濱松 哲朗


これからの私たちが語るために

ブームって搾取だよなと思う。

今さかんに喧伝されている「短歌ブーム」というのは、巨視的に見れば、SNS等によって加速化した“あなたにとって最適な何か”の提案(それは当然のように何らかの「市場」を「回す」ことが想定されている)のなかに、短歌が「おすすめ」として潜り込みやすくなった現象だと言える。個人的は、もう「anan」が現代短歌特集に8ページ使ったくらいでは驚かなくなってしまった(2022年10月5日号(第2317号)「三十一文字の言葉の世界。2022年の現代短歌シーンを探る!」)。むしろ「anan」で8ページと聞いて私が感じたのは、今後はこれ以上の何かを仕掛けなければならない、では一体何をすれば良いのかという、ある種の行き止まりだった。「anan」をはじめとして、大手の雑誌は今では誌面内容がすぐにオンライン化され、自社媒体やニュースサイト経由で広く配信される。8ページもあれば、Webでは複数記事分「こすれる」だろう。活字メディアの現状における拡散の最大値を見たような気がした。

勿論、どのようにして短歌と出会い、読み、作り、関わるかなんて人それぞれで、そこには良いも悪いもないし、何より私自身がそうした個人的な話題を人からとやかく言われるのが大嫌いなので、敢えてこちらから何か言うつもりもない。各々好きにやっていけば良い話だと思う。だが一方で、これらは本当に「個人」の選択の領域の話なのだろうかという疑問も時おり浮かんでくる。活字メディアやインターネット、あるいはSNSといった、個人を超えた力学の影響を、個人の選択の問題へと安易にすり替えてしまうことは、そこにある構造への批判的視座を見失うことにつながりかねない。だから私は、ブームという現象に対して、あるいはそれを仕掛け、目論見、収益を得ようとする者たちが持つ欲望の気配に対して、いわゆる愚鈍化の論理が働いていないとは絶対に言わせない。

こういう時、短歌に片足を突っ込んでいる人はすぐ、ジャンルの裾野が広がることの方が大事だから、将来的に自分たちにも利益が還元されるだろうからと、安易に自己を納得させてしまいがちだ。だが、すでに物事は私たちの相互承認の領域を飛び出して、一部の利する者と多くの束縛される者という搾取の構造を取っている。ジャンルの肩を持つ語りは、私たちがみずからにすすんで何かを強いることをゆるしてしまうメカニズムの補強につながる可能性がある。こちらにはそんな束縛を引き受けたつもりはないにもかかわらず。

「うた新聞」11月号で、郡司和斗が次のように書いている。

 

 三千円のクオカードがもらえるのならまだマシな方、みたいな状態はほんとうに渋いなと思いつつ、でもそもそも商業的にとても成り立たないジャンルなのであれば、誰かが人生の様々なコストを払って身体や精神を壊しながら詩歌の出版業を回してくれていることに対して感謝の気落ちが湧いてこないわけではない。ただそのことと搾取的依頼を許容するかどうかはまた別問題だと思う。思うけれど実際の思考はかなり近いところで行われていると、自分の内省レベルでは感じる。
(郡司和斗「誰か/茂吉」「うた新聞」2022年11月号)

 

原稿料の話をする時、私も郡司と同様、そこにある仕方なさを引き受けたつもりはないんだよなと常に感じる。私自身かなり面倒くさがりのところがあって、今年も「20万円に満たないから確定申告にならないね、良かった」等と思っていたが、ほんとうはちっとも良くないのである。

だが同時に、私含め「三千円のクオカード」を嘆く書き手の心の根底には、一人の書き手における個人の自己責任論と、短歌が他の活字メディアと無理やり等価化された上で発生するジャンル的自己責任論とが、互いを過剰に刺激し合いながら折り重なっているようにも思う。ジャンル内の経済構造を変えていく必要があるのは当然として、他方で私たちは、ふとした拍子に「(社会的・経済的に)成功した書き手」という理想像を内面化してしまってはいないだろうか。この理想像には当然ながら、ある種のヒエラルキーへの従順さが前提とされている。

加えて、自己責任的であるとは要するに、頭のなかで常に「お前のせいだ」という自分の声が鳴り響いているということだ。原稿料の単価が低いのはお前の実力不足のせいだ、あるいはお前が短歌などというジャンルを選んだせいだ、という過剰な自己批判の声に心を奪われてはいけない。

もっと言えば、短歌の原稿で自活できないのは短歌のせいだ、という短歌自責論(?)も退けるべきだろう。そうした語りは、ともすればジャンルのマイナー性に倚りかかった上での煽動的な揶揄や、「不正に」評価を受けている書き手がいるはずだという陰謀論に傾く可能性がある。原稿料を得ることはたしかに経済的な活動として健全であるが、その意識が他者を蹴落としながら勝ち取ることへの執着として過剰に顕在化するのであれば、そこには個々人の精神的な側面以上に、自分たちが晒されている構造における何らかの瑕疵を疑う必要があるだろう。引き受けた覚えのないところに蔓延っているからこそ、人はそれを構造して名指そうと試み、批判するのである。

それゆえ私は、郡司の主張に概ね同意した上で、こうした構造的自己責任論に対して「自分の内省レベル」で立ち向かうことが余計に自己を疲弊させてしまう危険性を、敢えて強く指摘しておきたいと思う。ほんとうの敵はそこにはいない。もっと根深く、しつこく、それでいて人道的な姿をした「それ」を、いかにして見定めるかが試されている。

 

 

引き続き、やや残酷な予測をすれば、ブームによって書き手が増えることはむしろ私たちの原稿料の単価を下げることにつながると思う。新たな書き手が参入しやすい環境とはたしかに健全であるが、自由競争を名目とした搾取を実践する側からすれば、替えやつぶしのいくらでも効く環境だということでもある。歌人同士で回っていた歌集評や作品評の依頼も、ともすれば売上やPV数を目論んで、今後はより拡散力のある書き手が選ばれてゆくかもしれない。それに抗う言説は「健全」な市場を妨げるものとして排斥されるだろう。ここにも過剰な自己責任を内面化させ、批判的視座をそもそも奪おうとする構造が横たわっている。

けれど、そうした一元化された市場の勝ち負けの物語に加わるために、私たちは短歌を選んだり、物を書くことを志したりしたのだろうか。そんな構造に同意したつもりはないのに、どうして気がついたらそんな「現場」の真っただ中にいるのだろうか。

そういったことを考えながら手に取ったマーク・クーケルバーグ(Mark Coekelbergh)の新著『自己啓発の罠 AIに心を支配されないために』(田畑暁生・訳、青土社・2022年11月、原著も2022年刊)を、ひじょうに面白く読んだ。

 

私たちは、私たちを縛りつけようとする社会の圧力に抗うべきなのだ。マーケターや、ソーシャルメディアのインフルエンサー、広告業者などが言うことに耳を傾ける必要はないし、他人が私をどう思っているかを過度に気にかけない方が良い。
(マーク・クーケルバーグ/田畑暁生・訳『自己啓発の罠 AIに心を支配されないために』青土社・2022年11月)

 

先んじて書いておくが、クーケルバーグはなにも自己啓発という人間の営み全てを批判しているわけではない。現代社会において、自己啓発が一種の「ウェルネス資本主義」と化し、「自己」というものを制御可能かつ制作可能なものだと見なす誤った前提のもと、自己の「改善」を自発的に促進するような社会的囲い込みが、すなわち搾取の成立に関わる政治的・経済的構造が、AIのようなテクノロジーの発展を巻き込んで発現している点を彼は危険視しているのである。「競争と市場に関するネオリベ的な物語」「「自己作り」の背景」となっている限り、そこには「組織化されたナルシシズム」が存在し、「自助産業」の横行をゆるすことになるだろう。

いきなり何の話を、と思われた方もいるかもしれない。だが、話を少しこちらに引き寄せてみれば分かることだ。――そう、何故「短歌ブーム」は起きたのか、ブームとは何かという問いについて。

三十一文字に対する手軽さの感覚は、140字という別の字数制限に馴れた者にとってはより鮮やかでかつ軽やかに見えたことだろう。その上、SNSは私たちの認識のあり方にも変化をもたらした。もはや死語となりつつある気もするが、「エモい」や「映える」といった発想の拡大と通俗化にSNSは大きく貢献した。あるいは「バズる」という現象。私たちはそこで、より良くデザインされた言葉の構築物が持て囃しや炎上の対象となることを学んだ。短歌の定型が拡散のために最適化されたデザインであるとはさすがに私も思わないが、しかしこれまでにも、ニュース記事の見出しやWikipediaの記述のなかに五七調や七五調の気配やリズムの良さを察知するケースは多く見られた。短歌が短歌として読まれることよりも、ある文字列が五七五七七というデザインに流し込まれた成果物として見えることが、短歌定型が「いいね」的価値観と結託する上で重要だったのではないか。

いま、「いいね」的価値観と書いた。テクノロジーは「いいね」という形で私たちが情報に反応し、相互に拡散し合う環境を創出したが、一方で個々の感情は「いいね」に一元化され、数値として集計されるようにもなった。そんな状況に、私たちはすっかり馴らされてしまっている。SNSという場は、建前上は利用者の「自発的」な発信や拡散によって構成されるが、実際には、いかに受容され需要されるかという競争の論理のもと、クーケルバーグの言葉を借りるなら「競争と市場に関するネオリベ的な物語」に則って動かされている。過度な競争のなかで個々人の細やかさや独創性などは徐々に置いてけぼりにされる。

疲れる、疲れた、と何度も思う。このコラムページにもしも閲覧数カウンターがあったら、私は毎月一日には5分おきにF5キーを連打して数値の変動を見守る人になっていただろう。あるいはTwitterを告知専用にした上で通知を全てOFFにし、あらゆる他者との関係性を過剰に断っていたことだろう。笑い話ではない。SNSという価値観浸透型メディアによって、私たちは自身のキャリアを、あるいは自分の作品を「正しく」デザインしようという願望を常に補充してしまっている。そこに含まれる、ある種の構造への従順さと自己責任論とに、見て見ぬふりを繰り返しながら、無報酬の数値集計に魂を奪われる。実際私は、あらゆる告知ツイートのインプレッション数は確認しないことにしているのだが、いわゆるデジタルデトックスすら、形こそ違うが、もはやある種の「強いられた」自己啓発の運動の一環でしかない。

目線を更に拡大してみよう。

新人賞が発表されるたびにSNSや匿名掲示板がざわつくのはいまに始まったことではない。そうした一種の「祭り」の熱狂のなかで、私たちはみずからを「正統」に引き入れてくれるかもしれないものたちを無意識のうちに「公式」化して権威づけを行い、自己責任的な「傾向と対策」の取り組みに躍起になっていないだろうか。受賞者に受賞の「秘訣」や「対策」を訊こうという発想に対して、私は呆れつつもやや見慣れてしまったように思っているわけだが、しかしこれらの過剰さに対して批判を投げかけることを諦めてしまってはいけないとも思うのである。私たちはみずからの「ほんとうにやりたかったこと」を忘却した上で、市場価値という名の仮面をつけなければ、もはや書き手としてやっていけないのであろうか。そんなことはないはずだ。クーケルバーグは言う。「ラットがその恐ろしい人生をわずかに改善することでいかに自分を助けるかを語るのではなく、ラットレース自体について考えなくてはならない」――。

無論、良い作品を生み出そうという努力や試みを退けたいわけでは毛頭ない。インターネットやSNS、あるいはAIといったテクノロジーは、個人一人きりでは考えもしなかった発想や言葉に出会う機会を私たちに与えている。創作における旧来的な「個人」の物語そのものを問い直す必要だってあるわけだ。

しかし、現実に起きているのはイノベーションではなくてハレーションであるように見える。どうも私たちは、新しい「個人」を打ち立てることではなく、既に手元にある持ち駒を再使用し続けることで不変の個性(そんなものあってたまるか)を求めがちだ。作者と作品における〈私〉をいかに切り離すかにあれだけ苦心していたはずなのに、作品制作を通じた作者自身の自己を啓発しようという運動に対して、どうしてこうも無防備かつ無批判でいられるのだろうと、うすら寒く思う。自助的に改善され、最善であると承認されたもののみによって社会(≒文学、歌壇、短歌界etc.)を構築しようとする発想は排他的であり、搾取を肯定する萌芽となるだろう。

そんな想定は所詮、お前の自己肯定感が低いから生じるのだと言う人は、実はその自己肯定感という発想それ自体が現代において自責を強いるビジネスの筆頭となってしまっている事実と、一度向き合ってみたらどうだろうか。

SNS時代の創作が加速させたものは、結局はひどく旧来的な浪漫主義的「自己実現」と「自己責任」の物語でしかなかったのではないか。こうするつもりは誰にもなかっただろうと思うが、しかし一方で、私たちが求めていた未来はこんなものではなかったはずだ。

 

 

こうした自責的ラットレースに、AIをはじめとするテクノロジーが追い打ちをかける。浅野大輝「塔」10月号および11月号の時評で、AIによる作品制作が可能となりつつある現在の状況を踏まえながら、次のような悲観的予測を提示する。

 

(…)もしも歌集数冊の情報があればだれでも簡単にAIで短歌作品が作れるのだとしたら、「歌集を数冊出しているから、もしかしたらもう自分では作らずに、全てAIに作ってもらっているのではないか」ともいわれうる。つまり、これまでなら作品を世に送り出すことで積み上げることができていた〈歌人〉としての実績が、「高品質な短歌を生成するAIが誰でも簡単に利用できる」という状況下においては逆に「その〈歌人〉は本当に今も自分で歌を詠んでいるのか?」という疑念に転じることになる。
(浅野大輝「魔法は歌人を殺すか(前)」「塔」2022年10月号)

 

この問いかけに私も一瞬たじろいだわけだが、しかし落ち着いてみると、この筆者はずいぶんと手の込んだ意地悪を仕掛けているなと思うのである。たとえば、次のような箇所。

 

(…)現在はもはやAIが短歌を詠む世界が実現しつつあるのを前提に、「AIのある世界でどんなことが起こるのか/どう動くべきなのか」という問いを考えるフェーズにあるだろう。
 〈〉自身が作品をはずだという暗黙の期待が無効化され、作品発表という活動の意味が変わり、これまで〈歌人〉として扱われてきた人々への疑念が広まる――これは随分意地悪な予想だが、今後の技術発展を思えば、〈歌人〉という存在や〈詠む〉という行為の意味が変容するのは確実だろう。〈歌人〉は死ぬか、もしくは役割における作品制作の範囲を縮小させて作品の読解の範囲に存在意義を見出すようになるかもしれない。
(浅野大輝「魔法は歌人を殺すか(後)」「塔」2022年11月号)

 

確認しておきたいことは二点だ。一つは、この時評はAIが創作の分野に参入してくることを阻止しようなどとは決して考えていないということ。むしろ積極的に、これからの私たちはAIというイノベーションの存在を前提とした上でみずからの創作と向き合っていく必要があるだろうと浅野は考えている。

もう一つは、要所要所でカッコ書きされた〈歌人〉について。AIの出現に伴う〈歌人〉の死を予測する浅野の言説にもし主語を加えるとするならば、それは「私たち」になるだろう。そして「私たち」のなかに〈歌人〉は含まれていない。創作する自己の営為がAIによって丸ごと補完されてしまうなどとは、彼は最初から考えていない。むしろ「私たち」がよりしなやかかつしたたかな態度と意図をもって、新しい時代の作者としてやっていくことを彼は求めている。AIの存在や恩恵はとっくに織り込み済みで、それでもものを書こうとする人間のことを彼は「私たち」と呼ぶだろう。まさか「あなた」は、AIごときで代替可能な程度の〈歌人〉ではありませんよね――、という強い皮肉が、この時評には込められている。

テクノロジーの進歩に応じて、短歌も、それを作る私たち自身もまた、変化していく必要がある。それは市場原理によって強いられた進化や固着化ではなく、柔軟でかつ可変的なものを志向しようという、真の意味でのイノベーションであり、それこそが本来的な意味での自己啓発である。

市場化された「自己実現」の欲望、浅野の言葉を借りるとすれば「〈歌人〉としての実績」という自身の商品価値化の欲望は、時にテクノロジーすらも排除すべき「他者」として認定するだろう。何故ならAIが秀歌を生産することを「不正」であると認定するのは、倫理的な視点というよりむしろ経済的観点であるからだ。イノベーションを突き返すということは、保守化の第一歩である。「私たちがあまりにも自己啓発に囚われると、目的を逸し、追及する価値のない自己になってしまうかもしれない」とはクーケルバーグの言葉だが、実際にいま、私たちは自己を更新していると見せかけて、ある種の後退を、保守化を引き寄せてはいないだろうか。

ここからは私の悲観的観測であるが、かつて岡井隆が想定した以上に私たちはいま、「ただ一人の人の顔」を短歌を通して見ているのではないか。作品の読解から必要以上に「人生」を煮沸消毒した結果、作中の〈私〉は技術論以外に行き場を失い、ふたたび作者という現実の個人に還元させてしまっていないだろうか。韻律についてもそうだ。句跨りや句割れが技術や意匠として継承される過程で、前衛を標榜した作者たちの念頭にあったはずの批判的意識が忘却されかけているように思う。こうした保守化の根にあるのは、先述したように、「自己」やその制作物を「管理」し「制作」し「完成」させようとする過剰な欲望たちである。新人賞の選考委員の「読み」の傾向はAIが無くとも解析され、データ化された上で対策されてきた。「正しく」「突出した」何かであろうという自己実現的欲望の過剰さを、それを錬成してやまないこの社会の構造を考え直さない限り、私たちはテクノロジーをいくらでも、こうした欲望に従わせてしまうだろう。

 

私たちは、社会として、個人として、私たち自身についての異なった物語が必要である。「現在の語り」を信じ、その中で生き続けるならば、社会が変化する見込みはほとんどない。しかし、もし異なった物語を語り始めるならば、物事は変わり出すだろう。(…)変化を望むのであれば、旧来の地平に抗し伝統に対して応答するだけでなく、編集を行い新たな物語を書くほかない。個人レベルだけでなく、社会や文化のレベルでもそうである。自己啓発も自己改革も、個人および社会レベルの解釈的プロジェクトであって、語るという仕事が必要なのである。これは私の仕事であると同時に私たちの仕事である。私の、そして私たちの、「解釈的責任」である。語られることについて、私たちは完全に自由ではなく、完全にコントロールできるわけでもない。私たちができるのは、私たちの物語の共著者になること「だけ」である。
(マーク・クーケルバーグ/田畑暁生・訳『自己啓発の罠 AIに心を支配されないために』青土社・2022年11月)

 

かつて俵万智『サラダ記念日』(河出書房新社・1987年5月)のあとがきに「原作・脚色・出演・演出=俵万智、の一人芝居――それがこの歌集だと思う」と書きつけた。しかし私たちは、俵という作者が歌を力ずくでコントロールしようとしていないこともまた知っているはずだ。「現実」においてはカレー味のから揚げだったものから「心の揺れ」を感じ取り、定型を通してそれを問い直し、「サラダ」の「味」として新しくする精神の営みが、新しい自己と出会おうとする試みがそこにはあった。のちに俵自身、「全部がほんとうではないし、全部が噓でもない。心の揺れは、たしかにほんとうに私の心に宿ったもの。けれど、それが言葉というかたちになる過程では、現実から離れてゆくこともある。気どった言い方をすると「現実よりも真実を」ということなのだ」と書いている(『短歌をよむ』岩波新書・1993年10月)。一人芝居において「自己」では制御し切れない何かと、むしろ積極的に戯れようとしていたのである。

もし私たちが自分自身の「著者」だとしても、完全にコントロールするような自律性は十分に備えていない」とクーケルバーグは書く。傑出しつつ最適化され、自立と自律に裏打ちされた、正統なる制作物としての〈歌人〉≒作者という過剰な理想像と「競争と市場に関するネオリベ的な物語」とを手放しながら、いかにして新しい「自己」を、作品を、場を生み出し、更新し続けていくか。それこそがSNSやAIとともに生きるこれからの私たちにとっての、ほんとうの課題ではないだろうか。みずからのクリエイティビティを消費し尽くし、消耗しないためにも。

 

 

語り尽くした、というつもりはない。どれだけ字数を費やしたところで、それと同じかそれ以上に私は日々考えをめぐらせて変化している。一年が経過するなかで、文章間で矛盾も生じてしまったように思う。だが、私は私自身の、あるいはこの文章を読んだ誰かの心の変化の可能性を諦めないように努めたつもりである。それは私の「安心自由帳」が、私だけのものであることなんて、どうにももったいないと思うからだ。

ただ、もう少し身体にやさしい書き方をしても良かったかなとは思う。全12回の原稿は、どれも苦しみながら、月末の夜から月初めの明け方にかけて一気に書いている。一気書きの理由は単純で、私は事前のメモに従って書くことが極端に苦手なのである。ブレストなんて出来た試しがない。字数の海に潜って考える方がどうにも性に合っている。しかしこれも、あるいは私の保守的な一面であるのかもしれない。変化の余地は、まだまだある。

一方で、私は私を削るようにものを書いてきたわけだが、削った分を「回復」しようなどと考えてはいない。むしろ考えてはいけないとすら思っている。回復という発想が侵略の建て前になり得ることを、今年一年何度も思った。洗い落とした垢を皮膚の表面に取り戻そうとする人がどこにいるだろうか。恒常性のうちに内在するしなやかでしたたかな変化を、これからも恐れずに楽しんでいけたらと思う。

一年間ありがとうございました。