道端のレシートのうへ「シヨクパン」と「チンゲンサイ」に靴跡のあり

斎藤美衣『世界を信じる』

 

少し前までスーパーのレシートはたしかにこんな感じだった。食パンは「シヨクパン」、青梗菜は「チンゲンサイ」。今のレシートは漢字も使っていて食パンは「食パン」と表示されていたりするし、そのフォントもごく自然なものになっているが、少し前はなんだかこわばったようなフォントで「シヨクパン」だった。なぜレシートというのはこんなに頑なにぎこちなさを保持しているのか不思議だったことを思い出す。

レシートに書かれた「シヨクパン」と「チンゲンサイ」は誰かが買い求めたことの証であって、おそらく他にもいろいろな品物の名がこのレシート上にカタカナで表示されていたはずである。「シヨクパン」は朝食、「チンゲンサイ」は炒め物だろうか、とにかく見知らぬだれかの意思が動き、数ある品物のなかからこれが欲しいと思って選び抜かれたのが「シヨクパン」であり「チンゲンサイ」である。個人の志向や欲求がこまかく示された紙は、しかしこの歌のようなかたちで零れ落ちたり捨てられたり、ときにはとある別のだれかに踏まれたりもする。そしてこの歌の主体のように稀にはそれを見つめる人もいる。

この歌は事実の提示のみをしている歌なので、ここから何を読み取るかはそれぞれの読者次第なのかもしれない。読み取ったものをあえて言語化する必要もない。この歌だけで十分に味わえる。ただ、個人的には『世界を信じる』のなかでも特に印象深い作品であるので、あえて良さを言語化しようとすれば、「世界の緻密さへの気づき」なのだろうと思う。ほんとうに世界は手抜きなくすみずみまで緻密である、ということを教えてくれる。なんでもない日常の道端に一枚の白い紙が落ちていて、そこには「シヨクパン」「チンゲンサイ」と小さくこわばったフォントで記されている。時間もすみずみまで流れているから、レシートが落ちたあとにそれをだれかが踏む。そして踏まれたものを見つめる人がいる。レシートを落とした人、踏んだ人、見つめる人、それぞれの時間のうちの一瞬が道端で交錯する。「シヨクパン」「チンゲンサイ」が契機となって緻密なほうへ緻密なほうへ想像が働かされる。短歌という短い詩型のなかで世界の緻密さを表現することは不可能に近いはずだけれど、この、乾いたような一首のなかには目のくらむような緻密さが「シヨクパン」「チンゲンサイ」をよすがとして芋づる式に引き出されてくる気がするのである。

せっかくなので取り上げたかった歌をいくつか。

人の耳ばかりひかりつ出棺を見送る午後の日差しのなかで
屑籠の底ふかき夜どこまでもひとひらの紙落ちつづけたり
洋梨の表皮のやうな手の甲をひからせ母はタオルを畳む
対きあつてこなかつたこと、いくつかは そして並んで餃子を包む