内山晶太


現実の生き方  —山本夏子歌集『空を鳴らして』について—

 

灰色のスーツの背中を詰め込んで普通と書かれた最終電車

 

山本夏子の作品は一読でこつんとした納得の手ごたえを与えてくれる。仕事を終えた労働者が終電に乗って帰っていく場面だ。ここまでは光景として誰もが思いつくところだろう。そんななかで一首に「普通」という言葉をもってくる。これは特急や快速ではなく、鈍行列車という意味の「普通」である。一方で、最終電車に詰め込まれた労働者にもこの「普通」はかぶさってくる。終電まで働いて(なかには飲んで)帰る人びとが「普通」であるということ。ひとりひとりの人間の固有性が「普通」の二文字でばっさりと斬られている、ようにも感じられる。シニカルであって、しかし何かしらユーモラスな味わいもある作品ではないだろうか。目をつりあげた批評性ではない、やわらかいまなざしの宿ったものの見方である。

 

 

タイムカード二分遅れて記される見知らぬ猫を撫でてきた朝

デパートの洋菓子売り場の人混みと同じ数だけ贈られる人

当選をすれば聞かなくなる名前くもりガラスのむこうに響く

 

 

三首とも歌の読みどころはあえて説明するまでもないのかもしれない。が、一首目では猫を撫でて二分遅刻しているという出来事がたんたんと伝えられる。ほのぼのとした印象は残りつつ、これも読みようによっては現実社会への抵抗ともいえないかすかな、まろやかな抵抗が含まれているとも思われる。通勤時間に猫を撫でて多少遅れたっていいじゃないかと、もっとおおらかでいいじゃないかと、そういう声がこの歌には含まれている気がする。二首目、洋菓子売り場で洋菓子が買われていく時間の先に、それを贈られる人が同じだけいることに思い至っている。実際には、自分で買って自分で食べるというパターンもあるのだけれども、日々のご褒美として洋菓子を自分自身に贈ることもあろう。その辺りの修辞の機微は比較的ざっくりとしている。最初にあげた一首でも、「灰色のスーツの背中」=「サラリーマン的労働者たち」という、特に「灰色」という色の指定には、通常の作品であれば疑義が起こるかもしれない。つまり、実際には黒いスーツを着ている人もいれば、茶色いスーツを着ている人もいる。とはいえ、山本夏子の短歌に関しては不思議とそれはそれでいいのではないかと感じてしまうのだ。三首目。選挙戦の最中には宣伝カーが候補者の名前を連呼する。選挙に当選すれば、もう用なしである。しかしこの一首でもシニカルさによって現実をえぐるようなことはしない。「当選をすれば聞かなくなる名前」と端的に述べるにとどめており、言葉にならないもやもやが作品のなかに含まれている。

 

 

子を宿す十月十日(とつきとおか)の夢のなかわたしは一度も妊婦ではなく

明け方の静かな雨に濡れる餌帰ってこない猫待ちながら

綿雲のようなおかゆを食べさせる一緒に口をもぐもぐさせて

 

 

『空を鳴らして』におさめられた歌は、どれもきわめて日常的な光景が選ばれている。特に子や猫、うさぎといった小さな生き物に向けられる視線が印象的だった。一首目は妊娠の歌。だが、(夢のなかでは)妊婦ではないのだという。現実のわたしと夢のなかのわたしが別々の存在だというのは、言われてみれば納得するし、その通りなのだけれども妊娠というきっかけによってそれがクリアに読み手へ伝えられる。二首目はまっすぐにせつない。三首目もまっすぐにこちらへ届いてくる歌だ。

 

 

エクレアを並べたようにかわうその子どもが眠る春の水槽

パンならばいい焼け具合はつなつのひかりを浴びて眠る柴犬

オムレツのようなおなかを投げ出して路地に寝そべる夜の母猫

焼きたてのアップルパイの色をして朝焼けのなか歩く柴犬

 

 

これはあくまで個人的に好きな部分なのだが、動物が食べ物にたとえられている歌がいくつも出てくる。特に、パンだった柴犬が終盤アップルパイとなって再登場するところなどは笑みを浮かべながら読んだ。

 

 

路地裏に入れば長屋の並ぶ町セコムシールがつるんと光る

 

 

短歌であることと、現実であることは基本的には一致しがたい。路地裏の長屋に貼られたセコムのシール。長屋という昔ながらの建築物と現代的なセコムの防犯シールとの対比がこの作品をすぐれた短歌にしている。と同時に短歌にすることで、それが短歌的にすぐれているほど現実とは離れていくものがある。この歌に即して言い換えれば、現実はこうした対比を主要素として成り立っているものではない。事象を適切に整理し、不要な部分をそぎ落として一首をつくるとき短歌は、適切に整理されず不要な部分というものを持たない現実とは似て非なるものとなる。

 

山本作品はここにあげた歌を見れば分かるとおり、言葉の選択が適切で歌にとってとても効率がよいように感じられる。これはある面ではとても大きな美点となるだろう。一方で、一首一首がすっきりとしすぎていて現実のもつ捉えどころのなさが見られない、という無いものねだりを少々したくなってきたりもするのである。とはいえ、それじゃあ現実をそのまま保存できた作品がすべてにおいてすぐれた作品かというと、そういうものでもない。この問答に普遍的な解答はないのだが、わたしにとってはそれを考えたくなるところが『空を鳴らして』にはある。

 

 

思うより早く冷たくなってゆく背に触れながらてのひらが泣く

通勤の車内で気づくブラウスの胸にきらめく娘の鼻水

泣くようにスケッチブックを塗りつぶすクレヨンの青ぎゅっと握って

 

 

一首目は飼っていたうさぎの死に接しての歌。二首目は保育所へ子を送った足で出勤しているときの歌。三首目は子のお絵描きの光景。三首とも良いなあと思って印をつけた歌である。ここでも言葉の選択は適切でありブレがない。第一歌集というのは、総じて文体の揺れが垣間見えたりするものだが、『空を鳴らして』にはそういった揺れがなく非常に安定している点も特筆すべきところかもしれない。そうして紡がれたこれらの歌自体は先ほども述べたように現実とは離れていると言える。しかし、これらの歌には現実と向き合った人の手ごたえのようなものはたしかに感じられるのである。

 

思うに、山本夏子にとっての短歌とは捉えどころのない、こころもとない現実をどうにか掴みとるためのよすがなのではないか。適切に言葉が選択、整理され短歌となった時点でそれは現実ではない。が、現実ではない短歌を作りそれを自身の手で掴みなおすことによって、現実を生きることができる。そういう生き方というものもある。『空を鳴らして』一冊を通読するとき、この作者にとっての短歌が、おそらくは人生にとってなくてはならないものなのだろうと思わせられるのだ。

 

 

冷えた手をふと握られるコーヒーのおつりを渡す労働の手に

二すじの飛行機雲は交わらず知らない歌を子が歌い出す

 

 

二首とも、短歌とともに生きている感じが強くする。一首目、労働という媒介がなければ接触することがなかっただろう他人との接触。他人と他人が、労働の場では客と店員になり、おつりを渡す際にやさしく手を包まれる。二首目は、成長して知らずしらずのうちに自分から遠ざかっていく子ども。自分の知らない世界を子どもはひとりでに広げていく。歌の作りとしてはやはり過不足なく情報がおさめられ適切にカスタマイズされているけれど、いずれも歌のための歌にはなっていない。そういう気配がする。これだけ短歌に適切でありながら、歌のための歌以上のものを負わせている作品がことのほか多い点は、間違いなくこの作者だけの大きな特徴である。これから先も山本夏子はたくさんの短歌を作り、それらとともに生きていくのだろう。