東武東上線

 前回の、奈良郊外の散策についての雑文を、面白かったと言ってくれた方がいた。その人は次も読んでくれそうだから、また、散策ものを書くことにする。こんどは近場である。

 春の日曜日の午後、晴れてはいるが雲もかなり空にあって、曖昧な晴れという空模様だった。ぐずぐずしていて予定より遅く、家を出た。この季節、美しい柿若葉のある家があり、その前を通って駅へ急いだ。
 いつも上りの電車に乗る駅で、下りの電車に乗るのはちょっとうれしい。三つ先のふじみの駅で急行に乗り換えた。川越市駅を過ぎると窓外は少し広々としてくる。

 入間川を鉄橋で渡ると霞ヶ関駅である。ゴルフ場の名前からついた駅名だという。なお、ここで降りて東へひと歩きすると「河越館跡史跡公園」がある。かつて晩秋に尋ねたことがある。ただの原っぱと思えばそれまでだが、ちょっと歴史を振りかえり、そこを行き来する人々を思い描けば、何かが見えてくる。
 河越重頼は保元平治の乱に登場する。その後、旗揚げした源頼朝をはじめは討つ側にいたが、のちに従って、平家追討の軍に加わり、西国や都で活躍する。領地を京都の寺社寄進し、荘園としつつその管理者になるなどしていた。ただ、娘が源義経の正室となり、そのために頼朝に誅されてしまう。のち河越氏はゆるされるが、南北朝の争乱の中で滅んだようだ。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉

与謝蕪村

 この俳句の武者の中に、入間川のほとりに立って富士山を眺めながら育った「おのこ」もいたのではないか。都が好きになったか、故郷が恋しいか、と尋ねてみたい。

 少しうつらうつらしてしまった。ふっと我にかえると、もう、東松山。ヌートバー選手のお母さんの出身地である。
 東松山駅の南東の河岸段丘の一郭に了善寺というお寺がある。幕末から明治にかけて活躍した漢詩人嵩 古香かさみ ここうが住職をしていた寺である。

 実は、明治という時代は、俳句短歌より漢詩の方が盛んであったという説を聞いたことがある。明治の人々は漢詩文の素養があったが、それだけでなく、新聞や雑誌という近代的なメディアの発展があったという。発表の場として、また、題材となる情報をもたらす装置として新聞雑誌があり、漢詩がさかんに作られていたと想像される。そして作品群の中には、「社会詩」という分野が成り立っていたと考えられる。急速な近代化すなわち文明開化の明暗があり、また、藩閥政治と民権派のせめぎ合いなどがあった。そのとき俳句や和歌・短歌は正面から社会に向き合うことはできなかった。
 私は、ちょっとしたきっかけで、嵩古香の作品を目にする機会があった。今、二作だけ紹介したい。いずれも、藤井明・嵩海遊著『漢詩人が描いた明治―嵩古香の肖像』(2002、ゆまに書房)から抽く。漢字は現在使われる字に改め、また、読みを補っている箇所もある。

多年流毒在人間   多年毒を流して人間じんかんにあり
巨万致財也等閑   巨万財を致すもまた等閑とうかん
三悪道庁新転籍   三悪さんまく同庁新たに籍を転ず
鉱山拡業死天山   鉱山業を拡む死天しでの山

藤井明・嵩海遊著『漢詩人が描いた明治―嵩古香の肖像』(2002、ゆまに書房)

 古河市兵衛が亡くなった時の詩である。嵩古香は、足尾銅山の鉱毒問題についての詩を多く作っている。
 この詩では、死んだ市兵衛が「死天の山」でも鉱山業をやっていると冷笑している。一読、そこまで言わなくても、と思った。しかし、古河市兵衛が事業を継続拡大させるため行った様々なことを考えると、嵩古香の気持ちもわかる気がする。陸奥宗光の子を養子にしたり、長男の嫁に西郷従道の娘を迎えたり、また原敬を副社長に引き入れたりして、要人とつながりを作り、政府を味方につけ、鉱毒被害を訴える農民を抑えようとした。寺の住職として農民とともにあった嵩古香から見れば、やはりとんでもない奴だったのだろう。

新年雑感 明治十七(一八八四)年一月

徴兵新令発新年   徴兵の新令新年に発す
父母之心為愕然   父母の心為に愕然たり
寄語晴天清唳鶴   寄語す晴天清唳せいれいの鶴へ
嘆声曳到玉皇前   嘆声曳き到れ玉皇の前

 明治6年に出された徴兵令はいくたびか改正されるが、この詩で詠われているのは、明治17年に発令されたものである。当初のものにはいろいろ除外規定があったが、この時に跡取りであろうが、一人子であろうが、徴兵されることとなった。嵩古香は、一般庶民の嘆きをくみ取っている。
 その嘆きを綺麗な声で啼く鶴に託し、鶴が天皇に伝えることを望んでいるという大胆な詩であり、のちの国粋主義の時代だったら、ゆるされないかもしれない。明治の方がまだゆるやかな時代だったと思わせる作品である。

 こうした明治期の「社会詩」は沢山あったであろう。いつか、だれかが、掘り起こし、現代の視点から読み解くことに期待したい。あるいは私が知らないだけで、研究されている方がいるかもしれない。現代短歌の「社会詠」は、どうなのだろうか。社会を覚醒する役目を果たしているのだろうか。
 私は、ちょっと苦手で、あまり作ったことがない。それではいけないとは思いつつ…。

 急行電車は、東松山駅の次の森林公園駅までであった。ここから寄居ヘ向かう4両編成の電車に乗り換える。つきみの駅、武蔵嵐山駅までは、新しい家々が並んでいる。武蔵嵐山は昭和3年、林学者の本多清六が来て名付けた地名だという。その武蔵嵐山駅を出て、ほどなく線路は単線になり、左右の若葉の灌木を潜るように電車はゆく。季節も時間も対象も違うのだが、次の句を思う。

薄明に倒れ木躍る浅き眠り

金子兜太

 早朝の上りの電車に乗っていて詠まれた作ではないかと勝手に鑑賞している。今回の散策にもう少し時間の余裕があったら、小川町の一つ先の東武竹沢駅まで行って、この句が彫られた駅前の句碑を拝したかったが、それはつぎの機会にとっておくことにした。
 それにしても、一時期だが、東武竹沢駅から日本橋本石町の日銀本店まで毎日通っていた金子兜太にあらためて感心する。

 風景は開け、電車は小川の里に入り、小川町駅に到着した。
 駅を出て歩く駅前通りは、ちょうど、両側に植えられたはなみずきが満開であった。この通りの名前が「はなみずき通り」であることをあらためて記憶した。歩道には、20メートル置きぐらいにパネルが置かれている。それには万葉集の歌が1首ずつ、解説を添えて記されている。この小川町には、鎌倉時代に仙覚が住み、この地で万葉集の研究を行ったという歴史があるのだ。実は、今日の目的はその顕彰碑を訪ねることであった。
 はなみずき通りは400メートルぐらい行くと国道254線に出会う。西に歩くと左手に橋のある道があるのでそれを歩いてゆく。橋を渡ると、右岸の栃本親水公園に入る。
 この川は「槻川つきがわ」という。街中にありながら、谷を成している。素人の勝手な想像だが、この豊かな水が、小川の和紙の千年の歴史に関わりがあるのではないかと思う。この川の上流が東秩父村でそこも紙漉きの里である。そして、景勝地武蔵嵐山をなしている川こそこの槻川の下流なのである。
 親水公園には人工の飛び石があって、思い切って足を出し、無事、左岸へ戻った。

 家の間の狭い道を通ると、広い道へ出る。すぐ先に晴雲酒造が見える。モダンな売店があり、また、食事もできるようになっている。
 その角を曲がり北へ向かうと右は家並、左が山の斜面となる。一本東西に走る道を渡ると何軒かの家の間の歩けるだけの細道となり、急な登りが待っている。それを登ると、かなり広い平地がある。周囲は数メートルの土塁が囲っている。「中城跡」と呼ばれる城址である。実は急坂を登りはじめてから、「ポン」「ポン」という音が聞こえていたが、城跡の広い本丸の林の中にテニスコートがあり、紳士二人が球を打ちあっていた。そこを離れ、半蔵坊という祠を左に見て、奥に進むと土塁の手前に石碑が立っている。一つは忘れられたように立つ忠魂碑である。そして、もう一つが「仙覚律師遺跡」と彫られた石碑であり、徳川達孝の書による佐々木信綱博士の撰文が記されている。

 昨夏、はじめてこの石碑の前に立ったが、夕方で時間がなかったのと、草が深く繁り、蚊の襲撃もひどく、早々に引き上げてしまった。今回は、碑面の写真を撮り、また、碑の後ろを回ってみたりした。
 詳しいことは、これから調べてみたいと思っている。この中城を在った「猿尾ましお氏」のこと、仙覚はこの城中にいたのか、など、いろいろと疑問が湧く。そもそも、私たちの手許にある『万葉集』は、どんな過程をを経て今ここにあるのか、仙覚はその流れのどこにいるのかといった基本的なことも、私は知らない。これから勉強したいと思う。城を降り、「小京都」と称する街中を駅まで歩きながら、次回はもう少し城の周辺を歩いてみようと思った。

 後から来ることになっていた連れと駅で合流し、はなみずき通りにある料理屋へ向かった。ささやかな、しかし鰻の半切れもついたおいしい料理を頂き、名物「忠七めし」で締めて、夜の駅の表情になった小川町駅へ戻った。

 ホームで電車を待っていて、大きいスーパーマーケットが見えることに気付いた。ヤオコーである。ここ小川町の青果店から発展し、「小川のおしん」と言われる女性経営者の活躍もあって、今では関東圏に200近い店舗を持つ大企業となった会社である。
 この小さな町にも、万葉集から、スーパーマーケットまで、様々な歴史があるなと思いながら、「カワトク」(「川越特急」の略称)の座席に座った。

追記
「忠七めし」は、この料理屋「二葉」をたびたび訪れた山岡鉄舟が当時の当主に助言して作らせたものという。なお帰りがけに御主人から一言、「ご来店のときは前日までに予約して頂くといろいろな料理のご注文に応じられます」とのことでした。