私(たち)の望むものは……。社会詠と短歌の社会的影響力について

今月は短歌が社会的影響力を持つことについて考えようと思います。前々回は『現代短歌』2024年5月号のアンソロジー収録歌人公募に際して発表された乾遥香によるステイトメントから出発して、新人賞のひとつである現代短歌評論賞に求められそうなことを書きました。今回もこのステイトメントから始めることにします。以前の宿題を片付けることにしましょう。ステイトメントの当該箇所をもう一度引用します。

このアンソロジーを起点に、現状ほとんどルーティンとローテーションで回っている「短歌の仕事」が新たに配分され、若い書き手が起用される場面がひとつでも多く増え、その仕事それぞれがより社会的な影響力をもつことを私は望みます。
-乾遥香「「現代短歌」2024年5月号(3月発売)誌上アンソロジー 公募に際してのステートメント」

このステイトメントには乾遥香の望むことが端的に書かれています。若い書き手が起用される場面が増えること。その仕事それぞれがより社会的な影響力をもつこと、です。では私こと、このコラムの書き手である髙良真実の望むものはなんなのかと問われると、ちょっと答えに窮してしまいます。ひとまずは、生きる苦しみではなく喜びなのだ……と岡林信康の曲(※1)を引用しつつはぐらかしておきますが、この問いについてはあとでちゃんと答えます。

今回のテーマは短歌が社会的影響力を持つことについて考えることでした。こういう話はプロの意見を参照すべきでしょう。昔から短歌はプロに訊け!といいます(※2)。というわけでプロ(レタリア)短歌の評論集をめくってみましょう。当時からプロレタリアは「プロ」と略され、プロ短歌とかプロ歌人とか呼ばれていました。彼らプロレタリア歌人たちが短歌の社会的影響力についてどう考えていたのか、参考になりそうな箇所を1930年刊行の『プロレタリア歌論集』(※3)から引いてみます。解説しますので、引用部分が読みにくい場合は読み飛ばしていただいても構いません。

プロレタリア短歌は、根本に於て凡ゆる個人主義的なものを否定する。華美な調子。。。。。に乗つた物言ひは、作者の功名心をそそり、讀者の心を物の核心からひきはなす。左様なものにひつぱられる時讀者の心は、現実に対する認識を失なつて,作者の個人主義的な功名心の虜になつて了ふ。我々の短歌は、讀者、プロレタリア大衆をして、終りには、確かりと×の意志を把握せしむるものでなければならない。
-田邊駿一「俺達はいかに表現すべきか」『プロレタリア歌論集』(1930)

「ここだけは安全地帶じや。マルクス主義者も齒が立つまい。」國粋主義者の寝言のやうな歌壇へ僕たちはぐんぐん喰ひこんだ。僕たちはそこ・・で何をしたか? 第一に歌の定型といふものをぶつこはした。第二に歌を散文化した。それは(ほとばし)り出る僕たちの感情を盛り易くするためのほんの手段にすぎなかつたのだ。
-岡部文夫「誰にもわかるプロレタリア短歌の形式」『プロレタリア歌論集』(1930)

歌論集に収められている12人のうち、田邊駿一と岡部文夫の2人を引きました。文中の「×」は「党」の伏せ字なので、引用文中にルビとして補いました。公式的で読みにくい文章だと思います。彼らは当時、歌壇の中で思想前衛に位置づけられていました。
田邊は短歌を個人だけのものにすることを否定しており、短歌によって大衆読者に党(共産党)の意志を把握させることが必要だと語っています。この文章の中では、短歌はほとんどプロパガンダとして位置づけられています。一方岡部の方は、旧弊な歌壇を改革し、芸術を人民大衆のものに開放するところに短歌の社会的影響力を見ているようです。
まとめると、プロレタリア短歌は読者に階級対立への自覚を要請するようです。プロレタリア文学の世界観では、資本主義社会に暮らす人々をプロレタリアートとブルジョワジーに分けます。「俺たち」は工場労働者で、プロレタリアートである。ブルジョワジー(ブルジョワ、ブル)は金持ちで、「俺たち」を搾取している。だから「俺たち」は団結してブルジョワ階級と戦うべきである、と。「党」はそうした社会変革を実行する主体として位置づけられています。プロレタリア短歌の大きな特徴は階級対立を中心とした発想にあります。
現在の短歌で階級対立的発想に立つものはそう多くはありません。またかつてプロレタリアートの典型例であった工場労働者はその数を大きく減らし、都市部では事務労働者(ホワイトカラー)が労働人口の多数を占めるようになりました。形骸化しているとはいえ、日本は一億総中流社会の趣をまだまだ残しており、当時と同じような形で、自分が「プロレタリア」であるという意識を持つことも困難でしょう。
昨今、生活苦を主題にした短歌や労働詠がプロレタリア短歌になぞらえて語られることがあります。しかしながら、こうした90年前と現在との社会状況の差を考えると、現在の生活苦を主題にした短歌をプロレタリア短歌と呼ぶことはためらわれます。

話を戻しましょう。今日ここで考えたい短歌の社会的影響力とは、階級対立の自覚と労働運動への積極的参画コミットメントを促すようなないように思われます。どちらかといえば、言葉が世界を変える可能性を信じることに基づく、魔術的なものとして捉えた方がいいかもしれません。
アンソロジーに併録されている乾遥香×瀬戸夏子の対談では、プロレタリア短歌はスローガンと相性が良すぎて歌としてのニュアンスに欠けるため、現在は残っていないことを瀬戸が語っています。対談の当該箇所に付されている小題は「フェミニズム短歌は残るか」です。おそらく編集部によって与えられたものかとは思います。けれどもプロレタリア短歌を引き合いにこうした問いがあると、マルクス主義に基づく革命論に対して、フェミニズムはどのような社会変革を望んでいるのか、「フェミニズム短歌」(なるものがあるのか現時点では判然としないとはいえ)が、そこにどう関与するのか考えてみたくなります。
肯定的に座談会に引かれている名前は、この箇所だと桐島あお、里十井さといまどか、すこし離れたところで乾に「思想の存在を感じ」ると言及されている仲井なかいみおを挙げることができます。桐島、里十井、仲井、そして乾遥香自身の歌を引いてみます。

熟れすぎた無花果を裂く 産めないと知ったわたしの手にも親ゆび
-桐島あお「親ゆび」『現代短歌』2024年5月号

すばらしい魔法を3回解いてみて3回目には女しかいない
-里十井円「屋根裏の」『現代短歌』2024年5月号

ラブアンドピースのために新しくつくられる子どもたち 私たち
-仲井澪「まぎれる」『現代短歌』2024年5月号

体当たりしようとは思ってる いつも 体の量が足りない いつも
-乾遥香「ロール」『ぬばたま』第七号(2022)

フェミニズムはこの社会に残っている家父長制の解体を望む考え方であり、現実的な使い方では、その実践自体がフェミニズムと呼ばれることもあるようです。フェミニズムを基底とする短歌は、多くの場合、読者個人がそうした家父長制に自覚的になり、その解体に向けて何かしらの行動を起すことを促しているように感じられます。いま私は、わざとプロレタリア短歌について語ったときと同じ語り方をしました。しかし労働運動とフェミニズム運動には一点大きな違いがあります。前者が集団的な団結のため、個人を一つの「細胞」として扱うのに対し、後者は「個人的なことは政治的なこと」という観点から、個人の体験を基底に思想を練り上げていきます。
フェミニズムの理論では、個人的なことを社会的なこととして扱うことが可能です。それゆえプロレタリア短歌のように、階級対立といった一つの真実に向かうのではなく、それぞれの個別の体験が短歌に直接反映されることとなります。それを念頭に置きつつ、それぞれの歌を読んでみます。
桐島の歌は女性の産むこと/産まないこと/産めないことに関するものです。アンソロジー収録の連作冒頭では、故郷で子を望まれていることが描かれていました。しかし、自分自身は産めない身体であった。「親指」がある点など、身体の形は同じように見えるのに、生殖能力という点で見えない違いがあることへの嘆きとして下句は読むべきでしょう。ただし短歌としては、何の喩であるかにせよ、上句の表現がありきたりなものにとどまっている点を批判できます。短歌は歌の内容に同意できるか否かでその質を評価することはできません。プロレタリア短歌と、それを引き継いだ戦後の『人民短歌』の人々は二者を混同したまま議論を進めていました。けれども私は二者を区別します。そうした観点から、私は桐島あおの歌を良いものであると評価できないと思っています。
里十井の歌は、魔法のようなサービスなどを腑分けしていくと、女性がその根底で働かされていることをかなり抽象的に描いたものに見えます。家庭内の再生産労働、いわゆる家事がそれに該当するのでしょう。とはいえ、私にはまだ数字の意味を理解できていません。
仲井の歌は、自分の意志が介在せずこの世に産み落とされたことへの根源的な悲しみが描かれているように思います。子どもは「つくる」という言い方をするものですが、「つくられる」私たちまで自意識を勧めると、自分自身が工業製品のように思えてつらいのではないか。産む/産まない/産めないに関する歌ではありつつ、産まないことへの新しい切り口を示しているように感じられます。
最後の乾の歌は身体的な質量の違いに着目したものです。人間には体格差があります。多くの場合、男性よりも女性の方が体の量は少ないものです。痴漢への対処法として体当たりをすることが推奨されているとはいえ、質量の大きいものに小さいものをぶつけると、物理的な法則として小さい方が飛ばされていきます。そして身体の量は容易に変更することはできず、健康的に生きることのできる上限や下限は生得的に定められています。リフレインはそうしたやるせなさと怒りを感じさせます。こうした点から、私は引用歌中で一番根本的/急進的ラディカルにフェミニズムを実践しているのは乾の歌であると考えています。

もちろん、産む/産まない/産めないことに関する歌は、長らく“女歌”のテーマとして用いられてきました。例歌を引きます。

いつかわたし蛙のおかあさんになる死後はあんなにあかるい沼地
-大森静佳「オーガンジー」『現代短歌パスポート』2恐竜の不在号(2023)

いつか犬のおかあさんになるといふ夢が我にあり犬に言葉かけつつ
-大口玲子『東北』(2002)

ゆるされてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら
-水原紫苑『びあんか』(1989)

大森静佳の歌は、昨年2023年に刊行された書肆侃侃房のアンソロジー『現代短歌パスポート』より引きました。社会的に望まれているのは人間の子どもを産むことですが、大森は蛙という異類を産むことを想像しており、また下の句によってそれが輪廻転生したのちに起こるかもしれないと考えていることが読み取れます。
社会に望まれた人間の子どもではなく、望まれない異類を産むことへの欲望は、当該アンソロジーの21年前に刊行された歌集にも見つけることができます。大口玲子の歌はあくまで「夢」として語られているものですが、社会に対する叛逆の意志が感じられます。
さらに13年遡ると、「ゆるされて」という条件付きではありますが、異類を産むことへの欲望を水原紫苑の歌に見つけることができます。この「子ら」が果して人間か否かは結局わからないとはいえ、人間は「硝子・貝・時計のやうに響きあふ」ことは一般的にはないので、異形のものを想定しているように思われてなりません。
ただ、これらの歌を“女歌”のカテゴリに閉じ込めておくことは不幸だと思います。“女歌”は、短歌が一般的なものならば、そのサブカテゴリにあたる特殊なものとして語られます。一般的な短歌ならどこでも引用できるけれども、特殊なものは特殊な条件下でしか引用できません。

試みに、特殊なものと一般的なものの境界線をかき乱してみましょう。フェミニズムの理論の中心には「個人的なことは社会的なこと」という考えがあることは先にも語りました。裏を返すと、社会的な問題は私たち個人一人一人の問題であるとも言えます。ならば、次のような歌も、「社会詠」と言えるのではないか。

車ってゼリー素材にしたほうがよいのではないでしょうか総理
-木下龍也「ひとりひとりぐらぐらしし」『現代短歌パスポート』3おかえりはタックル号(2024)

愛はある/ないの二つに分けられず地球と書いて〈ほし〉って読むな
-上坂あゆ美「おしまいで行く」『現代短歌パスポート』3おかえりはタックル号(2024)

子はみんな誰かの子 けどはぶられてジャングルジムですごい角度の子
-小池耕「うねうね」『現代短歌』2024年5月号

誰も死なず誰も責任を問われない理由で電車が止まってほしい
-佐々木朔「ベリー・サマー」『現代短歌』2024年5月号

交通事故で人が死ぬ現実に対して、車をゼリー素材にするという荒唐無稽な解決策を総理に提案すること。地球を「ほし」と書いて、地球への愛を啓発する環境問題の語り方に対して、それを否定すること。「はぶられて」いじめられる子どもを見つけること。あるいは、人身事故があることに対して、人が傷つかない形で電車が止まるというねじれた欲望を示すこと。これらの歌は奇想的でありつつ、しかし奇想の根底には社会へのまなざしがあります。どの歌も、漠然と社会が良くなることを望んでいるように思います。私たちが望むのはどういった社会なのか。
社会学では、違和感をきっかけとして社会の存在に気づくことが語られます(※4)。社会は普段空気のように透明で、その存在を無視できるのに、就活の現場や病院を受診したときなど、なにかしらの問題や困難を抱えると、社会が私たちの障害として姿を現します。
社会への違和感をそのまま甘受して、見なかったことにすることも可能です。けれども短歌には、社会が口をあけたときの感覚を見逃さなかったものがあります。私はこれも社会詠と呼んでみたい。歌を引きましょう。

口うつしでお金をあげるここにだけ前世も来世もあると思った
-平岡直子「金色」『現代短歌』2023年7月号

放射能も吐かない飛沫も飛ばさない口を開けるのみのゴジラ見上げる
-川島結佳子「長い三画目」『現代短歌』2024年3月号

平岡の歌は金銭の授受に関するものです。お金はあの世に持っていけないものの代表例です。だからお金のやり取りをするときは、いまここで売買契約を結ぶ現世のことだけに焦点が当たります。しかし、それを「口うつし」でやり取りするならば、違う世界が見えるのではないか。
川島の歌は2011年の福島第一原発事故と、2020年にはじまるコロナ禍という二つの災厄を前提として、新宿のTOHOシネマに設置されたゴジラ像を眺めています。ゴジラは代表的な災厄の化身です。2016年に公開された映画『シン・ゴジラ』も、2023年に公開された『ゴジラ-1.0』も、それぞれ現実の災厄を強く感じさせるものでした。しかし現実のゴジラ像は無害です。フィクションの災厄と、現実の無害さを対置されると、むしろ現実自体が最悪な災厄であるかもしれないという思考の混線が起こるように思います。

2024年6月現在、社会詠といったときに思い浮かぶのは、ロシアによるウクライナ侵攻と、イスラエルによるガザ侵攻についての歌でしょう。『短歌研究』2024年4月号に掲載されたガザに関する黒木三千代の連作「悪について」はそれなりに話題となりました。角川『短歌』2024年5月号では、第二特集として「当事者性と批評性」を組んでおり、そこには現在の国際的な社会状況や震災後の日本社会を批判的に見つめる作品と論がいくつも収録されています。また『現代短歌』2024年7月号では特集「GAZA」が組まれ、パレスチナとガザに関する歌が数多く収録されています。
これらの特集に立ち入る前に、一度これまでの短歌の議論を参照しておきます。海外で生じた危機的状況をどのように読むべきかに関する議論は、2006年から07年の社会詠論争(※5)で扱われています。この論争は、イラク戦争に関する岡野弘彦の歌集『バグダッド燃ゆ』(2006)について小高賢が論考を発表し、青磁社の週刊時評で大辻隆弘と吉川宏志がそれに反応したことをきっかけに起こったものです。最終的には2007年2月にシンポジウム「いま、社会詠は」が開催されています。
このシンポジウムの中では、小高賢が社会詠を「題詠」的であると批判しています。これは論争の起点となった小高の論考「ふたたび社会詠について」(※6)から一貫している主張です。小高の主張を引きます。

ともかく社会を歌えばいいという素朴な意見は論外であるが、社会や世界に関心を持っていても、なかなか作品として結実しにくい。題詠に陥らず、かつ読者と感情を交換できる作品とは、どういうものだろうか。現代短歌は困難な場に立たされている。
-小高賢「ふたたび社会詠について」『かりん』2006年11月号

下手をすると社会詠って全部題詠ではないか。テレビや新聞で見たものをテーマにして歌っているのではないか。内発性と題詠という関係は非常に難しいとは思いますが、極論を言えば、ほとんど社会詠が題詠化しているのではないかという感じもするわけです。
-小高賢 シンポジウム「いま、社会詠は」『いま、社会詠は』(2007)

この批判は、シンポジウム内で社会詠の類型化の問題として扱われることとなりました。しかしながら、この問題を類型化の切り口から語ろうとすると、重要な点を見落としてしまいます。海外で生じている、多くの人が経験し得ない事象を想像力によってどのように詠むのか。そして詠まれた短歌のもつ社会的な影響力はどうなのか。東日本大震災を経て当事者性に関する議論を経過した現在の歌壇に小高の問いを持ち込むのであれば、こうした切り口から語り始めるべきではないでしょうか。
『現代短歌』2024年7月号の特集「GAZA」には、〈天井のない監獄〉という語が何度も見えます。メディアの言葉を詠み込むことにためらいがありません。詞書も多い。どのように自分自身に引き寄せるかに関して、誰もが苦心しています。題詠「ガザ」のアンソロジーと言っても差し支えないほどです。あるいはお題を隠すために、抽象的にガザの危機を暗示する方法が取られることもあります。大口玲子と田中槐はクリスチャンの立場から詠んでおり、私も受洗した一人としてざわざわしたのですが、非当事者の立場にとどまっており、まだ核心的な部分に迫っているようには思えませんでした。
外部に立つことや、抽象化することなど、いずれの方法にも私は満足しません。私は社会詠が社会詠の概念を疑うほどに拡張されることを望んでいます。冒頭の問いに答えましょう。私の望むことは、社会詠とそうでない歌の境界線が攪乱されること。そして当事者と非当事者の境界線が攪乱されることです。

 詞書:パレスチナの出生率は高い
つぶて、また銃身を抱き産道をくだり来るなり パレスチナは産む
-黒木三千代「悪について」『短歌研究』2024年4月号

黒木三千代の掲出歌は2024年の秀歌リストに加えられそうなほど完成度の高いものです。しかしながら、ここに方法論の革新はありません。依然として作中主体はパレスチナ/ガザの外部にあります。いかにその幻想が力強くとも、幻想は日本とパレスチナの間にある9000kmあまりの距離を攪乱することはありません。
パレスチナ/ガザに関連するもので、私が大きな可能性を感じたのは以下の歌でした。

教室の床に散らばるクレヨンが薬莢のよう 拾え、と命ず
-齋藤芳生「牡丹と刺繍」『現代短歌』2024年7月号

ハンジ・ゾエが虐殺はダメだと言ったころ虐殺はフィクションのことだった
-牛尾今日子「フィクション」『八雁』2024年5月号

齋藤の歌では、日常的な小学校の教室の風景に、危機的状況を幻視しています。私はこの歌から、半世紀以上前に馬場あき子が語った「現代の女歌のイメージは、たかだか幻想などという甘ったるいものでしかないのだろうか。むしろ女は、この生活現実の冷厳の中に、男ほどには幻を求めたりはしないものと思うのに。」(※7)という言葉を思い出します。馬場の言葉は、つまるところ生活現実の冷厳さを描写するために、表現が幻想的にならざるを得ないことがあると換言できます。クレヨンを薬莢に幻視することは単なる幻想ではなく、むしろ幻視的風景の中にしか現在の異常事態を表現できなかったのではないか。
また牛尾の歌では、漫画内世界と、日本社会と、パレスチナの状況が「フィクション」によって混線させています。ハンジ・ゾエは漫画『進撃の巨人』の登場人物で、「虐殺はダメだ」と言ったのは、作中で大虐殺が起こる以前のことでした。また現実世界の時間軸でも、連載当時はガザでの大虐殺が起こる以前のことでした。しかし虐殺は現実となった。この歌は9000kmの彼方で起こっている虐殺を、漫画という生活空間で目にして手に取ることのできる距離まで近づけています。主体に然り。私にも然り。私の世代にも同意できる人は多いと予想します。こうした距離の攪乱に私は期待しています。

社会詠の問題については、先に2つの問いを立てました。ひとつは、多くの人が経験し得ない事象を想像力によってどのように詠むのか。もうひとつが、詠まれた短歌のもつ社会的な影響力はどうなのか、です。前者の問いについては私見を示したので、最後に後者の問いに進みたいと思います。
短歌の社会的な影響力という話題に関して、『現代短歌』2024年5月号の乾遥香×瀬戸夏子の対談では、以下のような会話が交わされています。

瀬戸 めちゃくちゃ最近思っててさ、言うだけなんだよね、これは私自身の問題でもあるんだけど。〔中略〕さっきの虐殺止める話とかもさ、権力持って、その権力で虐殺を止めようと貢献する方がふつうに有効じゃん、反戦短歌つくるよりも。てなったときに、中途半端な政治詠つくって満足している人って一番ダメじゃないかっていう気がする。〔中略〕今の総合誌や結社誌にたくさん載ってる中途半端な自己満政治詠は、日本人同士が慰めあって気持ちよくなってるようにしか思えない。

 アンソロジー、やらないよりはやったほうがいい、の精神でやってますけど、そういう短歌も、作らないよりは作ったほうがいいと今は思ってるっていうか。つくれば増えるから、短歌全部の中でこういうものが一部でいいから占めてくれてた方が、良いことがある気がする。

-対談 乾遥香×瀬戸夏子「このゆたかなところへ、遅れてやってきて」『現代短歌』2024年5月号

ここで瀬戸は、短歌よりも行動する方が有効であると語ります。乾はやらないよりもやった方がいいと応答しています。
瀬戸の発言には一つの誤謬があります。短歌をつくることと行動することは二者択一ではありません。実際の状況を眺めてみると、反戦短歌を作っている人の方が、そうでない人に比べて実際に行動している例をよく見かけます。
対する乾の方にも無批判ではいられません。政治の言葉を含めて、詩歌の外の言葉にも諷喩アレゴリーや概念メタファーなど、詩歌の効果は使われています。むしろ必要なのは、言葉に説得力や真実味を持たせようとするとき、詩歌の技法が利用されていることを自覚させることではないか。
例えば行政用語に「直接強制」というものがあり、これは本人の身体または財産に直接実力を行使すること(代執行を除く)と説明されます。具体的には不法入国者の強制退去などが強制執行に該当します。この行為は権力の発露ですが、「実力」と表現されることで、暴力的なニュアンスは弱められているのではないか。詩歌は根源的に適切な語句を斡旋する問題を抱えていて、従って行政用語を文学的に分析することも可能です。短歌の社会的影響力は、文学の外にあると思われるものを文学化するときに最大となるのではないかと私は思います。
対談の該当箇所で俎上に載せられていたのは瀬口真司の歌でした。一首引きましょう。

犯罪で大きな音が鳴るかもよパースナル・カンピューラの破損
-瀬口真司「コール」『現代短歌』2024年5月号

パソコン(personal computer)はローマ字読みに近づけて「パーソナル・コンピュータ」と書かれます。けれど「パースナル・カンピューラ」の方が実際の英語の発音に近くて、この下句は意味するものがすぐには分からなくとも、文字を読み上げると自動的に、personal computerと、英語話者のように発音できてしまいます。ここでは音と意味の関係性が破損しています。歌の中ではpersonal computerも破損しています。上句は仮定が語られただけなのに、下句ではすでに結果のような事態が示されている点にも注目しなければなりません。因果はわからないけれども、犯罪のような、まずい事態に加担させられたのではないかと不安にさせる力がこの歌にはあります。
瀬口の歌には、政治の言葉や身体を統制する言葉を詩歌に差し戻す作用があり、私はこの作用に期待を寄せていました。瀬口はかつて青松輝と共同で、以下のようなステイトメントを発表しています。一部を抜粋します。

ルールの穴をつくのではなく、ルールを書き換えるのとも異なって、ルールを傷つけること。資本主義の、ヘテロセクシズムの、日本語のルールに、傷を。しかし定型批判こそが、装置としての定型を確立するための相補的な外部に位置する。われわれは今度こそ〈反〉の立場をとるのではなく、それを内から一回ずつ傷つけることを試みなくてはならない。
-青松輝+瀬口真司「ステートメントA+S」『いちばん有名な夜の想像にそなえて』(2022)

「傷つけること」が具体的にはわからなくとも、社会的なものに批判意識をもっていることは伝わります。だからこそ、特集「GAZA」の作品10首に瀬口が寄稿すると知ったとき、私は大いに期待していました。いくつか引きましょう。

飛んでくるティンカー・ベルの床を這う黒い影 壁との境で折れて
西日に傷んだ髪巻き込まれ 還さなきゃいけない暗黙も幻想も
もっと世界にもっとぼくらが 哀悼のたしかな攻撃の歌
-瀬口真司「だから」『現代短歌』2024年7月号

率直に、読んで落胆しています。折れたり傷が付いているのはティンカー・ベルの影や主体の髪であって、日本や日本社会や国際社会は無垢なままではないか。一首目はティンカー・ベルという子どもの表象の影を折り曲げることで傷つく子どもを幻想させているという読みをすることはできます。二首目にもメタ的な視線を感じることはできます。しかしながら、ステイトメントに対して表現が追いついているとは言いがたい。私は瀬口に対して、ステイトメントを実行することを望んでいます。もう少し上手いやり方で。

私はかつて批評会のパネリストとして「社会詠は社会詠に見えないものがもっとも良い」と発言したことがあります。すぐれた社会詠とは社会詠だと思われない歌のことで、私はこのコラムの中で、社会詠に見えない社会詠たちに、社会詠のラベルを再度貼ってきました。
またかつて、同郷出身の大学教員から、政治的な話題を避けることもまた政治的な振る舞いである……と言われたことがあります。私たちには社会詠を避けるような社会性があって、だからこそ、境界を撹乱する実践が必要です。
冒頭の話題から遠くに来たようで、実のところずっと同じところをぐるぐると回り続けていたのかも知れません。私の望むものは示しました。ゆえに問いましょう。読者である、あなたたちの望むものは……?

【註】
※1 岡林信康「私たちの望むものは」は1970年に発表されたフォークソングです。歌の社会的影響力を扱うのであれば、フォークソングについては一考の余地があります。

※2 穂村弘、東直子、沢田康彦『短歌はプロに訊け!』(本の雑誌社, 2000)という、沢田康彦主宰のファックス&メール短歌の会『猫又』に寄せられた短歌を穂村弘と東直子が座談会形式で批評していく本があります。

※3 プロレタリア歌人同盟編『プロレタリア歌論集』(紅玉堂, 1930)。NDLデジタルコレクション個人送信サービスにて閲覧可能。

(※4)こうしたテーマを扱った社会学の文献として、光文社新書に収録されている好井裕明『違和感から始まる社会学:日常性のフィールドワークへの招待』(光文社, 2014)を挙げておきます。

※5 この論争の経過は青磁社編『いま、社会詠は』(青磁社, 2007)に収められています。なお、社会詠論争における小高賢の発言に注目した月のコラムとして、濱松哲朗「個人と社会のあいだ」があることを附記しておきます。

※6 『かりん』2006年11月号収録。前掲『いま、社会詠は』に再録。

※7 馬場あき子「女歌のゆくえ」『短歌』1971年3月号