土岐友浩


「人間」の果てに

今年の角川短歌賞は田中萃香の「光射す海」、道券はなの「嵌めてください」の二作に決まった。
 
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 映画「娘は戦場で生まれた」の衝撃。この作品を観て得た熱量を原動力として想像と虚構を中心としつつ、ニュースや映画から得たものを織り交ぜながら受賞作を構成していった。読んでくださった方々の心の中に、なにがしかの感情を引き起こすことができたらとても嬉しい。
 短歌をはじめたきっかけは曖昧なものであり、今も「短歌とは何か」という問いに何も答えられないまま作歌している。だから、今後も短歌を続けていくかどうかは分からない。ここまでかもしれないし、これからかもしれない。だが、言葉が好きだ。そして空想し想像する自分も好きだ。だから短歌をやめたとしても何年先も、言葉の想像力の力を武器にこの世界と対峙し続けたい。
 
田中萃香の「受賞のことば」から。
 
想像、の一語に僕は立ちどまる。立ちどまりつつ、「短歌をやめるかもしれない」とコメントした受賞の言葉がかつてあっただろうか、とも気になってくる。
 
 
シリアへ、と我が告げれば不思議そうに瞳を向ける友の多さよ  田中萃香

夕暮れの難民キャンプを抜け出した少年と見る光射す海
 
 
「光射す海」の作中主体は、取材のためシリアを訪れた日本人ジャーナリストである。
 
シリア、で僕が思い出すのは二年前に観た映画「ラッカは静かに虐殺されている」だ。地方都市ラッカに住む市民ジャーナリストたちの活動を記録したドキュメンタリーで、略奪と不当な支配の連鎖に、言葉を失う。田中の挙げた「娘は戦場で生まれた」は今年公開の作品で、観ていなかったのが悔やまれる。
 
一連を読み始めてすぐに僕は、あのシリアに、いま日本人が行くことができるのだろうかと疑問を抱いた。十年前ならいざ知らず、そもそもビザを取るのが困難をきわめるだろう。ましてジャーナリストであれば、命の危険に身をさらされることは明らかだ。
 
したがって僕は途中から「これは創作の可能性が高い」と判断して読むことにした。そして受賞のことばを読み、納得をした。これは憶測だけれど、おそらく田中自身、作品が実体験と読まれることは想定していなかったのではないだろうか。
 
しかし選考会の記録を読むとわかる通り、選考委員の四人は、実際にシリアに行った歌だと受け取って疑わなかった。選考委員のひとり、松平盟子が「現実に密着した説得力のある表現にどこか安心する」「現下のコロナの時代にあって、私たちはリアリティーを信頼し、リアリティーに縋って考えたくなる、そんな気がする」と述べたように、田中の作品はその「リアリティ」が評価され、四人それぞれの票が投じられた。
 
短歌の世界では、ときどきこういうことが起こる。亡霊が変なスイッチを押したのだ。六年前、石井僚一が短歌研究新人賞を獲ったときもそうだった。リアリズムの亡霊である。
 
田中の「受賞のことば」と選考討議のあいだに存在する虚実の溝は、現時点では埋められていない。けれど、ここで僕は、何か異議申し立てをしようと思っているわけではない。
 
「ラジオ・コバニ」や「アレッポ 最後の男たち」、「シリアにて」など、先に挙げた以外にも、シリアを舞台にした映画は多い。ドキュメンタリーから実話を元にした作品、フィクションまでいろいろなものがある。
 
シリアが描かれるのは、戦後史上最悪の人道危機とも言われる現場で何が起こっているのか、容易には伺い知れないからだ。
 
リアリズムの価値は、当事者性にある。何を見て、何を感じたか。だからこそ、作為によって当事者性が損なわれた作品は、ときに非難の対象となる。
 
だが、当事者の声が届かない場合はどうだろう。誰がそれを見て、誰がそれを表現すればいいのか。誰もそこへ行くことができないのなら、誰かが想像の力によって入り込み、詠うことも必要なのではないだろうか。
 
 
目の前に遥か広がる海峡の光より我に通じる道あり

離陸せよ雨降りしきる空港を 私の胸で燃えるシリアよ
 
 
出国の瞬間を詠んだ二首。想像の作品と知ってなお、こうした歌を読むと、作者の胸中に差し込んだ光や、燃えあがるもの、その熱量を感じざるを得ない。
 
感じざるを得ないのだが、ただし、それでも、問題は残る。
 
 
「あまりにも生々しい」と拒否された通信者へと送りし写真

包囲の輪狭まりてゆくイドリブを生きた証に教える英語
 
 
たとえばこれら「生々しい」「生きた証」という表現だ。特に「生きた証」は、引っかかる。虚構だとしても、仮に本当のジャーナリストが発した言葉だとしても、いかにも重い。あるいは軽い。
 
いずれにせよ田中は、渾身の想像力をもってパラレルな「私」を詠いきった。ここが議論の出発点となるべきだろう。少なくとも作品の拠って立つべき「現実」は、作者の実体験ではなかったのだから。僕自身の関心、そして今年の一月以降、本コラムで書いてきたテーマに引き寄せて言えば、問い直されているのはやはり、今の若者の「想像」と「リアリティ」のあり方なのだ。
 
「光射す海」の一連が、新たな視点で読まれることを期待したい。
 
 
呼吸(いき)すれば胸くらみゆく秋寒の球体関節人形展に  道券はな

目を嵌めてください他人(ひと)のまなざしを受けて川面のようにかがやく
 
 
道券はなの「嵌めてください」は、人形の眼、人形の身体という主題が短歌の「人間性」を相対化していく、きわめて意欲的な連作である。人間と人形が対峙する「人形展」。それを境に作中主体は人間の感覚と人形の感覚を行き来しながら、世界を見つめ直していく。
 
 
ほの昏い展示のなかで人形はかがやく凛と死から隔たり

暖房に汗ばむ身体生きるかぎり朽葉のような匂いをはなち
 
 
二首目「生きるかぎり」の字余りが、生の重たさを読者に伝える。
 
はじめに僕の個人的な感覚の話をさせてもらえれば、僕は「人形」が好きではない。理由の半分は、脳が本能的に「人間」と認識したものが、人間ではない、という意識のずれに由来するだろう。そしてそのずれを突き詰めていくと、「人形」と「人間」のなにが違うのか、疑わしくなってくる。両者は同じものではないか。「人間」に本当は「いのち」などないのではないか。AKBグループの人たちは、僕にはみんな人形に見える。
 
先に僕は「人形展」が連作の境だと書いた。前半で描かれる、「あなた」と「人形展」に向かう作中主体。一見したところ、よくある相聞歌の導入のようだけれど、そこに描かれた身体感覚や「あなた」への思いが、人形の世界に取り込まれることで、異様な変容を遂げていく。
 
 
椅子として生まれたかったがたついてあなたに布を嚙ませてもらう
 
 
誰でも体験のある、がたがたの椅子。あの感触を思い出させる、ユーモラスな着想の歌として楽しむこともできるけれど、連作に置かれれば、また違った読み味が生まれてくる。
 
それを一言でいえば「人形になるよろこび」だろう。「布を嚙ませる」は慣用表現だが、こう描かれると、なんとも言えない官能性が立ち上がっている。
 
 
人形は淡く微笑む抱かれたら抱かれたままに歪む身体で

硝子玉を眼窩に嵌めた人形よ見るとはひしとせめぎあうこと
 
 
人形自身は、何をするわけでもない。抱かれるまま、見られるまま。受動に徹し、しかしその眼は、人間を見つめ返しているようでもある。
 
 
野葡萄も熟せばだれか摘みにくるそれまで膝を閉じていなさい

夜更け過ぎビスクドールはその頬に述べられた手を拒まずにいた
 
 
人形の受動性は、もうひとつ、人間の暴力性をもあぶり出す。僕は亀井亨監督の映画「無垢の祈り」を連想した。
 
 
暑苦しい乳房(ちぶさ)を脱げばさえざえと硬貨のようないのちが残る

いつかいつか羞(やさ)しいあなたを立たせたい老衰という眩しい水際
 
 
一首目、脱衣の歌と読むこともできるけれど、乳房そのものを脱ぐのだと読みたい。人間の重みを脱ぎ捨てることは、どこか読者の心を解放してくれるようだ。
 
二首目、選考会では作中主体が「人形」となり、老いていく「人間」のあなたが詠まれているのではないか、との読みが提示された。魅力的な読みだろう。もちろん「人間」として「あなた」とともに老いていると解釈することもできる。
 
田中の連作、道券の連作、その生々しさは、どこから来るのか。想像力、とひとまずは言うことができるだろう。想像力の果てに「人間」はいるのかどうか。「人間」のいない場所で、はたして歌は成り立つのだろうか。