ガザ地区と足立区響き似ていると吾子あこが言いけり空爆怖い

田中有芽子『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』
(2019、インプレスR&D)

参考までに、栗木京子『新しき過去』(短歌研究社、2022)には「ガザ地区がふと足立区に聞こえ来ぬ深夜のニュース画面の奥より」という歌がある。掲出歌もやはりテレビだろうか。子供にとってのガザ地区には、たぶん足立区に似た地名という以上の付加的な意味はまだないが、大人である主体の方は、そこに一応「空爆」をくわえて受け止める。しかし「空爆怖い」というその解像度の低い恐怖は、足立区とガザ地区のあいだに、そして主体とガザ地区のあいだに、乗り越えることのできない壁があることを示している。

ガラス越し新生児らの歳を足すみんな合わせて56日
透明な円筒であると気づいてるようないないようなありびんの中で

『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』という歌集題がまずそうであるように(これはそのまままるごとが一首の歌として、歌集の最後に置かれている)、この歌集はわからないということに特別な価値を置く。自分自身と未知のものとの間には、乗り越えようのない透明な壁がしばしば設定される。それは時間の壁であったり、空間の壁であったり、しゅ(人間と動物)の壁であったりするわけだが、ここに引いた新生児や蟻の二首などは、現実にガラスでできた透明な壁がある。自分にとって不可侵なものとして未知の対象(新生児、蟻)を安全地帯におく、ある種の敬意がそうさせているのではないかと思う。

新生児は主人公にとって未知の存在だが、歌集中にしばしば登場する「吾子」(おそらくは小学生だろうか)は、年齢としては新生児と主人公のあいだにいるものとして、掲出歌においては案内人のように透明な壁のむこうへと主体の関心をむけさせる。

では、死というものは、主体にどのように見えているのか。

誤変換不吉なものは消し急ぐくだらないけどそう死体のね
主役の死まで書いてある本だけを置いた本屋に行きたい
誕生時仮死状態であったという同僚が切る青い伝票
本当はもっと長い言葉じゃないか?怖いから省略して「シ」と 

たとえば、この歌集にはしばしば極めてカジュアルなかたちで〈死〉が詠まれる。それは誰かの具体的な死ではなく、あくまで概念としての死であり、ゆえに主体ははっきりとこれをつかみとれず、ときには理解しきれないがゆえの恐怖を語る。掲出歌においても、「ガザ地区」という提示から、あえて踏み込まずに「空爆怖い」で止める。それもやはり世界の未知の部分に安易に踏み込もうとしない主人公なりの矜持なのだ、といってしまえば買いかぶりすぎだろうとは思う。それでも、自分からは一見縁遠い悲劇が私たちの現実の生活を透過するように重なり、そして消えていく、この感覚がここでは歌になっている。多くの情報にさらされながら生きる現代人が抱えながら口には出さずにいるそのことを、あえて気どらずに歌にしたのは、貴重なことのように思って今日とりあげた。