染野太朗


〈柿死ね〉と言つてデッサンの鉛筆を放り出したり娘は

花山多佳子『春疾風』(砂子屋書房、2002年)

 


 

大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり/花山多佳子『木香薔薇』

 

この「大根」の歌、多くの謎を含んでいる。そもそも、なぜ大根を探しに行ったのか。大根を落とすなんてことあるのか。しかもその大根を、拾って、さらに電柱に立てかける人なんているのか。場面は夜で、もちろんその時間帯に探しに行くこともあろうけれども、なぜわざわざ夜の暗い時間に探しに行くのか、とも思う。だいたい、立てかけてあった大根は、本当に自分が落とした大根だったのか。いや、そもそも、落としたから探しに行ったということではなく、単に大根が欲しいと思ってなんとなく外へ探しに行ったということなのか。そういった突飛も、この主体であれば、ありそうである。あるいは、「買いに行く」というのを「探しにゆ」くというふうに表現しているのか。それともこれすべてが夢の中の出来事なのか。……しかし全部、ありうると言えばありうる。そういった微妙な程度の謎がここにはある。その「微妙さ」ゆえか、謎が歌の「わからなさ」として批判的に読まれないところもこの一首の魅力。しかし、そういった謎だけを指してこの歌をおもしろいと言うのはおかしい。そのような謎は驚きを引き出すとは思うけれど、おもしろさ(ここではほぼ「笑い」ということ)を決定する要素としては不十分であるように思う。ただ、もちろん、要素のひとつではある。そして、そのあたりの謎にまったく気づかないような真顔でそこにいるこの一首の主体。何かがズレている。それで大事なことに気づくのだが、それは、「主体が歌のなかで気にしているもの」と「読者として歌の気になるところ」がずいぶんとズレているのだな、ということ。主体は大根を探したくて探しに行く。ふつうは読者もその主体に入り込んで「大根を探したくて探しに行く」を追体験する。でもこの歌では、少なくとも僕はそうなれない。「なんで探しに行くんだ?そもそもこの人は何をやっているんだ?」となる。でも主体はそこに疑いをもっていそうもない。一般化してよいのかわからないけれど、花山多佳子の歌を読んでいると、僕はよくそういうズレに遭遇する。それで、そのズレを意識し出すと、ぞっとする瞬間がある。作者に見られている、と思う。花山の歌を読みながら、防犯カメラか何かを確認するように、読者として背後を振り返ってしまうことがある。歌の主体と読者を俯瞰で眺める〈作者〉の存在に不意に気づくのだ。このような作品世界を構築する作者の存在。ふだん歌を読みながら、あえて〈作者〉と言ったり〈作中主体〉と言ったりはするけれど、そして〈読者〉としての自分をあえて立たせたりするけれど、でも、一首をなにげなく読むときにはそれらが混じり合ってしまっているということは、体感上よくある。いや、混じり合うというか、その分離を意識しない、分離に気づかない、というか。けれども花山の歌を読んでいるとき、それらが明らかなかたちで分離してしまうことがある。「なんだろうこの主体は」と明らかなかたちで思い、そう明らかに思った瞬間に読者としての自分が現れ、やがて作者の存在に気づく。話を戻す。さらに、この「大根」の歌のおもしろさは、最終的に現れる景そのものにもある。シュールと言ってしまえばそれまでだけれども、大根を探しに行く主体のあとをついていくと、その前方に、電柱が立っているのが見え、そこに大根が立てかけてある。大根がぼうっと街灯に浮かび上がっている。なんだか笑ってしまう。その景に笑ったあとで、やはり作者の存在に気づいてぞっとする。歌に言葉を構成して、景が作られている。主体とその行動はこんなにも謎だらけなのに、その主体が存在する舞台として、まっとうに構成された言葉とその景が見えてくる。……ちょっと大げさなへんなことを言うのですが、この大根の歌を読んでいると、自分も作品の一部になってしまったような気がしてしまうのだ。作者が、驚いたり笑ったりしている読者をあらかじめ想定してこの歌を差し出していて、それを俯瞰で眺めている、その俯瞰の視野にあるものすべてが作品、というか。気づいたら作者の掌の上、という感じ。

 

……前置きとして別のことを言うつもりで「大根」の歌を引いたのに、書き始めたら全然ちがうことを書いてしまって、今日の一首につながらないのだけれども、今日の一首を読みます。目を引くのは「〈柿死ね〉」。これが歌の中心であるように見える。流行語のようになんに対しても「死ね」が使われていた時代があって(今もかもしれないけれど)、それが「柿」にも付されるという日常とそれへの違和感。そのおかしみ。娘がいま困難を感じているのは柿を描くことである、そういったことをあえてするのだからたぶん美大生か何かである、というのが「デッサンの」の一語によってわかる、その巧みな表現への驚き。でも、この歌のいちばんの魅力はたぶん「放り出したり」にある。「娘」のその姿が生き生きと見えてくる。僕は、放り出したあとに、腹立たしげにさっとその場を離れて行ってしまう「娘」の後ろ姿まで想像する。そのあとのテーブルには柿と鉛筆とスケッチブックが残っている。そして、「娘」にとってはきわめてシリアスな、しかし状況としてはまったくシリアスでない(だって柿の話だ)、その両義的な空気感がそこに固定される。初句に配された「〈柿死ね〉」は、歌を読み終えたあとも変わらず歌のなかで目立つのだが、それよりも、状況や動きそのもののほうがよく見える。歌があくまで「放り出したり」という動詞、用言によって統べられているからだろう。そして、「娘」とモノのひとつひとつが、ひとつの画面に収まっている。「デッサン」という語に導かれながら、「〈柿死ね〉」の語気や「放り出したり」を筆のタッチ・質感にしながら、そこに一枚の絵画があらわれる。静物画に近い。「〈柿死ね〉」という言葉は太書きでそこに見えているのに、一首の字足らずは歌をいくらでも素っ気なくするのに、最終的にはその絵に目を奪われる。「死ね」と言われても柿の色彩は変わらず優しく見える。その優しさを支えるのがユーモアなのだろう。そしてそれを「静物」画として見せているのは、歌の主体のこのしずかな眼差し、だと思う。「〈柿死ね〉」に焦点を当てているのに、ついにはそこに向かわない読者としての自分の眼差し。ふしぎな歌だと思う。