阿木津 英


ユマニテの人・木下杢太郎

丸井重孝著『不可思議国の探求者・木下杢太郎』(短歌研究社、2017年10月15日刊)については、図書新聞の下半期三冊のアンケートでもとりあげたし、熊本日日新聞の読書欄コラム「阿木津英が読む」(1月7日付掲載予定)でもとりあげたが、いずれも紹介が中心になった。ここには、わたしがなぜ本書に注目するのか、自由に述べてみたい。まず、図書新聞に紹介した短文を再掲して、本書の概要紹介に替えよう。

 

 明治四十年、与謝野寛・北原白秋・吉井勇・平野萬里・太田正雄(木下杢太郎)五人は、柳川・天草など一ヶ月にわたる「五足の靴」の旅をした。彼らは、森鴎外を中心とする観潮楼歌会の仲間でもあり、同時にパンの会の仲間でもあった。本書は、杢太郎の交友関係の親疎を資料と文学から丁寧にたどりつつ、しだいに精神史ともいうべきその内面をあぶりだす。やがて杢太郎はヨーロッパでの留学体験によって、「ユマニテの精神」を確立する。晩年、連日の空襲警報のさなか、こういう時局だからこそ勉強しなくちゃいけない、知恵と知識を区別せよ、知恵を学ぶには古典に親しむことだと学生たちにさとしたという。しずかな感動を覚える一書。著者は、現在、伊東市立木下杢太郎記念館に勤務。 

 

著者は、杢太郎生家の近くに生まれ育ち、教職を引いたのち杢太郎記念館に勤務するようになったという。本書は、所属誌「星雲」に平成二十三年五月から平成二十八年九月まで、計三十三回にわたって連載したもの。

 

まず第一に、歌壇の評論にはめずらしくと言いたくなるくらいに、資料のあつかいが丁寧であること。先行研究を精査して発言を尊重し、出典を明確にしているところがたいへん良いと思った。著者の意見に同感できかねる箇所、疑問を感じる箇所はいくつかないわけではないが、しかし、それが少しも読書の障りにならない。それによってこの書に対する信頼が損なわれるということがない。確認したければ出典をたどっていくらでも調べ、反論することができるという安心感があるからだ。

 

しかも、ひかえめな叙述の仕方にもかかわらず、いままでこんな杢太郎は見たことがなかったと思うような、魅力的な全体像が読後ほうふつとして立ち上がってくる。戦争協力歌をつくるようになる茂吉や白秋たちときわやかに道筋を異にしてゆく経緯、もっとも近接しつつ鋭くはじきあった啄木との思想的関係、それらがおのずとたちあがる。若い日から一貫した関心を成長させていった杢太郎の全体像とその精神史が浮かびあがってくる。

 

それをひとことで言うなら、「ユマニテの人」。青春期の疾風怒濤時代を過ぎて医学に専念、満州に行き、さらにヨーロッパ留学体験を経て、杢太郎は思索的に大きく変貌を遂げ、「ユマニテの人・杢太郎」が誕生していった。そう、著者はいう。

 

留学から帰国直後の大正十四年、杢太郎は、「明星」二月号に「仮名遣改定案抗議」という文章を寄せて、白樺派の文学者たちを「ユマニテ」という視点から批判した。

 

 今は人道主義といふのが日本文学の主潮でありますが、この人道主義といふものは、仏蘭西などで云ふ、ユマニテエ、ユマニスムなどゝいふ意味とは余程違ひ、甚だ国際的であり、社会主義的であり、且つ偶像(伝統)破壊主義的であります。従つて内容(思想)主義で形式に重きを置きません。それで文章が乱暴であるなどゝ云ふことに何等の顧慮を費やさないのであります。其派の文学者はずつと前から仮名遣などは勝手でありましたし、又画の少しむづかしい漢字をば片仮名で書いて居ました。

 

じつに面白い一節だ。フランスの「ユマニテ」humaniteは、「ヒューマニティー」humanityとは違うのだという。人道主義、すなわちヒューマニズムは「国際的であり、社会主義的であり、且つ偶像(伝統)破壊主義的」「従つて内容(思想)主義で形式に重きを置」かない、という。

 

日本におけるヒューマニズム受容には、ずれがある。ヨーロッパ近代始まりの時期におけるギリシャ古典の人間美の発見の意味、その尊重といった歴史的な積み重ねがない。白樺派の人道主義は、したがって十九世紀の社会革命的な色彩が濃いということを、杢太郎は言おうとするのだ。

 

近代資本主義社会の成立と成熟にしたがって、ヒューマニズム概念も変遷してゆく。自由主義と社会主義はコインの裏表のようなものだから、いずれも言語・文化の均一化均質化へと向うはたらきであり、したがって形式破壊をともなう内容第一主義である。一方、それに対するに、国家主義と結びついた復古主義・伝統主義が生まれてくることになる。杢太郎は、そのいずれにも批判をもった。そのことが、本書を読み進めているとしだいにあきらかに浮かび上がってくる。

 

大逆事件の前後、杢太郎はしばしば啄木をおとずれた。国家の圧力がパンの会周辺にも及んでくるにつれて、「国家と個人」ということが、他人事ならず大きな課題として迫ってくるのを感じていた。著者は、その重要なターニングポイントとして、故郷の伝統行事を見聞した紀行文「海郷風物記」(明治四十四年発表)をあげる。杢太郎は、消防組の若衆の稽古が在郷軍人の嚮導によってなされているのを見て衝撃を受けた。生活を芸術にする共同体の伝統行事に感銘しつつ、こうして「衆生の心を統一」してきた共同体の中枢を「軍国主義」がとってかわり、「国家」が人々の生活を包み込んでいこうとするさまを予見したのである。

 

ヨーロッパから帰ってきた杢太郎は、東洋・西洋の文明文化の起源と交流にいっそう深い関心をもつようになり、古典尊重の立場をとる。ギリシャ古典から人間美を再発見することによって、個々特殊の言語や文化を多元的に尊重しようとする近代初期の「ユマニテ」の精神を、杢太郎は自らのうちに確立していった。

 

ずいぶん昔のことになるが、文庫本になった杢太郎の『百花譜』を見つけて買ったことがある。激しい空襲のさなかに、毎日採取してきた草花を灯火管制のもと写生しつづけたことを知って、不思議な感銘を受けた。茂吉の弟子佐藤佐太郎にむかって、愛国歌はつくらないほうがいいね、茂吉の歌もその種のものはよくないと、言った話は有名だ。そんな杢太郎の寡黙な、夜おそくまで暗い灯のもとで草花を写生しつづける背中――解きがたい謎のように思われたものが、本書を読んでいくぶんわかったような気がする。

 

それは、戦争という野蛮な破壊行為に対する、たったひとりでするぎりぎりの抵抗であった。科学の粋をきわめた兵器による破壊行為に、草花の写生という人間の文化行為をもって、たったひとりの意志が闘う姿であった。

 

 爆撃中は大学は講義ができないわけです。みんな疎開したり学生もゐなくなつて医学部も非常に少なくなつてゐました。空襲警戒警報の中で講義を始められまして、私がちやうど行つてゐるときにひどい爆撃になりました。(略)講義が終つて出てこられた先生は、私の姿を見るといきなり「君、やつたよ」と頬を紅潮させていはれました。

「木下杢太郎の教訓」杢太郎記念館シリーズ第五号 昭和四十九年

 

雑誌「文芸」の編集者だった野田宇太郎は、このように書く。すざまじい爆撃の続くなか、講義をするという文化的な行為をもって、杢太郎はあたかも戦士のように闘ったのである。

 

あるいは、日記に「日本人―東洋人の道徳の根本原理は論語の朝聞道夕死可也矣に在る」「古典の真の重要なる用は夜郎自大をさけることだ」としばしば書いたという。日本近代が、真に古典を尊重するという精神につらぬかれてあったのだったら、「夜郎自大」な戦争を始めることもなかっただろう。

 

また、あるときには、防空壕からようやく這い出してきた学生たちに向って、「君たちは、勉強しているか」と問うた。「こういう時局だからこそ、勉強しなくちゃいけない、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」、こう言って、次のようにつづけたという。東京帝大生・萬年甫の回想である。

 

 「君たちは知識と智恵を区別しなくてはならない。知識は、人間が知的活動を続ければ続けるほど無限に増えてゆく。でもいくら知識を積み重ねても、それでは知識の化け物になるだけだ。それではいかん。人間のためになるようにするには、智恵が必要だ。では智恵を学ぶにはどうすればよいか。古典に親しむことだ。古典には人類の智恵が詰まっている」

立花隆『天皇と東大』文春文庫 平成二十五年

 

知識と智恵は異なるとは、かくべつ耳新しいことではないかもしれないが、初めて聞いたような感銘が、このような言葉からたちのぼる。知識は集積によって価値が増大するだろうが、智恵はそういうわけにはいかない。わたしたちは、ひとりひとりが古典から智恵を読み出さなければならない。ひとりひとりの内部に「読み出す」という人間的な創造行為あってこその智恵なのである。