母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした

伊舎堂仁『トントングラム』
(書肆侃侃房、2014)

「母さん」と呼びかけているわけだし、こう言っているのは「子」本人である、と考えるのがふつうだろうか。だとすると、これは幼少期のねんど遊びのことだけではない、始終そんな調子で大人になってしまいました、という半ば懺悔のようなつぶやきであるのかもしれない。

「へびしか作りませんでした」と言っているのだが、ほんとうにそれがへびであったのかも怪しいものだと思う。この子はねんどでただひたすら、細長い棒のようなものをいくつもいくつも作り続けていたのではないか。本人はそれを、なんらかの名前のついたものだなんて考えてすらいなかった。それを「へび」と名付けてくれた人がいたとすれば、やっぱり母さん以外にはいないだろうと思う。あら、へび作るの、上手ね、なんて母親は言ったのかもしれない。なんでもないねんどの棒から「へび」を創出したのも、結局のところ母さんだった。それでも、子はただひたすらに棒をつくることしかできない。どこまでも子を肯定しようとする母親と、いたたまれずにどうにも詫びを入れずにはいられない主体。この歌をじっと見つめていると、そんな親子の関係がじんわりと見え始めるようにも思う。——だけどね、そのへびしか、私は作らなかったんですよ。

一方で、「へびしか作りませんでした」というとき、それはなんだか不都合を言いつけるような口調にも見えてくる。命がけで産んだのに、それがねんどで棒しか作らないような子では割に合わないじゃないかか、世の中ってこんなエネルギー効率のバグ(システム上の欠陥)があるんですよと言っているのではないかと思う。そしてそういうふうに考えた方が、『トントングラム』の一首としてはこの歌がだんぜん似つかわしく見えてくる。

この声の人は小野リサそう知った時からそこらじゅうに小野リサ
Uターン用に開放されている土地にある朝コンクリがある
マンホール内で作業をしていた男性なのに助かったらしい
神様になって上から聴いている気持ちになれる 音量1で
蝉とチョロQはあおむけでニチニチ言いながら死ぬ点で似ている

『トントングラム』には、世の中や個人の運命を統御するシステムのようなもの(世界システムと呼ぶことにしよう)を、じっとみつめるまなざしがある。上に引いた初めの2首は、そのシステムをある意味では信頼しながら見つめ、歯車のひとつを取りだして見せるような感覚で、システムの一端を歌に書きとる。世界システムを信頼し、リアルに描きとるがゆえに、歌の中ではかえって異様な出来事にみえてしまう。

一方で、そのシステムを信頼するがゆえに、ちょっとしたバグも見逃されることはない。ニュースでたまに見るマンホール内での事故をとりあげる三首目は運命の非対称性(同様の事故にあっても生き残る人と死ぬ人がいる。そういえば伊舎堂の第二歌集には警備員の仕事中、感電してもおかしくない場所に足を踏み入れて「たまたま死ななかっただけ」と告げられたエピソードが大きく扱われている)、五首目は「この世」という映像作品の中で、まったく無関係の場所に同じキャラクターデザインが使われているではないかという気づき。四首目はテレビやネット上の映像などを見るときに、聞こえるかどうかというほど小さく音量を設定すれば、まるで神様になって人間の行いを遠く離れた場所から傍観しているような感覚を得られるということを言っていると考えたのだが、つまりここにあるのは音量を下げる(エネルギーを下げる)ほど神に近づく(価値が高まる)という掲出歌に似たエネルギー効力の非対称性(矛盾)である。

母は連れて帰る死してなおかけるボタンを連打しているおれを

子に対する母の無条件の愛を、世界システムのバグのように詠んだもう一首。学童保育のような場所だろうか。「死してなお」と言っているが、死んだのは母でも子でもなく、子がしているゲームの中の敵やモンスターの類かと思う(私はそういうゲームに詳しくなくて想像なのだが)。ここにも、ただ無意味に同じボタンを押し続けてしまう「おれ」がいて、さらにはそんな子供でも大切に(?)連れ帰っていく母がいる。さきほどの掲出歌の母さんは、まさかねんどで「へび」を作り続ける子供だと思って出産したのではないだろうが、こちらでは✕を押し続ける子供だとはじめからわかっていて、それでも連れ帰る。母が自分の子を捨てないという当たり前のことが『トントングラム』の文体に放り込まれるとバグのように見えてくる。世界システムのバグくらいにしか、人間という生き物が人間らしく生存できる隙はないということかもしれない。

先日予告したとおり7/30・8/1・8/3を休載します。