土岐友浩


短歌のアダプテーション

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりしている  萩原慎一郎

三月二十五日、萩原慎一郎の歌集『滑走路』が映画化されると報じられた。発行は角川文化振興財団。角川書店と言えば歴史的に見てもメディアミックスを積極的に進めてきた会社で、十年ほど前に小島なおの歌集『乱反射』が映画になったのも記憶に新しい。

『滑走路』という歌集の説明は不要だろう。短歌に、社会に、「あなた」に、そして自分に、痛ましいまでにまっすぐぶつかってきた魂の軌跡が、ここに残っている。

日記ではないのだ 日記ではないのだ こころの叫びそのものなのだ  萩原慎一郎
おもいきり空に向かって叫ぶのだ 短歌が好きだ あなたが好きだ


短歌に、と僕は最初に書いた。三十二年の短すぎるその生涯で、萩原は「すさまじい数の」短歌を詠んだそうだ。歌集でも、なりふり構わずに短歌を詠む自分自身の姿が、繰り返し詠われている。パブリック・イメージはさておき、少なくとも僕にとって萩原は誰も適わないほどの情熱をもった「歌人」である。

その歌集が映画化されると聞いたとき、僕は喜ぶと同時に、そんなことができるのだろうか、と一抹の疑問も抱いた。慌てて言い添えておくと、これから公開される映画に注文をつけたいわけではない。まして水を差すつもりも、まったくない。ただ、非正規労働者であり、歌人でもあった荻原の、短歌的な側面に光が当てられることはあるだろうか、と気になったのだ。

小説や漫画の映画化は、珍しいことではない。一般に、ある作品を映画という別の作品にしていく過程では、途方もない労力を費やしての改変が行われる。どのシーンを採用して、どこを落とすのか。ストーリー、人物、時代やロケーション、その他すべてのディテール。そのように、小説や漫画など、ジャンルが異なる原作を映画作品に落とし込む作業のことを「アダプテーション」という。

角川『短歌』二〇一一年八月号では映画『乱反射』の公開を記念して、小島なおと栗木京子の対談や、光森裕樹と田口綾子による試写会の感想が掲載された。

映画の主人公は、小島自身をモデルとした「女子高生歌人」である。母親も歌人で、主人公は高校二年生のとき、短歌の新人賞を受賞する。栗木は「温かい余韻が残る映画でした。歌集が映画化されるのは中城ふみ子の『乳房喪失』以来でしょう。短歌史ではエポックメーキングな出来事ですよ」と映画化の意義を評価する。一方で田口綾子は、主人公を歌集の作者と重ねたことで、完成した映画が、歌集の内幕あるいは解題のように鑑賞されてしまわないかと危惧していた。

制作にあたって、脚本家は小島に綿密なインタヴューを行ったそうだ。歌集がどうすれば映画になるのか、という本コラムの関心に即して考えれば、作者、つまり小島なおという実在の歌人をもとに主人公を造形することで、映画としての説得力をもたせたと言える。

登場人物に歌人という属性を与えるのは、なるほど短歌のアダプテーションという難題への、ひとつのアプローチではあるだろう。

しかし、先に書いたことと矛盾するようだけれど、まだ見ぬ映画『滑走路』が、なんらかの意味で「短歌的」であってほしいかというと、僕は自分の心を決めかねている。歌人・萩原慎一郎の生き様を多くの人に知ってもらいたいのは事実だが、それはドキュメンタリーの役割ではないか。だとすれば、作品が一首だけでも映画本編のどこかに、そうでなくても、パンフレットの後ろの方に紹介されていれば、それで十分なのではないか。

そんなことを考えながら、いや、そうではない、と僕は思い直す。結局のところ、歌集が映画になるとは一体どういうことなのか、僕自身がうまく想像できていないだけなのだ。

僕は二年ほど前に観たジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』を思い出す。ニュージャージー州の「パターソン」という街に住む「パターソン」という名前の詩人が主人公の映画だ。

詩人といっても、その詩を読んだことがあるのは主人公の妻以外にいない。アダム・ドライバー演じる主人公の生業は、バスの運転手である。簡単な朝食をすませ、出勤し、街にバスを走らせる。様々な人を乗せて。休み時間に外で弁当を食べながら、一冊のノートに詩を書きとめる。


We have plenty of matches in our house.
We keep them on hand always.
Currently our favourite brand is Ohio Blue Tip,
though we used to prefer Diamond Brand
That was before we discovered Ohio Blue Tip matches
They are excellently packaged, sturdy
little boxes with dark and light blue and white labels
with words lettered in the shape of a megaphone,
As if to say even louder to the world,
“Here is the most beautiful match in the world, …”

僕たちの家には、たくさんのマッチがある。
最近のお気に入りは、オハイオ・ブルー・チップというマッチだ。
パッケージが素晴らしい。
箱の手ざわり。青と白で書かれた文字。
その文字はメガホンのような形をしていて、
まるで世界に向かって、こう叫んでいるようだ…


大意はこんな感じになるだろうか。いわゆる逐語訳ではないのをお許しいただきたい。

僕は冒頭近くの、この詩のシーンから一気に映画の世界に引き込まれた。マッチ箱は市井の人として生きる主人公自身の比喩だ。そこから引き出される「声」。

非常に散文的な書き出し(=We have plenty of matches…)から、ゆっくりとマッチ箱の描写に移り、いつの間にか「詩」がそこに生まれている。この構成がうまい。

アダプテーションという観点からも、本作品は多くのことを教えてくれる。たとえば「韻」。主人公の名前と街の名前が同じ「パターソン」だというさっきの話は、言わば映画的な「韻」である。ついでに言うなら、アダム・ドライバーが運転手(ドライバー)というなんだか冗談のような設定もやはり「韻」だろう。

僕たちは詩人というと、恋や人生に苦悩する、生きづらそうな人間を思い浮かべてしまうかもしれない。その悲惨な人生と引き換えに、美しい詩が残されるのだと。

ところが、この映画に苦悩は存在しない。「詩」は淡々とした、散文的な日常のなかで韻を踏むことによって立ち上がっていく。言い換えれば、詩におけるアダプテーションとは、世界全体を韻文的に再解釈することなのだ。

この「解釈」というプロセスを省くと、「詩」は世界からも、人々からも浮いてしまうことだろう。そう思うと、「詩」を映画に溶け込ませるために、さまざまな仕掛けが施されていることに気づく。だからこそ僕は、楽しい気分で劇場を後にすることができた。

短歌はどうだろうか。

日本の映画作家のなかで短歌のアダプテーションをもっとも突き詰めて考えたのは『ひかりの歌』を撮った杉田協士監督だろう。

この映画は、公募で選出した四首の短歌を元に制作された、短歌のアダプテーションそのもののような作品である。それぞれが独立した三〇分強の短編映画で、それらをまとめたものが長編映画として二〇一九年一月から順次全国公開された。事実上、全四章構成のオムニバスである。

自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた

第二章の原作となった短歌はこちら。作者は宇津つよし。

杉田は『ねむらない樹』第三号収録の座談会で、「その短歌一首だけで描写も含めて完成されているものは外していました」と選考基準に言及している。その上で「自販機に謝ったりすることそのものが面白いわけではなくて、誰かの人生の中でそういう一瞬があった。作者の人も、なんでわざわざその人物の、その一瞬を選んだんだろう。もしくは、その人の人生だっていろんな瞬間があるはずなのに、そこに光が当たる人って何だろう」と、僕なりに要約すれば、ある人物の人生と一瞬、という尺度から短歌を捉え直してみせた。

実際の脚本が書きあがるまでのいきさつは、noteに公開されている。

「自販機の光」
https://note.com/kyoshisugita/n/n0da1befac7f8

この記事によると、杉田監督自身が幼い頃に父と行った「柚木石油」を再訪したとき、そのガソリンスタンドを舞台に、そこで働く女性を主人公にした物語を着想したようだ。映画で使われたオロナミンCも、監督の思い出のひとつだったことがわかる。

『ひかりの歌』の隠れたモチーフは「人生」ということになろうかと思う。『乱反射』で実在の歌人を主人公にしたのとは対照的に、原作者から離れて、歌人ではない、表現者でもない人々の人生が描かれた。もちろん、それはどちらの方法が正しいという話ではない。

そして『パターソン』とも違って、『ひかりの歌』の作品世界が韻文的になるのは、各章の最後の最後、ほんの一瞬である。それまではむしろ韻文の気配を抑えに抑えて映画は進んでいき、ラストカットで、短歌的な何かが掠めるように画面をよぎる。その余韻。第四章だけはすこし違うとしても、全体としてはそういう構成になっているようだ。(これは世迷い言と思って聞き流してほしいのだけれど、僕がもし第二章の主人公だったら、登場人物の男全員を焼き殺して開始五分で映画が終わっていたに違いない。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のレオナルド・ディカプリオのように。)

韻文的な一瞬の出来事に向けて、人生が、人生の長さとして進んでいく。

この構成は、原作となった短歌が、散文的な口語短歌であることとも無関係ではないかもしれない。人生という散文的で長い時間を軸にしながら、一瞬の時間に「ひかり」を当てるということ。この映画の視点は、口語短歌の読み方に新しいヒントを提示しているのではないだろうか。

杉田監督はつい先日から、東直子の歌集『春原さんのリコーダー』を原作とする新作映画を撮り始めたそうだ。三月二十三日に、監督はツイッターでこうつぶやいている。


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「映画『春原さんのうた』。東直子さんの短歌が原作です。今日はちょっとしたシーンを撮って、次はずいぶん先になります。少しずつ、もしかしたら半年くらい、ぽつぽつと撮影していきます。いつか届けられますように。今日は雨が降ったり、陽が射したり、風が吹いたり。春らしい一日でした。」
https://twitter.com/kyoshisugita/status/1242081832176209922?s=20

「ちょっとしたシーンじゃなかった。これからはじまることがここにあるようなシーンだった。予定がいろいろ未定の撮影になったけれど、その都度、思い出せる。いただいたおいなりさんやビーフストロガノフ、お菓子、ワイン、コーヒー、ぜんぶおいしかった。」
https://twitter.com/kyoshisugita/status/1242249787807678466?s=20


これから、何が始まっていくのだろう。季節は移り変わる。いま世界を覆う災厄は、いつか収まるのだろうか。半年をかけて少しずつ映画を撮っていくという営みに、監督の作家性を感じるとともに、僕は人生の先にある希望のようなものを見出せる気がしている。

 

『滑走路』萩原慎一郎
https://www.kadokawa.co.jp/product/301705000794/

映画『乱反射/スノーフレーク』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=B5DNDYAE9GE

映画『ひかりの歌』監督・杉田協士
http://hikarinouta.jp/