をほかの時計で確認することになるのだから滑稽だなと思う。それで、掲出歌の状況でいえば私もどちらかというと「いつも時計を進めていたる友」寄りである。ただ、いまは腕時計にしてもスマートウォッチなるものが主流になりつつあるし、腕時計などしなくともスマホを身につけていればすぐに正確な時刻を確認できてしまうのだから、あえて腕時計を進めている人はあまりいないのかもしれない。むしろ、電波式時計においては時間を「進める」ことはできず、現代人は正しい時刻に縛られっぱなしである、とも言える。

歌のなかでは友人から「いま何時?」と軽く訊かれたのだろうけれど、いま何時、と訊くときそこでは思えば「ほんとうの時刻」が問われている。正確な時間、正しい時刻、など言い方はあれど、それが「ほんとうの時刻」と描かれることに、何やらかりそめでない、本来の、真の時間というものが存在するような錯覚が生まれる。もちろんそんなものはないのだけれど、「ほんとうの」と描かれる点に歌の味わい、主眼は置かれているように思う。あるいは、歌のなかの私が「ほんとうの時刻」のままの時計をしているということに、周りとの時間の過ごし方のギャップを感じることもできる。「いつも時計進めていたる友」たちのことを思いながら、子育てをする自分に流れる「ほんとうの時刻」にはわずかに寂しさが滲んでいる。

自信なき子を褒めやれば手を垂れて「いつも同じほめ方」と責む

螺子好きの子が遊びに来ひとつずつこの家の螺子持ち去りにけり

『色水』には子育ての場面を歌ったものも多く、ああわかる、ああそうだそうだ、と読めば頷きどおしになってしまう。歌われる事柄ひとつ一つ、なんだか先輩のママ友のおしゃべりを聞かせてもらっているような心安さを勝手に覚えてしまうのだけれど、同時に自分の子どもの頃を思い出してもいる。「自信なき子」はまさにいつかの自分のことで、あるいは親として、似たようなことをしてしまうこともあって痛いところを突かれている。螺子好きの子が(勝手に?)螺子を持ち去ってしまう。そ、そんなことがあったんですか、と相槌を打ちたくなる。二重の(わかる)にうつされる歌の数々がそっと、いまと昔の自分の背中を押してくれる心地で、読めば読むたび、うれしくなる。

開放弦五月の光に照らされて小さな指がそれを弾けり