1月5日(日)
午後から新年最初のZoom勉強会。お正月をのんびり過ごしているので出かけていくならおっくうだったところ、自宅から参加できて素晴らしい。人類は災害のたびに少しずつ進化する。
今回は昭和50年第21回角川短歌賞次席作・栗木京子『二十歳の譜』を読み返した。ぼやけた脳が徐々に動き出す。
資料を読みながらちょっとギョッとしたのは当時の選考委員についてであった。
選考委員は武川忠一・長沢一作・岡野弘彦・田谷鋭、片山貞美。
武川忠一は1919年生れ、「まひる野」から出て「音」を創刊した。「むかわちゅういち」と読むが、ここ1年で2回相対的な若い世代が「たけかわただかず」と読むのを聞き、少し寂しい。
長沢一作は1926年生れ、「アララギ」から佐藤佐太郎の「歩道」、のち「運河」を創刊している。
岡野弘彦は1924年生れ、釈迢空に師事し、迢空没後は「地中海」に所属、のちに「人」を創刊している。この中で唯一の存命歌人である。
田谷鋭は1917年生れ、北原白秋に憧れ「香蘭」から「多磨」、のちに宮柊二に師事し「コスモス」の創刊に加わった。
片山貞美は1922年生れ、「ポトナム」から福田栄一の「古今」、のち「地中海」。山崎方代や葛原繁、岡部桂一郎らと「泥の会」を結び同人誌活動もしている。教員の傍ら(!)角川「短歌」の編集をしていたこともある。2019年に外塚喬がまとめた『実録・現代短歌史 現代短歌を評論する会』によるとこのクローズドの会は片山貞美の呼びかけで始まったとされ、ちょっとフィクサーという言葉を思い出す人物だ。
窪田空穂、佐藤佐太郎、釈迢空、北原白秋、小泉苳三。それぞれの系譜はきれいに分散されている。錚々たる顔ぶれであり一人一人を見ると選考委員として不足は全くないのだが、全員男性、しかも49歳~58歳と年代もかなり偏っている。定年退職が55歳だった時代だから、プラス10歳くらいの年齢感覚なのではないか。
今となっては考えられないが、過去にさかのぼって批判しても意味がないし、むしろ、この頃に比べると今は年齢も性別もバランスが良くなったなあと喜ぶべきだろう。なんだかんだ短歌の世界は(ほかに比べると)善良で健全なのだ。(そうでなければ時事詠を中心に言葉が空虚になってしまう。)
尤も、誰が選考委員であっても不満を持つ人はいるだろう。今100年前、1000年前の歌を読むように100年後読まれることを思うと短歌はむしろ、作者とは全然違う背景を持つ読者に理解されてこそ評価されるべきかもしれない。
誰にでも、たとえば初めて読む人にも分かるように、というのは表現に制約がかかってしまうが、ある程度読みつけている読者にきちんと手渡せるような表現をすることは最終的には作者の責任なのだ。
とはいえ歌会などでは、ある人の読みを聞いて急に歌への理解が深まる事もある。
良い鑑賞・批評というものは別の読者に新たな視野を開かせる一助をするものだから、やはり色々な読み方ができる選考委員を揃える方がいいように思う。
1月11日(土)
同世代の友人たちとの今年最初の歌会。インフルエンザが猛威を振るっており、直前に2名のキャンセル。コロナ禍中はほぼ抑え込まれていた流感が再びこれほど流行するとは。マスクをしっかりつけて出かける。
100回を超えたので記念の同人誌を作ろうと、話はたびたび出るけれど、結社でも私生活でも忙しい年頃なので一向に進展せず。
結社というのは不思議な組織だ。入会当初四苦八苦していた月に10首の詠草は続けるうちに身に馴染みもはやそれほど苦しまないが、長く続けて信頼を得るほどにさまざまに仕事が増えてくる。いずれ来るだろう諦めの境地に至るまでがもどかしい、今は中堅どころ(50代)。
終了後、新年会を兼ねて食事をして帰る。
おいしいワインを飲みながらの話題は、趣味のこと、仕事のこと、注目歌集や評論・イベントの情報交換など。
最近「~よ」とか「~で」みたいに語尾が呼びかけだったり言いさしだったりする歌が多くない? 五七五七七と詠嘆って相性が良すぎて逆に要注意だと思うんだけど。
と話題を振ったところ、
「それは詠嘆ではなくて語尾のバリエーションだよ。口語だと語尾のバリエーションが少ないから変化のためにそうしてるんだよ」と言われ、考えたことのない発想だったので非常に驚いた。
ちょうど歌壇賞の発表号である「歌壇」2月号が届いたのでそこから抜き出してみる。
快速が通過するたびくる窓の震えは楽器の震えのようで 津島ひたち
受賞者の作品。選考会でも言われていたように、とにかくうまい。この歌も、本来だったら「(快速が通過するたびに自分の乗っている通過待ち電車の)窓は楽器のように震える」とするところ、「くる」を入れて主語を「震え」にすることで風圧を身体に引き受ける印象的な一首となっている。
結句を「震えのようだ」と断定にしてもいいのだが、そうすると「くる」とわずかに障る。わずかだがその繊細な処理から「ようで」としているのだろう。
そしてその結果、二首前の「足裏をフローリングにすべらせてほとんど歩かないで進んだ」の「進んだ」、3首あとの「蟬の音がもう聞こえている玄関を右半身で押して開いた」の「開いた」と変化をつけることができる。
貰い火を煙草で受ける友人は帆船を待つような目をして 石井大成
候補作品より。終止形が多くそこがいいなあと思う作者なのだが、この一首だけ「目をして」と言いさしで結んでいる。「友人は帆船を待つような目をして貰い火を煙草で受ける」の倒置の形とも読めるが、〈「貰い火を煙草で受ける」友人〉を主語と読みたい。
「帆船を待つような目をする」と断定にすることもできるが、その場合「受ける」との「る」の繰り返しがかすかに気になる。
さすが新人賞最終選考通過作、隙がない、と唸ってしまう。
もちろん異論はあるだろうが、友人が示してくれた「語尾のバリエーション」という発想は、ひとつの時代の捉え方として目から鱗が落ちるものだった。
他結社の友人と話しているとこういうことがしばしば起こる。
結社やグループの違いというのは、作っている歌そのものにではなく「読み方」に表れるものだなあとつくづく思った。
1月22日(水)
Zoomにて空穂を再読する小さな勉強会。
全歌集を少しずつ読んでいて、このところずっと『空穂歌集』を読んでいる。
『空穂歌集』(1912年)は奇妙な歌集だ。短歌から心が離れていた時期の歌集で作品は面白くない。結果取り上げられることもほぼない歌集だから、こういう機会でもないと一生読まなかった可能性がある。その場合知ることもなかったと思うのだが、一冊のはじめにある合同歌集から再録された一部を除いて、句読点が入っているのである。
句点はすべての歌に。読点もたいていの歌に入っている。
おおむね特別必要とは思えない句読点だ。現代人だってあまりやらないだろう。
何か理由があるのだと思うが、いくつかの鑑賞本や章一郎(空穂長男)のエッセイを当たってみてもよく分からない。
明治末期の時代的なものなのか、空穂個人のなんらかの実験なのだろうか。
あと何回か『空穂歌集』の回が残っているので各々明治末期の様子について調べてくることにする。
1月28日(火)
結社誌の編集会。
午前中から午後にかけて歌数を数えてページ数を割り出し、掲載順に並べる。同時進行で前号評や歌集評の引用のチェック。
午後は文章その他を合わせて割付をし、かるく打ち上げをして解散。
前夜変なタイミングでコーヒーを飲んでしまって寝つきが悪く、鎌倉(編集室)が遠い。とぼとぼと帰宅すると私から見るとかなり若い世代の同人誌、「波長」の3号が届いていた。
「波長」のメンバーは山川築・上川涼子・浪江まき子・狩峰隆希と20代30代。なんと4人に3人が文語主体である。
巻頭の山川築の語尾に注目した。
王朝に嘘を吐かれて硬変の泥田を歩まざるをえざりき 山川築
直感の青さ貧しさ滅すべき光芒を利き手に遮りつ
ジャッカロープは運び去られて砂残る血の凍る諧謔を喫まばや
騙し絵の骨に触れなば顔の底をからまはりして叫声消えむ
突然の悲歌をかはして文机の湯気せはしかる部屋へ戻りぬ
助動詞にかなりバラエティーがある。文語主体の作者の中でも特に意識的に使っているのではないか。
口語には口語の、文語には文語の良さがあるが、それぞれ自分の選択した形で挑戦しているのだと思うと頼もしく、こうしてられない、と励まされる思いがした。