ねえさんの蝶々結びは縦になりるるまへから落ちかける蝶

吉田隼人『忘却のための試論
Un essai pour l’oubli』
(書肆侃侃房、2015)

私はひとりっ子だったからきょうだいというものが本質的によくわかっていないふしがあって、兄弟姉妹にしつこく言及するような歌集があると(そしてそういうのは案外多い)、ある種のあこがれをも抱きながら、そこからなにか研究したいような気分になる。今日取り上げる『忘却のための試論』には、妹の登場する「砂糖と亡霊シュガー・アンド・ゴースト」という一連と、姉の登場する「びいだまのなかの世界」という一連がある。

足らぬもの数ふるよりもいもうとは賠償金でパーマをあてる
兄さんが鬼籍に入ればいもうとでなくなるのだよ油断するなよ
いもうととまだめぐり逢ふいつだつてなにかが安いマクドナルドで
「砂糖と亡霊」

人形にあるかなきかの乳ありて思想のごときものきざしくる
とほくに火 とほくちかくに闇 姉がたましひの底から泣いてゐる
ねえさんの耳は胎児のかたちしてふたり眠れり夜明けの晩に
「びいだまのなかの世界」

「砂糖と亡霊」に登場する妹は、いつも主体(兄)より実際的な世界に生きている。「兄さんが鬼籍に入ればいもうとでなくなるのだよ」と兄が軽口をたたくとき、実際的な妹は、そうなったって私はずっと兄さんの妹だよ、などと答えるのだろう。しかし、その兄の言葉には罠があって、妹がそう答えることで死ぬということを肯定してしまうことになる。鬼籍に入った兄が妹に会いたいとやってくるのは、マクドナルドというこれまた実際的な場所だ。

片や「びいだまの…」の姉は、一連の中でいささか曖昧な調子で言い表されるが、どうやら主体が異様な愛着を持つ人形のことであるらしい。「あるかなきかの乳」「耳に胎児の形」という「姉」の身体描写には、不思議な硬さと確信があって、人形の描写にふさわしい。そんながらんどうの体に命を与え続けるうち、「姉」という想念が人形の身体を底から、できかけの一個の精神として跳ね返ってくるような瞬間さえもがある。

「砂糖と亡霊」における主体はもはや命が消え入りそうになりながらも、妹という実際的な存在にまとわりつきながらどうにか生き続けていた。しかし「びいだまの…」の方では主体の立場が転回して、今度は人形の「姉」というがらんどうの相手に、主体は絶えず注意を注ぎ、命を与え続けなければならない。歌集という構造が、妹の実際性にタダ乗りすることを許さず、主体にも妹が主体に対してした「死なせない」ということ以上の、いやもっとずっと力と根気が必要にちがいない「生を与える」という能動的な働きを課すのである。主体は果敢にもその課題に応じようとする。人形に着せた服のひもが縦結びになるように、しかし、それはどうしても完全な命にはならない。掲出歌にいう「生きる前からおちかける蝶」とは、けっきょくはただ一度も「生きる」ことができないままグラフが下降線をたどるように死んでいく「姉」、そのもののことを言ってもいるのだろう。