大きなるグレーのシャツが売られおり星見えそめて帰る路上に

安藤美保『水の粒子』
(ながらみ書房、1992)

今日の歌は、遺歌集の題のもとになった

君の眼に見られいるときわたくしはこまかき水の粒子に還る

を含む「粒子に還る」という一連からとった。路上に、というから道端に展げられた出店のようなところで売られていたシャツなのかもしれない。「大きなるグレーのシャツ」とは、要するに男もののシャツということだろう。この歌を読むと、ハンガーで吊るされた灰色のシャツが夜の風にゆれるさままでが見える気がする。夜の露店に吊るされたシャツにすぎないものが、「大きなる」というやや大げさな形容と、星空への言及から、夜空全体にまで広がってゆっくり揺れながら主人公を見下ろしているようなイメージも、ほんの少し噛み混ぜられているように思う。そうやって主人公を見下ろしているのは、実際のところは男もののシャツというよりも、男性性というべきかもしれない。

一連「粒子に還る」の中で、先に引いた「君の眼に…」の歌と、掲出歌は関連があるように思える。「君の眼に…」においても、「君」に見つめられたとき、主体の心の中で君の存在が拡大され、自身は〈水の粒子〉という微細で没個性的なものに還元されていく。互いに恋をすれば引き合うはずのふたりが、「大←→小」という数直線の上で、どんどん両側へ引き離されていくのだ。掲出歌においても、男性性は「大きなる」存在としてどんどん膨張し、「君」を見下ろしていた。「君」という具体的存在の現れる前の、いまだ未分化の予感に過ぎなかった段階で「〈君〉の膨張、〈私〉の縮小」をある種の運命として規定しているように思える。

この二首、特に「君の眼に…」のほうが手放しにロマンティックな歌として読まない方がいいかもしれないということには、似たシチュエーションをより具体的に詠んだと思われる、別の連の一首、

もぎ取られ投げられ吸われ私など水のようなりきみの理論に

を読んで気づく。この歌を発見したときはちょっとショックだった。「きみの理論に」などと言われてしまうと、主人公と「きみ」とのゆきさきがなんだか悲観的にしか考えられなくなる。男とともに生きるのはかくも難しい。

ところで、自分自身や〈男性性〉を「水の粒子」や「大きなるグレーのシャツ」に化身させる方法は、この歌集のもっとも有名な、

ふいに来た彫像のように妹のからだの線は強くととのう

の、妹を突如「彫像」という突拍子のないものにしてしまった方法に似ている。オペラの「ドン・ジョヴァンニ」に、騎士長の石像がジョヴァンニの屋敷へやってくるという重要な場面があって、これも勝手な解釈ではあるのだが、世の中、彫像がふいに来ることなんてあれくらいしかないと思う。好色者のジョヴァンニは改心しないまま石像によって地獄へ引きずりおろされる。この歌は風呂場での一場面と解釈されることがあるようだが、ギクリと石像を見たであろうジョヴァンニのまなざしが、妹を見る主人公にいっしゅん宿ったように思えておもしろい。

*引用は文庫版(ながらみ書房、2018)によった。