ゆっくりとエスカレーターが進んでいく時間のなかをあるいて動く

門坂崚「文学フリマ東京42 鯉派特典ペーパー」

先日の文学フリマ東京42「鯉派」のブースでいただいたフリーペーパーから、連作タイトルは「灯台」。2年前の第39回目から文フリ東京の会場がビッグサイトになって、今回行くのは3度目だったが、行くたびに(なんとまあこんなところで)と思う。何より最寄りの国際展示場駅から自分の小さなブースまでが遠すぎる。ビッグサイトのなかには動く歩道があり、そちらにはなぜかほとんど人がいない。みな横の通路を黙々歩いている。おや誰も乗らないのかと、飛び乗ってみれば足がつんのめる。稼動していないのだ。動いていない動く歩道はもちろんただの板であって、思い出すいまも酔うような感覚がある。間違えて乗ったまま早足で渡りきる。あとは横に逸れてブースまでの長い道を歩いた。

上りにしろ下りにしろ、エスカレーターは「ゆっくりと」「進んでいく」。稀に渋谷や新宿など乗る人をふるい落とすほど異常に速いものもあるが、たいていゆっくりと動く。最近は危険防止のために基本的にみな乗ればそこを歩かずにいることが多くなったと思うけれど、同乗者がほとんどいない場合であればずんずん歩いてしまう。エスカレーターも動く歩道も、上へ下へ、前へ、動くそれに乗ったまま歩けばぐん、と進む。あの速く進む感覚というのは、ふだんは意識しないにせよ、ほんとうには不思議で面白い。それこそ、時間を先に進めているような、というよりも時はそのままに、自分だけが速く動いていることにほんの些細な優越感、愉楽を覚える。

「時間のなかをあるいて動く」という下の句は少し不思議な感じがする。特に最後の「動く」の主語は何を指しているか。あるいて、動くのだから自分自身と取るのが自然かもしれない。あるいは、自分がエスカレーターをあるくことで、あるきながらゆっくりとエスカレーターが進んでいくことで、その自らの動きとエスカレーターとの動きが交わるような、同時の、相互的なはたらきがたしかにそこには生まれている。さらに言えば、そのとき同乗している人たちも乗せて、エスカレーターも私も動く。動いている。途中、少し右(あるいは左)にはみ出した人がいればぴたりと歩くのをやめて、待つ時間もある。待ったまま、次の階へ着く。一階分の長さを、エスカレーターに乗って歩いた時間があり、その動きのなかに自分がいた。「あるいて動く」にはそのような、たいていはひとりではない、一回きりかつその場限りの自分と他者の静と動が同時にあった、そういうことを思わせる何かがある。エスカレーターに乗る目的は楽に早く先へ、目的地たどり着くために過ぎないけれど、しかもそんなことすら普段は考えずあれば乗る、くらいの手段でしかないけれど、ゆっくり動き、回りつづけるそれに身を預ける、預けるというのは言葉に体重をかけ過ぎかもしれないが、そこに乗る、自分と自分以外を乗せてわずかの距離を進むいっとき、「あるいて動く」その時間というのがたしかにあるし、あった。

ほんとうの時間はひとつづきであることの、いつかあなたと行く朝の海