平岡直子


薄暮光けふは世界に触れ過ぎた指が減るまで石鹸で洗ふ

大室ゆらぎ『夏野』(青磁社:2017年)


 

歌に関係のない話からはじめてしまうのだけど、歌集『夏野』のあとがきを読んでびっくりしたのはこの一文。

現在住んでゐる家で猫の玉藻、犬のゆらぎと眞帆を失ひ、黒猫ななと小さい白い柴犬すずを迎へました。

驚いたのは「犬のゆらぎ」に対してである。これは著者の名前ではないのか。思わず表紙を二度見してしまった。著者名が本名にせよペンネームにせよ、家庭内の身近な存在と名前を共有するというのは普通のことではないと思う。諦念のつよい怜悧な歌が並ぶ歌集、というのが一読したときの印象だったけれど、それにしてはなんだかねじが外れている部分があるような。
この歌集には身近な生き物や植物がよく登場する。そのうちの多くが当然のように死んでいたり土に還る寸前だったりで、ときには「人」や「われ」にも及ぶドライな死生観が窺える歌集なのだけど、あとがきで丁寧に名前が挙げられる動物たちに関しては挽歌連作がひとつずつ割かれ、つよい悲嘆が詠われている。

速贄にされた蛙がひと冬を乾きつづけて薔薇の木にあり
十二月二十七日眞帆ちゃんは死んでしまひぬ目をあけたまま

この二首の温度差には、人にとって道端の生き物とペットとは意味合いが違う、とかでは簡単に片づけられないちぐはぐさがある。
そのちぐはぐさに対してひとつ腑に落ちる気持ちになったのは、

白鷺と青鷺一羽づつがゐて青鷺は白鷺の影のごとしも

という歌を読んだときで、この歌は言葉の操作がつよい歌だと思う。現実にはサイズも体のバランスもだいぶ違う、というかそもそも青鷺という鳥はいるけど白鷺は総称なので具体的にどの鳥なのかも確定できない、という非対称な二つのモチーフを、下句に単語同士の対称性を強調する形で再構成している。この歌に感じるのは言葉と言葉のあいだに密かな線引きをする性質で、下句の青鷺と白鷺のあいだに本体と影という線引きをすることで、上句と下句のあいだに現実と言葉の世界を鏡写しにする線も引いていると思う。にもかかわらず写実的な歌然としたこの歌のみえかたを歌集全体に敷衍すると、生死がボーダーレスだという感覚が基調になっているわけではなく、独自の位置に密かに引かれたボーダーがあり、一般的な感覚でのボーダーとのずれの部分にたとえば「ねじの外れ」を錯覚させられるような気がする。
白鷺の歌とも共通する、日常のスケッチの裏側で言葉が再構成される魔力を感じたのが掲出歌。それは、手を洗うときに触れる石鹸は「世界」の一部ではないのだろうか、という疑問をねじ伏せる力でもある。薄暮光=夕方の時間帯を提示しながら次に「けふは」と括ることで、夕方が一日の終わりであるかのような一線を引く。「世界に触れ過ぎた指」は指の摩耗も連想させるけれど、「指が減るまで」を連ねることで当然のように指に何かが付着した、という方向に振る。ひとつひとつ強引ともいえる誘導は文としてはなだらかな接続の部分に隠されているので、気づかないあいだに「世界/石鹸」のあいだに引かれた線を飲み込まされている。指は減っても石鹸は減らない。この石鹸にはきっと文字が刻まれているのだろうと感じるのは、歌集のなかに古典文学が多く登場することに拠る。

 

丹念に指がなくなるまで洗う/石部明
(本文にあまり関係ないけど思い出した川柳)