久我 田鶴子


たくさんの目が見ひらいてゐると思ふシンクに水を細くこぼせば

梶原さい子 『ナラティブ』 砂子屋書房 2020年

 

台所仕事に立ち、水道の蛇口を開くか、ボウルか何かに溜めた水をこぼしたのだろう。それにしても、シンクに水を細くこぼすと、たくさんの目が見ひらていると思うとは、一体どういうことなのだろう。

作者の産土の地は、宮城県の気仙沼である。東日本大震災の津波により、作者の見知っている人もたくさん亡くなったことだろう。この一首は、2017年の作だが、大震災から6年経っても生々しく、作者の中には〈あの日〉がある。シンクにこぼした水を見て、そこにたくさんの見開いたままの目が見えてしまうのも、〈あの日〉が過去になりきってはいない証拠だろう。

津波に一度に呑み込まれ死んだ者たちの目は、なお見ひらかれている。閉じることのない目は、この世に向けられている。自らの死に戦 (おのの) きながら、いまだそれを受け容れられずにいる。そして、この「たくさんの目」は、作者には〈あの人〉〈この人〉と具体的に名前を挙げることのできる人たちの目であるのかもしれない。作者はその目と向き合っている。幻視というには、あまりに生々しい。宥めてやらなければならない魂が、まだそこにあるのだ。

 

大鍋をたぎらせてをり瞬きをせぬものたちのその目を茹でる

 

大鍋をたぎらせて、「瞬きをせぬものたちのその目を茹でる」。その行為を想像すると、なにやら恐ろしくもあるが、たぶんこれは魂鎮めのおこないだ。宥めてやらなければならない魂をたぎる湯に潜らせることによって、あちら側へ送ろうというのだろう。

湯立 (ゆだて) ということがある。神前で湯を沸かし、巫女がその熱湯に笹の葉を浸して、人々に振りかけて浄めるというものだ。そう言えば、作者の実家は、気仙沼市唐桑町にある由緒正しき早馬神社であった。