人工知能は名歌秀歌の夢を見るか

フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』はタイトルが秀逸です。モノに人間らしさを見出して愛でるのは人類に広く見られる感性のようで、もしアンドロイドが人間のように夢を見るなら、と想像するのは、その感性を刺激します。旧世紀の想像力の世界では、人工知能は頭脳だけでなく身体を持って人間と共存していました。しかしながら、現在の人工知能はもっぱら情報工学の分野で研究されており、インターネットでの検索を助けたり、逆に迷惑になったりする形で身近に存在しています。
その人工知能(AI)が短歌を詠むならば……と想像することは、機械に人間らしさを見出して愛でる感性を刺激するようです。今年4月26日には、朝日新聞東京本社にて記者サロン「木下龍也さん×AI短歌 あなたのために詠む短歌」と題したイベントが開催されました。報道資料によると、このイベントは木下龍也『あなたのための短歌集』を学習したAIと木下本人が、募集したお題に沿って短歌を詠むものです。その際、短歌を詠むAIに頑張りを見出し、かわいさを感じる参加者の声も報じられていました。

今月の私は、機械に人間らしさを見出して愛でることと、「作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔」を見出すこと(※1)の類似性を考えたいと思っています。つまるところ、AIが短歌を出力できる時代に、短歌における「私性」を従来通り想像し続けることは可能なのか。岡井隆は、作品の背後に何らかの人物を予想することなくして、「この定型短詩は表現として自立できない」と語ります。
短歌における「私性」は、俗流の理解では短歌から読み取ることのできる作者のプロフィールなどを意味しています。しかし岡井の「私文学としての短歌」を再読すれば、その意味するところは、テクストの背後に書き手の気配を読み取ることや、誰かが一連のテクストを記述したという信頼感、テクストから虚像として立ち上げられる作者の人格、作者のイメージであることが理解されます。
もっとも、こうした想像力の作用は短歌に限らないものです。ある文章を見れば、その背後に存在する書き手の存在がおのずから想像されます。例えば禁止事項が書き連ねられた公園の看板を見るとき、私たちはその背後に、禁止事項を言い渡す誰か、実行力をもって命令する誰かの存在を意識することになります。この作用を詩的に利用した短歌として、私は次の歌を思い出します。

「共用スペースでは必ず犬を抱くこと」買いに行かなきゃ、犬を。
–田中有芽子『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』(2019→新装版2023)(※2)

おそらくマンションなどの貼り紙などに書かれている命令文なのでしょう。常識的に考えれば「共用スペースでは犬を抱くこと」という文言には“犬を連れている場合”という条件が隠されています。けれども「必ず」という副詞は、犬を抱いていないことを咎める誰かの存在を意識させ、主体に犬を買いに行かなければと思わせるのでした。英国の文芸評論家であるT・イーグルトンも、これに似たような例を語っています。

たとえばロンドンの地下鉄でしょっちゅうお目にかかる注意書きにこういうものがある――「犬はエスカレーターでは抱きかかえなければなりませんDogs must be caried on the escalator」。この文は仔細に検討するほど見かけほど明解な文でないとわかる。あなたは犬を抱いていないとエスカレーターには乗れないとでもいわんばかりだ。エスカレーターで上に行くには、腕に抱く野良犬を見つけなければ、エスカレーターから引きずり下ろされそうだ。
–T・イーグルトン『文学とは何か:現代批評理論への招待』大橋洋一訳(1983=1985)序章

イーグルトンは日常の言葉と詩の言葉を峻別するロシア・フォルマリズムの考え方を批判するためにこの事例を語っています。しかしながら、私はここで彼が「引きずり下ろされそうだ」と書いている点に注目しています。文章はそこにあるだけですが、その背後にいて命令する誰かは身体を持っていることが想像されています。
話が逸れました。機械に人間らしさを見出して愛でることは、テクストの背後に誰かを想像する作用と似ています。この作用は短歌に限らず普遍的なもので、その存在を否定することは難しいでしょう。従って、AIの生成した短歌作品群にも、私たちはきっと短歌において「私性」と呼ばれているものを見出すことになるでしょう。
問題は、ある作品が生成AIによるものだと後から判明した際、その作品の評価を下げる心理的な作用が私たちに見られることです。生成AIによる短歌作品が歌人による作品と遜色ない程度になった世界を想像してみます。読者が両者を区別できない場合、作品の背後に予想される顔の真正性は、疑いのまなざしに晒されることになるのではないか。
生成AIによる短歌作品が歌人のそれと遜色ない世界はそのうち到来することでしょう。正直なところ、その世界はあまり嬉しいものに思えません。けれども研究は進んでいます。私は研究の動機を知りたいと思うようになりました。

今年6月には、朝日新聞社メディア研究開発センター在籍の浦川通によって『AIは短歌をどう詠むのか』(講談社現代新書)が刊行されました。本書では、私たちの運用している言語(自然言語)を機械で取り扱うために、単語の意味を計算する方法から解説されていました。記述内容を私の理解できる言葉に直すのであれば、AIは、単語同士の関係性を任意の座標空間上の距離として数値化することで、あたかも単語の意味を理解しているように単語や文章を生成することができるようです。そのようにして生成された短歌は本書第4章に収録されているのですが、未だ思わず舌を巻くような短歌は見えません。
気になる研究の動機については、本書序章に「〈AIが短歌をつくる〉という過程を通して〈人が短歌をつくる〉こと、ひいては〈私たちが毎日扱う言葉〉について、新しい視点から考えることを目指して」いるとありました。納得できるような、できないような、「新しい視点」の意味するところが想像できないため、一旦何かを言うのはやめておきます。
現状、朝日新聞社にて開発されている短歌生成AIは単語の音数を数えて、言葉を短歌定型の形に加工することはできるようです。また、設定を変更することによって、日常の文脈であれば発生しにくい語の繋がりを用いた短歌を生成することもできるようです。しかしここには審美眼が不足しています。本書に紹介されているAIは、短歌を作ることはできても、良い短歌を目指して短歌をつくることはまだできていません。
今年11月6日には、ジュンク堂池袋本店にて「なぜAIとヒトは歌を詠むのか」と題したトークイベントが開催されました。登壇者は『AIは短歌をどう詠むか』の著者である浦川通、俳人の大塚凱と、歌人の睦月都の三人でした。大塚はAI俳句の開発に関与しており、睦月はAIエンジニアとしても活躍しているとのことで、登壇者はAIに関する有識者が揃った形です。私が参加者としてこのイベントに期待していたことは、AIに短歌を詠ませることの何が嬉しいのかを語ってくれることでした。この問いには睦月さんが、人間は短歌の良さを言語化できておらず、研究を通して、短歌の良し悪しを定量的に語る方法が確立できれば、という内容を語ってくださいました。
確かに、何をすれば良い短歌が作れるのかについては、様々な短歌入門書で様々な内容が語られていながら、いまだ感覚的な領域を脱していません。言葉を定型に加工するのは筋肉のようなもので、しばらく訓練すれば身につけられる技術です。しかし、ポエジーについては魔術化されています。例えば、次の短歌の下の句は何をすれば浮かんでくるのでしょう。

冷凍のえびグラタンをあたためる ひかりのなかでえびが生き返る
–睦月都『Dance with the invisibles』(2023)

インターネット上のスラングで、何を食べたらこんなものを思いつくのか、という言い回しがあります。掲出歌については「えびグランタン」を食べたらよいのかもしれない。という冗談はさておき、この歌では、目に見えないマイクロ波が食品を加熱する作用の不思議さを、「生き返る」と誇張することでポエジーに変換しています。えびグラタンのえびは加熱されていて生き返ることはないのですが、凍っているよりあたたかい方が生きている状態に近いのは間違いありません。
また話が逸れました。どうやら審美眼の不在はAI短歌における課題として認識されているようで、トークイベントでは短歌に対する評価を学習する手法(報酬モデル)の確立を目指した研究も紹介されていました。つまりAIに良い短歌を詠ませるには、学習元のデータと報酬モデルの構築が必要です。学習過程は人間がやっていることとそこまで変わりません。その過程が明快な言葉で説明できるようになるのは、よい短歌を作りたいと願う人にとって嬉しいことのように思われます。

かくして動機には納得できたわけですが、AI短歌がもたらすであろう問題は残ったままです。AIは過去の人間を模倣しています。その進歩は過去の人間の遺産を証明することになるでしょう。だとしても、作品の背後に予想される「ただ一人だけの人の顔」の真正性が疑わしくなるのは困りものです。
そのとき何が起こるのか。そのとき、背後に人間がいるという信頼は揺らぐでしょう。ただ一人だけの顔が融解します。先に語ったように、日常の言葉と詩の言葉の境目は曖昧です。短歌における私性というのは、ある短歌が、他の誰でもなく、唯一無二の任意の歌人によって詠出されたものであると、日常的な自然言語から詩歌を特別に取り出すための装置でもあります。それが機能不全に陥ることになるでしょう。
現状、そうした歌人の顔はどのように制度化されているのか。平岡直子の時評に語ってもらいましょう。

短歌作品の集合が単に作者という人間を再現するだけのものであってはならないとわたしは思うけれど、たった一首の偶然の名歌の通路になった者をそれだけで歌人と呼びたいとも思わない。一首の歌と作者の身体のあいだに「歌人」という概念があるとしたら、その領域を可視化するのは本のかたちが手っ取り早い。
–平岡直子「無は短歌総合誌に時評を書けない」『歌壇』2021年4月号

平岡の時評は、歌集を出版しない限り歌人は歌壇で「無」として扱われることを語ったものです。現状の世界で、歌人はどのように歌人として周囲から承認されるのか。その仕組みを物質的にも抽象的にも手っ取り早く保証するのが歌集であるわけです。ここで語られている「歌人」は、短歌における私性にも近い意味合いを帯びています。つまるところ、ただ一人だけの顔が安定して作動するために、歌集というハードウェアが求められてきました。
短歌における私性というのは、物質的な基礎付けを必要とする程度に曖昧で壊れやすいものです。作者名を伏せたら作品の良し悪しも作者性も分からなくなるとは、かつて桑原武夫が俳句に対して突きつけた批判ではありますが(※3)、同様の批判は短歌に対してもあてはまりますし、何度でも思い返さなければなりません。
たった一首の偶然の名歌の通路になった事例として思い出されるものには、以下の歌があります。

問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい
–川北天華 京大短歌HP「歌会の記録(2011年4月15日分)」

 

曖昧さを許さない試験問題の場面に、「夜空の青」という詩的なものが持ち込まれる嬉しさが、この歌を有名歌たらしめています。既存の定型文を書き換えて詩情を発生させている点もまた愛誦される由縁でしょう。しかしながら、川北天華の名前は歌人として記憶されてはいません。出典情報がたどれなくなれば、詠み人知らずのように扱われる可能性もあります。
さて、現状は確認できました。それでは、歌人のただ一人だけの顔が融解した世界では何が起こるのでしょうか。既存の定型文を含む短歌を事例に考えてみます。

お客様がおかけになった番号はいま草原をあるいています
–吉岡太朗『ひだりききの機械』(2014)

実在の人物・団体・事件とは関係のないことを話した
–佐クマサトシ『標準時』(2023)

誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている
–宇野なずき『最初からやり直してください』(2017)私家版

これらの歌には、電話不通時の録音、テレビドラマなどのテロップの文言、それから陳腐な励ましの言葉が上の句に用いられています。浦川通『AIは短歌をどう詠むのか』では、俵万智と永田和宏の短歌の上の句を受けて、AIが下の句を付句する試みが紹介されていました。それと同様に、吉岡や佐クマ、宇野の歌に付句をすることは可能でしょう。しかもAIは大量に付句を生み出します。上句は既存の定型文ですから、類似の短歌が無数に作られるとなると、これらの歌は氾濫する数多のヴァリエーションの中で固有性を失ってしまうのではないか。すると、これらの歌に対する「吉岡太朗」や「佐クマサトシ」、「宇野なずき」という署名の意味は、限りなく薄まっていきます。
このように、短歌一首だけを取り出して短歌を鑑賞する際には、その歌に付された署名が作者名を意味するのか、それともその短歌をAIに出力された誰かの名前を意味するのか、判断がつかなくなるでしょう。
すでに歌集を出している歌人はまだいいのです。より問題になるのは信用のない新人の方です。歌人の顔を担保する装置として歌集がますます重視されるようになるならば、歌集を出す以前の歌人たちは、いま以上に弱い立場に立たされることになります。短歌をいくつかまとめて、連作として鑑賞する場合を考えれば、作品に対する疑念をいくぶん先送りすることはできます。となれば、短歌の気軽な入口として機能していた投稿歌壇の場は、縮小を余儀なくされるかもしれません。

これからのAIは、何度でもたった一首の偶然の名歌の通路になることができます。その状況によって一番影響受けそうなのは、一首単位で鑑賞されることの多い、励ましや癒しを得るために鑑賞されている詩歌です。詩歌が励ましや癒しのために用いられることの良し悪しはさておき、現にそうなっていることは確認しておかねばなりません(※4)。癒しのための短歌とは?

いや死だよぼくたちの手に渡されたものはたしかに癒しではなく
–中澤系『uta0001.txt』(2004)

中澤系の掲出歌には、裏切りと皮肉にまみれたゼロ年代物語の空気感がにじみ出ています。厭世詩人ならば、詩は癒しの果てに死があることを常に明らかにしなければならない……などと言うところでしょうか。とはいえ、生命体でなく、従って死ぬこともないAIが生成した癒しの短歌がこれから愛誦されるとしたら、この歌は警句として思い出されることになります。
いや、現にAIは励ましと癒しのための短歌を生成しました。朝日新聞社の主催で、木下龍也『あなたのための短歌集』を学習したAIが生成した短歌がそれです。いまのところ、『あなたのための短歌集』を学習したAIは朝日新聞社のイベント以外で使用されることはないでしょう。しかしながら、そのうち海賊版が制作される可能性は否定できません。いまの気持ちを入力すれば、その状況に応じてお守りのような短歌を生成してくれるサービスができたとしたら、どの程度の人がその誘惑に抗うことができるか。お題に応じて短歌を詠む歌人は不要にはならないにしても、少なからずその価値が毀損されることでしょう。その人工知能は名歌秀歌の夢ではなく、励ましと癒しの短歌の夢を見ています。むしろ肉体を持たない分、人よりAIの方が神秘的に見えるかもしれません。SF的な想像力の世界では、AIが神のように振る舞うさまがしばしば描かれています。果たして、それでも私たちは自分で短歌を作るのか。また、短歌を読む喜びを感じ続けることはできるか。

時間は私たちの感情を汲み取ることなく流れています。まもなく暦は一巡し、月のコラムも今回が最終回となりました。本コラムは時評という位置づけになっていますが、私の場合は興味のあるテーマについて数年前の事例も思い返しながら好きに書かせてもらいました。理想としていたのはかつて『現代短歌雁』の巻頭に掲載されていた新鋭評論です。少しでも興味深い議論を提供できていれば幸いです。
コラムの最後に、私は読者諸氏に対してなぜ短歌なのか、何のための短歌なのか問いたく思っています。
私自身の立場を先に示しておきましょう。短歌は鑑賞に際して、歌を構成する単語の一語一語について用例や文脈を検討することになります。短歌という一つの文章は短さのために省略も多く、解釈に時間がかかり、だからこそ意味を定めていくまでの揺れを楽しむことができます。ジェットコースターが身体の揺れを楽しむものならば、短歌は言葉の揺れを楽しむ装置でしょう。
よって、なぜ短歌なのかについては、そうした解釈の揺れを楽しむ歌会という場を中心に短歌の文化が構成されているから、と答えます。何のための短歌かについては、楽しむためだと答えます。短歌には様々な実用性がありますが、私はあくまで、言葉が揺れる楽しみを第一義として短歌に向き合っていきたいと思っています。具体例を挙げましょう。

さ、はシティポップの語尾で夢にまでコーヒーの香が漂う朝さ
–岡野大嗣『音楽』(2021)

空気いる? 自転車置き場に猫がいてタイヤがふくらむまで見てくれる
–岡野大嗣『うれしい近況』(2023)

岡野の一首目では、語尾の「さ」の音楽における用例を想起することが求められています。私が作者ならばここで三句目に「さ」を置く誘惑に抗えるかわからないのですが、掲出歌では「さ」が結句まで引き延ばされており、引き延ばされた分だけ予告された「さ」に出会えた嬉しさは増していきます。ここには一首における予告と成就、あるいはストレスとカタルシスの構造が用いられています。「夢にまでコーヒーの香が漂う朝」もそれはそれで美しいイメージです。
二首目のほうは、初句の「空気いる?」が初句だけ見た際にはどういう状況で発話されたものなのかわかりません。空気は要る要らないを問われる以前にいつも肺に出し入れしています。だから、自転車に空気を入れる場面という文脈を離れた「空気いる?」は奇妙な問いかけとして響きます。そうやって日常の文脈を離れたフレーズが、二句目以下によって文脈が補完され、読み手の私は安心するとともに嬉しさを感じます。

AIによる短歌生成が一般化すれば、おそらく第二芸術論以来の大きな議論が短歌にもたらされるでしょう。具体的なことはうまく予想できませんし、今回のコラムでは読み方の問題と歌壇の制度の問題をそこまで区別せずに語りました。だとしても、短歌を読む/詠むことの基本的な喜びを保ち続けることができるか。私はそうであってほしいと祈っています。
切に願わくは、短歌に関わったあなたの人生が、世々限りなく豊かなものになりますように。一年間ありがとうございました。

 

※1 岡井隆『現代短歌入門』の「私文学としての短歌」に含まれるこの一節は過去幾度となく引用されています。

※2 田中有芽子『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』は、2019年に私家版として刊行されたのち、2023年に左右社から新装版として刊行されました。私家版歌集が編集者の目に留まり、商業出版された事例はいくつかあります。短歌の世界の人口が増えたことで、賞に拠らない歌集出版の道が生まれつつあります。ただし、受動的な態度のままでは何も起こらないでしょう。

※3 桑原武夫「第二芸術:現代俳句について」は、『世界』1946年11月号を初出とし、桑原の評論集『現代日本文化の反省』(1947)に再録されました。戦後短歌が直面した第二芸術論の名はこの文章に由来します。

※4 近年の短歌が「癒し」という実用性を期待されていることについては、𠮷田恭大によって2023年5月の月のコラムでも指摘されています。また豊﨑由美、広瀬大志『カッコよくなきゃ、ポエムじゃない!:萌える現代詩入門』(思潮社)では、相田みつをの作品が「励ま詩」として言及されていました。果たして短歌は「みつを」化しているのでしょうか。いずれにせよ、励ましと癒しのための詩歌に対する批評のあり方は悩ましいところです。