ブックレビューの書き方(と、口語短歌の詠嘆のこと)

先月は現代短歌評論賞の選考委員が書いてきた評論を読むことで、良い評論の条件を考えました。ところで、歌壇にはもう一つ批評に関する賞があります。現代短歌社が主催するBRブックレビュー賞です。私は2023年度第4回の受賞者で、副賞として雑誌『現代短歌』での書評連載を2024年1月号(100号)から担当しています。賞の締切は6/1ですから、そろそろ応募用の書評を書きはじめるころでしょうか。
というわけで今月は良い書評の条件を考えてみましょう。さしずめBR賞の傾向と対策です。いや正直なところ書評の賞なんて傾向はよくわからないのですが、私自身の書評の書き方を明らかにすることで、多少の対策にはなるでしょう。『現代短歌』のアンソロジーを読むという先月の宿題もあるんですけど……。それは追々やることにします。

もちろんみんながみんな書評や批評を書く必要はありません。書評の書き方には型があって、それはある意味、歌集をより深く読み込むためのテクニックでもあります。楽しみは増やした方がいいでしょう。私はそのように信じます。

書評といえば、この3月に結社誌『塔』の「八角堂便り」コーナーで栗木京子が「歌集の批評とは」という文章を書いていました(※1)。この文章で栗木は「あまり感心しない歌集評」の内容を5点挙げており、インターネット上に公開されたのちに少し話題になったように記憶しています。曰く、「★作品を離れて自説を展開する」、「★他の歌人の作品と過度に比較する」、「★一首評ばかりを列記する」、「★統計をとっただけで終わる」、「★褒めすぎる、批判しすぎる」の5点です。
人によっては耳が痛い内容かもしれません。私は「★統計をとっただけで終わる」のあたりでヒヤッとしました。ものを数えるのがとても好きな性分なのですが、手を動かして作業をすると、それだけで内容が確約されたように思うことがあります。しかし考察が不十分であれば、内容が良いとは言えません。時間をかけたのに大学や仕事のレポートがあまり評価されたなったときは、こうした罠にはまっている可能性があります。
さて、避けるべき書き方はわかりました。では、私たちは何を目指すといいのでしょうか。

私は書評の基本を、その歌集が最も良く見えるような読み方を示すことだと思っています。
ひとつ思い出話をしましょう。2022年の7月に、先輩の俳人の結婚式の場で『現代短歌』編集長の真野さんとお会いしたときのことです。同じテーブルにいた真野さんは、不意に好きな批評家は誰かと問いました。私は吉本隆明だと答えた覚えがあります。吉本の『言語にとって美とはなにか』における分析的な方法に深く影響を受けていたからです。すると真野さんは「君はもう少し批評らしい批評を書いた方がいいと思う」と言いました。批評らしい批評とは……? そのすぐあとに披露宴の出し物がはじまり(沖縄の披露宴の風習です)、この話題はそれきりになってしまいました。当時の私は2021年に現代短歌評論賞の次席をいただいていて、次こそ受賞すべく22年の評論賞にも応募原稿を提出したあとでした。多少自信もついたころに、天狗になりかけていた出鼻をくじかれた形です。
家に帰って手始めに手に取ったのは、戦後短歌を代表する批評家、菱川善夫『歌のありか』(※2)でした。恥ずかしいことに、古書店で手に入れたまましばらく書棚にさしていました。ところが読み始めると、これがべらぼうにおもしろい。どうしてもっと早く読まなかったのか。
特に「反英雄の道」と題された宮柊二『小紺珠』評には感銘を受けました。この歌集は既に読んでおり、宮柊二は暗く重たくつまらないと感じていたのですが(宮柊二ファンとコスモスの皆様すみません)、考えを改めました。
『小紺珠』(※3)は冒頭に旧約聖書詩篇から第80篇9-13節が掲げられるなど、物々しい雰囲気を漂わせています。この詩篇箇所は、神はエジプトから民を導きだし、国中に葡萄園を作らせるほど繁栄させたのに、どうしてその石垣を崩されたのかと、国の荒廃と受難を嘆く内容です。歌集には以下のような歌が収められています。

おとろへしかまきり、、、、一つ朝光あさかげの軌条のうへを越えんとしをり
悲しみを窺ふごとも青銅色せいどうかなぶん、、、、一つ夜半に来てをり
この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたひ射抜かれて死ににたる彼
/宮柊二『小紺珠』(1948)

歌に登場する昆虫は弱々しく見えます。また引用三首目の結句「死ににたる彼」は「死ぬ」に完了の助動詞「ぬ」と完了の助動詞「たり」が重ねられていて、口ごもるような情感があります。大正期の短歌なら「死ににける」などとしたところかと思いますが、掲出歌は「けり」による詠嘆が回避されています。どうして「死ににたる」なのか。
菱川は宮の暗さと重さについて、次のように書いています。

反英雄の志も、根本的には、この自己犠牲の精神を温床としている。人生上の不幸は誰の上にも訪れるものであるけれど、宮柊二の場合、見逃していけないのは、歴史を背負って生きている個人の倫理的な自己形成、思想的自己形成の次元にまで、その不幸を押しあげている点である。〔/〕こういう内部構造をもった宮柊二の作品が、いい知れぬ沈鬱を湛えていたとしても、当然のことといわなくてはならない。
菱川善夫「反英雄の道」『歌のありか』(1980)

「いい知れぬ沈鬱」は「当然のこと」だと。私が理解できていなかったのは宮柊二をとりまく戦後の思想です。菱川は、将校への道を幾度も断り一兵卒として日中戦争を生き抜いた宮柊二の倫理と葛藤が宮の歌に反映されていることを指摘します。この評論は暗さと重さの理由を考えるという読解の道筋を示しました。私に不足していたのは技法が選択された理由を考えることでした。深く歌集を読み込むためには、歌集に対して問いを立てることが必要になります。
批評は人をたしかに変えます。隣の芝は青い芝、批評の芝は青い芝なのでしょうか。「批評らしい批評を」という真野さんの言葉は、2022年の8月に評論賞の受賞の知らせを受け取ったのちも私の頭に刺さったままで、翌年BR賞に応募するひとつの動機になりました。

思い出話はこのあたりにして、そろそろ具体的で定量的な書評の書き方の話をします。BR賞のフォーマットは3200字(32字×100行)。書評連載の方もだいたい同じです。同じ分量の書評を何度も書くことで気づいたことには、分量に対する適切な引用歌の数があることでした。これに気づいてから、はじめて指定される分量のとき、必ず同じ媒体掲載書評の引用歌数を調べています。
ここでは、第3回BR賞受賞者である乾遥香の書評を分析してみます。BR賞受賞時の平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』書評では、引用歌数25首でした。連載の方は、大森静佳『ヘクタール』書評で19首、栗木京子『新しき過去』書評で22首、永井亘『空間における殺人の再現』書評で20首、枡野浩一『枡野浩一全短歌集』書評で9首、水原紫苑『快樂けらく』書評で24首、我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』書評で37首でした。
なお、枡野の歌集は「全短歌集」ですが、刊行に際して歌数がかなり絞り込まれています。我妻の歌集は誌上歌集の再録も含む特殊なものです。
つまり、単行本の序数歌集に対しては、引用歌数が19首から25首の幅におさまっています。乾の文体は真似するのが難しいものです。しかしこの結果は、エキセントリックに見える書き方でも、実はある程度 “型”があることを示唆してくれます。無意識であれ、自覚的であれ、形式は内容を制約します。詩型が短歌らしさを規定するように、下部構造は上部構造を規定します。
ちなみに私は乾より引用歌の数が少なめで、15首前後引くことを心がけています。

3200字の分量だと、経験的にテーマひとつではだいた息切れします。また、短歌評論では3首でひとつの主張を示す傾向にあります。従って、主張ふたつ(3首×2回)でひとつの小テーマを示し、同様にもうひとつ小テーマを示したのち(ここまで引用歌は12首程度)、残る3首でふたつの小テーマを架橋する歌集の大テーマを明らかにすることを、書評の基本型として私は心がけています。もちろん、歌集やテーマによって引用歌数に多少の増減はあります。
構造がわかったところで、次なる問題は、歌集からどのようにテーマを取り出すのかです。私は長い連作に注目しています。20首以上の連作には歌人が取り組んでいるテーマが現れやすい傾向があります。歌集から長い連作を書き出して、どのようなテーマがあるのか追っていくと、自然と歌集の輪郭が明らかになります。逆に言えば、こうした方法を無意識にでもいいから身につけないと、書評連載を続けることは難しいでしょう。
BR賞は3200字(原稿用紙8枚)で、規定分量1万2000字(原稿用紙30枚)以下の評論賞より楽な賞に見えますが、受賞すると隔月で書評を書くことになります。連載ない月も現代短歌社以外から書評の依頼があります。月に1本8枚の書評出せるくらいの余裕は必要です。だから応募前には、現代短歌社賞のフォーマットで何本か書評の練習をしてから応募作に取りかかることを切におすすめします。

抽象論はここまでにして、ここからは演習をしますね。今回は山階基『夜を着こなせたなら』(2023)を扱います。2023年の歌集で、今年のBR賞で選択可能な範囲ですが、どうしても扱いたいので……。理由は後述します。かぶっちゃった人はほんとにすみません。
まずは連作ごとの歌数を書き出してみましょう。『夜を着こなせたなら』は3章構成です。それぞれの章で、連作ごとの歌数は以下の通りでした。

ⅰ章:19首、20首、24首、29首
ⅱ章:14首、7首、7首、7首、10首、7首、13首、7首
ⅲ章:27首、27首、26首、29首、28首、26首、28首、30首

こうして眺めると、ⅲ章になにかありそうですね。実は山階さんは『短歌研究』で作品を連載していました。歌集ⅲ章にはその連作が収められています。熱心なファンや研究をしたいときは、初出と対照させて落とされた歌を探すこともできます。
では、ⅲ章の内容をごく簡単にメモしてみます。

ⅲ-1「逃げ水の涸れないうちに」:誰かと旅行している
ⅲ-2「夜を着こなせたなら」:ひとりでいる
ⅲ-3「迷うたびに秋は」:ふたり暮らしの終わりと引っ越し
ⅲ-4「ファンタスマゴリー」:友だちと会うよろこび
ⅲ-5「ペーパー・ムーン」:恋愛中の時期の回想
ⅲ-6「忘れながら数えながら」:引き続き失恋のあと
ⅲ-7「かすれた喉のために」:さびしそう
ⅲ-8「手拍子は揃わないから」:日常が終わらない

どうやらⅲ章は失恋とその後の日々を描くことがテーマになっているようです。ちなみにⅰ章でいちばん長い連作ⅰ-4「せーので」はマッチングアプリをやめる歌が収められており、恋愛の成就が読み取れます。ⅱ章は喧嘩したりしながら恋人とつきあっている日々が描かれます。こうして、歌集に収められている物語の輪郭が見えてきました。
このあたりで、歌集の物語上重要な歌や、気になる歌を書き出しておきます。物語のない歌集の場合は、歌集のとり組んでいる課題に沿った歌などを書き出しています。

マッチングアプリせーのでやめるときぼくの画面に降ってきた指 ⅰ-4, p.36
胸の釘ふたり暮らしの看板をはずしたあとに掛かるのはなに ⅲ-3, p.90
遠い日の首に捺された痣のことどんなしるしと思えばいいの ⅲ-5, p.109
呼べば来る人たちが好き大鍋をあふれる湯気は顔をぼやかす ⅲ-7, p.131
燃えたがる星よひとたび手にすればピアスは耳を奪いあうのに ⅲ-8, p.145
伸びきった昼の終わりは暮れていく中野と中野からの各駅 ⅲ-8, p.145

恋愛の成就の歌、失恋の歌など、物語に立脚して抄出したのですが、ⅲ章は読み進めていくうちに、どう失恋に落とし前をつけるのかが気になってきます。その観点から注目されるのは最後の引用歌です。恋愛という快速区間(中野までの各駅)と、失恋後の鈍行区間(中野からの各駅)が対比されているようにも読める。けれども、電車に乗るという日常は恋愛の如何に関わらず継続しています。また、形式面での気づきも2つありました。
まとめると、歌集から取り出せるテーマは4つあります。内容的なテーマが、①恋愛の成就と失恋、②日常生活は恋の如何に関わらず連続すること。形式的なテーマが、③語尾が豊か、④口語短歌の詠嘆です。
書評の材料が揃ってきましたね。このあとは歌集を再読して、引用したい歌を校正用に頁数付きでさらに書き出し(歌の表記が間違っているとBR賞では大減点です)、テーマごとに並べ替えます。なるべく引用したい歌の範囲を広めにとって打ち込んでおくとあとで便利です。また、テーマの組み合わせや歌の配分も目安を決めておきます。
私は今回、以下のような書評を書きました。構成のタネ明かしは書評のあとにします。

書評タイトル「恋に言葉を、内部に謎を」

恋愛の瞬間は、永遠を錯覚させるほどの祝祭性に満ちている。山階基の第二歌集『夜を着こなせたなら』ⅰ章で描かれるのはそうした祝祭性である。

チョロQはきつく助走をしたあとにブレーキがないことに気づいた p.16
焼きそばをごっそり持ち上げる箸よきみは食品サンプルになれ p.18
マッチングアプリせーのでやめるときぼくの画面に降ってきた指 p.36

感情が高まった挙げ句の告白を思わせる「チョロQ(おもちゃの車)」の猪突猛進や、「きみ」の食事の風景を「食品サンプル」として保存したい欲求。そしてマッチングアプリで出会った相手と恋人になり、二人してアプリを退会する瞬間のこと。たまらなくめでたく、根拠はわからない。正月がなぜめでたいのかわからないように。恋の成就はめでたいが、恋の細部には謎が満ちている。謎を解き尽くすのは野暮である。
こうした恋愛の日々は、時折のすれ違いや喧嘩を挟みながら、ⅲ章はじめまで続く。

いくつかはあなたに骨をうずめたいぶつからぬようへそのあたりに p.37
木の椅子を部屋にもほしくなるように好きになるなよ人間のこと p.46
助手らしいことは座席にねむるだけ目を覚ましたら唄いだすだけ p.71

ⅰ章、ⅱ章、ⅲ章からそれぞれ引いた。骨をうずめるのは死後のことで、生者にとって死後は永遠と区別できない。この欲望はやはり愛の永続を求めるものだ。とはいえ相手の「好き」と私の「好き」が同じ感情とは限らない。相手にとって私は木の椅子のような家具に過ぎないのか。そうした怒りをぶつける瞬間もあったようだ。衝突を経ても、ⅲ章収録の連作「逃げ水の涸れないうちに」では恋人との旅行が描かれている。この歌の書き方は、運転しているのは、寝ているのはそれぞれどちらなのかわからない。それはどうでもいいことなのだろう。恋人といて、唄の旋律がある。それだけで、二人は祝福されている。
そうした日々は、ⅲ章の連作「迷うたび秋は」で唐突に終わりを告げる。

胸の釘ふたり暮らしの看板をはずしたあとに掛かるのはなに p.90

同棲をやめる歌である。連作からは引っ越しをしたことも読み取れるが、失恋の理由は示されていない。もっとも、どうでもいいことだ。失恋は魔法が解けるように、当事者たちにも理由がわからないことはある。「看板をはずしたあとに」は釘が刺さっている。新しい看板を想像できなくて、主体は「なに」とつぶやいている。
ⅲ章は最も分量があって、歌集の半分程度を占めている。章の残りでは、失恋後の日々が鈍行列車のように続いていく。

伸びきった昼の終わりは暮れていく中野と中野からの各駅  p.145

歌集の終盤から引いた。残りの部分を読み続けているうちは、主体が失恋とどう決別するのか気になって仕方がなかった。結論を言うと、主体の結論は示されない。いやはや、結論はどうでもいいことだ。恋愛は終わったあとに永遠となる。胸に刺さった永遠の釘である。それでも時間が経てば、記憶を客体化し、恋愛の日々を、東京を貫くJR中央線の快速区間に喩えられるようになっている。中央線は中野から先の方が長い。中央線は今日も中野からの各駅を西に向かって走行している。日常は終わらない。

歌集の提示する物語の骨格は以上の通りだ。これだけでも甘美な青春の恋愛歌集として評価することはできるが、この歌集の真価は実のところ別にある。山階は本歌集で、口語短歌における詠嘆の導入を試みているのだ。
詠嘆は明治大正期に盛んに使われていた。昭和の短歌、それも戦後の短歌はそれを封じる方向に動いた。あの「濡れた湿っぽいでれでれとした“詠歎”調」である(強調は筆者)。小野十三郎が「奴隷の韻律」と名付けたものだ。歴史的経緯を考えれば、口語短歌が詠嘆の導入に奥手であったのも無理からぬ話である。
今となっては、散発的に作例を探すことはできるだろう。けれども、ここまでの密度で、歌集を貫く主題として口語短歌の詠嘆を扱ったのは山階が初の例ではないだろうか。『夜を着こなせたなら』は抒情の歌集である。短歌史は抒情と叙事と、二つの異なる力に引き裂かれながら蠕動してきた。山階は抒情の側に立ち、その方法論を進めようとしている。私は本歌集を、口語短歌に革新をもたらすものとして評価したい。
日常を祝祭にするときも、その連続性に耐えきれずうめき声をあげるときも、山階は詠嘆を導入することで、それらを詩の次元に引き上げている。いくつか例歌を引く。

満月よありがとうから消えていく言葉にしてもしなければなお p.9
さびしさはあればあるだけ紙吹雪みんなかわいい元恋人よ p.31
起きてくるあなたの肩に散りかけた地味な花火のような歯形よ p.41

「よ」を含む歌を三首引いた。一首目は省略を複数含む点でやや複雑な構造をしているが、典型的な例だ。満月は満ちたのちに欠けるしかない。言葉にしても、月日の流れは感謝の言葉を消していく。だからといって言葉にしなければ、感謝が伝わることはない。詠嘆のほか、この感情をどう語ろうか。
二首目はいわゆる女言葉とも、呼びかけとも、詠嘆とも読むことができる。歌の意味は明解だ。さびしさの一つ一つが元恋人で、一つ一つが紙吹雪の紙片である。「よ」の意味は揺らいだまま、語尾は歌に緊張をもたらしている。
三首目は句の切れ目と意味の切れ目にズレがある。「起きてくるあなたの肩に」「歯形」がある。それは「散りかけた地味な花火のような歯形」である。しかしこの語順では、肩に火の粉が散る読み筋を四句目まで排することができない。語順によって謎が示され、結句で謎解きがなされる。なぜ歯形がついているのかは謎のままであるが、それを問うのは野暮なことだ。謎は詠嘆の中に閉じ込めておくといい。
詠嘆の中心には謎がある。詠嘆を使えば、なぜそれに感動しているのか示さず、ただ感動していることだけを示すことができる。換言すれば詠嘆は“どうでもいいこと”と相性が良い。極めて私的で、名状しがたい空白をかかえるもの。読者にとってはどうでもいいが、主体にとってはかけがえのないもの。

遠い日の首に捺された痣のことどんなしるしと思えばいいの p.109
燃えたがる星よひとたび手にすればピアスは耳を奪いあうのに p.145

疑問形も詠嘆の一形式である。消えた痣などもはやどうでもいいはずだ。けれど同時に、主体にとっては嘆息をもたらすほどの傷跡である。
「燃えたがる星」もそうだ。星の意志など人間のあずかり知らぬところにある。それでも主体は星に呼びかける。またこの歌で、耳のピアスと星の燃焼の関係性は複雑だ。人を住まわせる星は自ら輝くことができない。星が光るか光らないかであるように、耳にあけられた一つの穴には一つのピアスしかつけることができない。

空になるまでをすっかり忘れても花さしとけば花瓶だからね p.35

この歌集の歌は、内部を意味で充足させないままで成立している。花瓶は花を愛でるための器で、その内部を気にするのは野暮である。
個別の恋は、恋と名付けることにより、それぞれの差異を塗りつぶされてしまう。だから短歌にするときは、内部に謎を抱える必要がある。詠嘆の導入は、個別の短歌が真実であるための手助けをしてくれるのだ。その方法が口語短歌でも開拓されたことを、私は切に言祝ぎたい。

それでは、構成のタネ明かしをします。小テーマ1は恋愛の成就と失恋とその後のこと。小テーマ2は歌集で試みられている詠嘆について。両者を架橋する大テーマは、詠嘆がなぜ口語短歌に必要なのか、でした。

書評内でも言及しましたが、『夜を着こなせたなら』を扱いたかったのは、この歌集が口語短歌の新たな局面を感じさせるものだからです。私が名状しがたい空白とか、どうでもいいこととか、謎とか呼んでいるものを(それに似たような概念を)、ロラン・バルトは『明るい部屋』で「プンクトゥム」と呼んでいます。ちょっと雑に使いすぎかもしれない。バルト自身は以下のように説明しています。

というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す、、、、、、(ばかりか、私の胸をしめつける)偶然なのである。
ロラン・バルト『明るい部屋:写真についての覚書』Ⅰ章10「「ストゥディウム」と「プンクトゥム」」(みすず書房, 1980=1985)

「プンクトゥム」の概念は、なぜある短歌に感銘を受けるのかについて、ひとつの示唆を与えてくれます。
近代以降、作歌することは未だ名付けられていない心を短歌定型によって捉える行為となりました。ある歌を読んで湧き起こる感情が既知の、常識的なものであるならば、その歌は表現が大味で、個別の感情を捉える精度が足りないことになるでしょう。
この考え方に立脚するとき、良い歌とは、その短歌以外でその感情を表現し得ない短歌のこととなります。共通の言葉なのに、知らない感情に到ることができるのは、短歌を読む際の大きな魅力ともなっています。その短歌によって、既存の言葉の体系には少し穴が開けられたり、壊されたりします。「プンクトゥム」とは既存の秩序をかき乱し、壊すものです。良い短歌を読むことには骨を鳴らすような快楽があります。そこに到る読解の道筋を整備できたなら、書評家冥利に尽きるというものです。

良い書評を考えることから、結局良い短歌を考えるところまで来てしまいました。
もし、今回コラム内に書いた書評で再度応募したとして、私はもう一度BR賞を受賞できる自信はありません。でも佳作は狙えるんじゃないだろうか。いやはや天狗になっているかもしれなくて怖いですね。私の主張や方法論の妥当性は読者の皆さんの判断に委ねられています。どうかうまくいっていますように。
それと、願わくは、『現代短歌』以外の雑誌でも、2400字(原稿用紙6枚)くらいの分量で1冊の歌集を扱うことができればと思っています。

※1 栗木京子「歌集の批評とは」『塔』2024年3月号

※2 菱川善夫『歌のありか』現代歌人文庫26(1980) NDLデジタルコレクション個人送信サービスにて閲覧可能。

※3 宮柊二『小紺珠』(1948) NDLデジタルコレクション個人送信サービスにて閲覧可能。