高木 佳子


換えられていく表象 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

平岡直子さんの歌集『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店 2021.4)が刊行された。詩的な言葉が印象的で激しさとやさしさが入り混じったような雰囲気がある。

歌集タイトルの「みじかい髪も長い髪も炎」はとても印象的だが、この歌集のある特徴を端的にはっきりと出している部分ともいえる。状態(ここでは長さ)の異なる身体的なパーツ=「髪」を、「も」で並列させかつ同期させて、「炎」と見立てるというスタイルなのだ。

「炎」としたならば、みじかい髪と長い髪の差異は無化されて、同じように「炎」という先が細り燃え立つものとして共通の表象が与えられてゆく。

タイトルで言いたかったことは何か、「炎」に行きつくまでの道のりの長さとは何か。 作品を見ながら考えてみたい。

 

 

重いと軽い

 

メリー・ゴー・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい

音楽がやむまできみの深淵に立ってたことを挨拶とする

ひまわりの根元に氷を埋めながらきみのからだのことを思った

火傷のようにめくれる日々をうらがえす人の鼓膜が天才だった

 

ここに挙げた4首は、いずれも結句の動詞に向かって詳細な修飾がなされている作品である。序詞的ともいえるが、なおそれよりも内容的な比重は充実している。

1首目は、結句の途上「~ところを」までが節として機能している。主体の欲求「見たい」それのみに向かって、流れ込むように詳細な具体が記されている。具体には対比的な要素が入れられている。「メリー・ゴー・ロマンに死ねる人」が「命乞い」するというかくも対極的な・大きな差異を「見たい」という簡潔な・軽い興味の表象によって、その重さを消しているのである。

2首目、結句の「挨拶とする」まで、初句から四句目まではすべて「挨拶とする」ものが何なのか、説明として機能している部分である。「きみの深淵に立ってたことを」からは、「きみ」への深いコミットを思わせるが、結句では「挨拶とする」とほんの入り口に過ぎないことを思わせる表現が来る。

こうしてみてくると、本歌集刊行以前からとくに著名であった作品、

 

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した

 

は、2首目とほぼ同様の構造を持つ。花火を「きみ」と待つというなごやかな関係性から転換して「生き延び方」について話すのである。生はついに生きるものではなく、生き延びることに集約する。それを待ち時間に話す。軽重どちらもが消されていることになる。

 

並列と等価

 

さらに特徴的な構造を挙げたい。

 

飛車と飛車だけで戦いたいきみと風に吹かれるみじかい滑走路

きみにしずむきれいな臓器を思うとき街をつややかな鞄ゆきかう

水玉に塗られた干支の動物の胴 わたしにも舌禍はあった

喪服を脱いだ夜は裸でねむりたいあるいはそれが夢の痣でも

 

此処に挙げた構造は、上句で表されたものの換喩としての下句がある方法である。1首目、どのように区切って読むかで分かれる歌かもしれない。要素として「飛車」・「飛車だけで戦いたいきみ」・「風に吹かれるみじかい滑走路」という3つが「と」で並列されているのか、「飛車と飛車だけで戦いたいきみ」と(主体)が風に吹かれる+場所(みじかい滑走路)か、など、ほかにも意味をどこで区切るのかで、読みが分かれて来る。前者だとすれば、3並列で、極めて力があるがそれだけでは機能せず、直進的なものの換喩として表れている。

2首目、「きみ」への透視的な表現、「きみ」の内部は、いま主体がいるだろう「街」の「つややかな鞄」に転写されていく。3首目、「干支」のモチーフがなつかしさ、ほの温かさを醸すが、異様に「水玉に」塗られている。下句には「舌禍」というモチーフがあって、ダークなイメージが置かれる。これらを並列にすることで、想起させるもの、されるものが強められていく。並列させ、言い換えてゆく、そうすると別なイメージが元のイメージと重なり。重層的になる。

 

さて、本歌集には、これまで挙げた構造が亜種のようなかたちにも変化しつつ、繰り返し現れる。構造の種類だけいえば、類似した構成の歌が多い。二人称の呼称も「きみ」であったり「あなた」であったり、主体は「わたし」がごく少なく表れるだけで、ひとつずつの作品を通底するような主体の像は浮かばない。

私たちは「作中主体」について、当然のようにその存在が必ず語られる場面を通り過ぎてきた。そして「主体」は、ある程度、作品全体を共通する人格・キャラクターが機能しているとも認識していたように思う。

歌の「わたし」は作者自身ではないが、一人の誰かがいるということ、それは私性の議論から作中主体という概念に遷ってゆく過程だったのかもしれないが、なお読み手も作り手も暗黙の裡に「主体像」を構築し「主体読み」を公式通り続けていて、そしてまた、そうでなければならないようだ。

しかし、その公式は、約束は、今もそうであり続けているのだろうか?本歌集では、ひとつの短歌作品がそれぞれひとつずつ個別の主体をもっていて、独立性が非常に強い。

タイトルの「髪」のモチーフも、誰の髪のことだったのだろうか?「髪」の等価、そして「炎」に換えられるもの、いくつもの声が重なり合ったようなポリフォニー的な作品群は、作中主体という存在をさらに超えて、短詩的な世界を見せてくれる作品であるといえる。個人的にはトランストロンメルの詩作品を想起したが、どうか。