卵殻を破りて生まれし君なるか人嫌いにて空恋いており

松村由利子『薄荷色の朝に』
(短歌研究社、1998)

いきなりだが、歌集というものをカレーライスに喩えて考えたとすると、問題になるのは辛さよりも具の方だろうと思う。具の形のほとんど残らないほどに煮込まれたカレー、そうでもないカレー、あるいは、レトルトのビーフカレーのように具がほとんど入っていないように見えるやつ、などいろいろあるが、『薄荷色の朝に』という歌集は、かなり大ぶりな肉や野菜が、ほとんど荷崩れしないまま供されているという感じがする。

生活の単位四人と定めたる経済企画庁の調査今年も
パン屑をついばむように議員らの朝食会を取材しており
「本当に記者さんですか」を退けて女もすなる国会取材
会社には自分の物など見当たらず抽斗に入れるミルクキャラメル

包丁で切ったじゃがいもの切り口が、ほとんど直線のまま残っている、そんな明快な歌たちである。一首目には、家庭というものへの無邪気な固定観念がいまだに存在するということを、端的な事実で示すわかりやすさがある。さらに、女性への固定観念の根強さをいうのが三首目。そうして、始終そんなふうでなにひとつ自分の物がないと思える会社(社会)へとひそやかに持ち込むミルクキャラメル。この明快さは、内容の確実さが必要な新聞にかかわる仕事を当時の作者がしていたということが、単にモチーフとして新聞記者の仕事を読むということ以上に大きく影響しているようにも思う。

カレーの中に何が入っているのか明確な方が安心して食べることができる。しかし、歌や歌集を読んで評を書いている立場からすると、何が入っているのかわからないくらいどろどろに煮込まれたカレーを食べて、何が入っているのか言い当てたいという欲求にかられるのだった。だから『薄荷色の朝に』のような歌集に出会っても、大ぶりな肉や野菜をよそに、ひっそりとルーに溶け込んだ何かがあるのではないか、と考えてしまう。

で、なにか見つかったのかというと……、それが難しい。しかし、どうも気になったのが歌集の中盤に登場した掲出の一首である。「男とはかつて翼を持ちしもの母なる大地の邪気拒むべし」という歌がこの一首前にある。(母胎ではなく)卵から生まれたかのように思える「君」は、今にもつまらない人間社会を棄てて空へと飛び立ちそうだ。「君」が棄てていくのは、『薄荷色の朝に』の語り手が、精密に詠み続けてきた固定観念の塊のような狭量な社会のはずだ。しかし、その社会を「母なる大地」とよび、「邪気」という言葉まで持ち出してそこから離れるようけしかけるのはなぜなのだろう。

飛ばぬこと決めし家禽と女らが外気浴する昼の公園
年下の君は捨て猫いくたびも振り返りつつ置き去りにせん

歌集の中盤から後半にかけ登場する「君」は、年下の恋人のようでありながら、そこに、あらたな自分を見出そうとするがごときまなざしがある。新しい自分は、古い自分という「母親」に見守られながらも、母胎とは分離した卵から生まれ出て、すぐに空へと飛び立っていく。新しい自分に置き去りにされるのは「捨て猫」ではなく、人間社会と結びついてしまった現実の自分なのではないのか。「捨て猫」という喩えには、しかし、飛ばないと一度は決めてしまった女性たちへの痛切な親しみがあるようにも思う。国会取材といういっけん華々しい場面にあっても、そこから漏れ出す「パン屑」を家禽のようについばむことでしか男社会に対峙できない世の中なのだから。