染野太朗


ひとつぶのどんぐり割れて靴底に決心のような音をたてたり

齋藤芳生「はつゆきはまだか」(「現代短歌」2018年1月号)

 


 

「はつゆきはまだか」は24首からなる。

 

齋藤の歌には技術面や内容面での読みにくさやむずかしさがほとんどない。知識の上でのむずかしさがあっても、それは調べればなんとかなる。それなのに齋藤の歌はものすごく語りにくい。シンプルで力強いとか景や情を大きく詠んでいるとかいったことを「ふるさと」「ノスタルジー」等々のキーワードを添えて語ることはいくらでもできるような気がするのだけれども、ではなぜシンプルで力強く感じるのか、なぜ大きく感じるのか、なぜ歌からノスタルジーを感じるのか、といったことを説明するのは僕にとってものすごくむずかしい。それで、その説明の仕方が見つかったから今このように記しているというわけでもなく、その語りにくさの理由さえまだうまく説明できないのだけれど、ただ、なんとなく感じているのは、齋藤の歌は「それだけを詠む」ということを徹底した歌なのだなということ。狙いを定めて一点を射抜く力が尋常ではない。

 

消金字、平極蒔絵、つぶやけば並ぶうつわがしろじろひかる

/齋藤芳生「夏のうつわ」(「短歌往来」2018年8月号)
※ルビ:消金字=けしきんじ、平極=ひらごく

 

「夏のうつわ」という連作を読むと、この歌は、とある漆器店を訪ねたときのものだとわかる。目の前にある器の装飾を「消金字」「平極蒔絵」という名称で確認しながら眺めるときに、その器が光りだす。名付けることで、目の前のモノやコトや感情の輪郭が濃くなる、その実体が濃くなる、ということ。「好き」と言葉にしてみてはじめて相手のことを好きだと自覚する、というようなこと(青くさい説明でごめんなさい)。その器の装飾がどのような技術をもってなされたものなのか、どのような歴史を負うものなのか、ほかの装飾と比較してどのような特徴をもつのか、といったようなことが、その名称をとおして実感される。名付けることによって、細部が見え、それが親しいものとして感じられるわけだ。言葉の「分節化」という機能を思う。この「うつわ(の装飾、特徴)」が言葉によって、まさに「消金字」「平極蒔絵」として読者に提示される。

 

それ以外の「うつわ」や、それ以外の特徴がもたらす質感や余情の類いは排されて、「それだけ」がただそこに提示される。

 

花の名を覚えるたびに忘れゆく花の個のこと 恋をしていた

/石井僚一『死ぬほど好きだから死なねーよ』

 

石井のこの作品は、齋藤の上の歌とは逆の方向を向いていると思う。名付けることが対象の個性を奪ってしまう、と言っている。花のひとつひとつの差異が無視され、桜は桜、紫陽花は紫陽花、秋桜は秋桜としてのみ、概念の一括りをとおして認識される。もちろん僕たちの身体感覚は、差異をもった個々への反応をそのつど行なっているはずだし、言葉によってその差異を表現することも可能なのかもしれないが、言葉はたしかに、眼前の具体的なモノやコトや感情の個々の差異をなだらかにまとめあげてしまう。「花の個」を「忘れゆく」という事態はたしかにある。……というふうに読めば、この石井の一首は、「花」(あるいは「恋」)の個々のひとつひとつをむしろ意識させる歌だとわかる。名付けたところで具体的なひとつひとつの差異は保たれつづけるのだ、ということがいつまでも意識される。

 

それで、めぐりめぐって結局何が言いたいかというと、しかし、石井の歌でいうところの「花の個」は、齋藤の歌によってはそれでも失われないのではないか、ということなのだが、とにかく今日の一首。この歌をはじめて読んだときびっくりした。ただ「決心のような音」が聞こえるだけの歌だったから。派手な歌ではないし、似たような歌はほかにもありそうだ。でもすごく、齋藤芳生の歌、という感じがした。その「音」のみが言葉によって射抜かれているという感じ。その「音」が、過剰な抒情や意味を抱き込んでいない感じ。けれども、言葉によって何かが失われたというふうにはまったく思わない。「それだけを詠む」をしているはずなのに、それ以外が失われたような感覚はもたらされないまま、「それだけ」が「個」として生きている、というか。(上の石井の歌は、シンプルな言葉でむしろ複雑なあれこれを一気に掬い上げている。)

 

今日の一首からは、もちろん景も見えるけれども、どんぐりを踏んづけたときの「決心のような音」しか結局は立ち上がってこない。「音」だけがあまりにも印象的だ。その理由をこそ説明しなければいけないのだが、はじめに記したように、それが本当にむずかしい。「決心」ということの意味や「ケッシン」という語の音が「どんぐり」が踏まれて割れるときの「音」の表現としてまったく無理がないこと(無理がないと思うのは僕個人の感想だから、究極的にはそう言い切る自信はないのだけれど)、なぜ割れたのかという理由が歌のなかで明白であること、「ひとつぶ」といって個数まで明らかにしておりその「音」が想像しやすいこと、結句「たてたり」あたりを中心とした音の構成が内容に沿うこと、等々がどんぐりの割れる「音」のみを聞かせる装置になっているのだとは思う。けれども、そのように言ってもいまいち説明しきれた気がしない。「決心のような音」にまつわる読者の個人的な鑑賞や思い入れ、解釈ならばいくらでも語れるとは思うのだけれども。

 

修辞や内容の複雑さを抱えた歌はむしろ語りやすい。語ってしまえば、読んだ気になる。しかし齋藤の歌は、内容が明白で、修辞や構成もシンプルで、歌を読むということの喜びも読者にしっかりと差し出していて、しかし、僕には語りにくい。鑑賞や解釈はいくらでもできるのだが、その構造を分析的に語ることがむずかしい。シンプルだからむしろ語りにくいのだ、といったようなこととは違うなにか大きな秘密があるのだと思うが、いまいちよくわからない。……わからない、ということで今日は終わります。

 

朱のうつくしきフリーカップを選びたり掌にひったりとおさまる
立葵てっぺんまでを咲きのぼりああ高いなあ、会津の空は
河鹿鳴く声を聴きたり歌の友と一首をながく語りたるのち

/齋藤芳生「夏のうつわ」
※ルビ:掌=たなごころ