人生という長き悪夢の覚める朝ああよく寝たと欠伸などして

谷岡亜紀『臨界』(雁書館、1993)

死は、「永遠の眠り」などといって眠ることに喩えられるが、たしかに今が「悪夢のようだ」と感じている人にとっては、死ぬということが目覚めになってしまう。

逃走は今日もなされずターミナル駅に日暮れの電車を待てり

という一首が『臨界』の冒頭近くにある。旅の歌人といわれ、近年の歌集でもアジアへの旅を描き続ける谷岡の、タイやインドへの「逃走」までが丁寧に詠まれているが、歌集の後半からは舞台が日本に戻って、鬱屈する自己の心中がテーマになるようだ。

歌集『臨界』は、前回とりあげた早坂類『風の吹く日にベランダにいる』と同じ1993年に刊行された。前回とりあげた「生きたがるいのちがあるので生きているただそれだけのおあいそ笑い」という早坂類のあの歌の主体がもらしていたのは「おあいそ笑い」。かたや今日の掲出の一首で主体がするのは「欠伸」。どちらも生きるということへの執着を隠そうとするしぐさにも見える。それでも早坂の主体の方は、生という熱っぽいうねりの中に身を投じていて、「おあいそ笑い」をむける相手のことも(それが特定の誰かなのか、社会そのものなのか、わからないにせよ)意識しているようだった。しかし喧騒にみちたアジアへの「逃走」を経た主体がする「欠伸」は、誰に向けるというのでもなく部屋の中を漂い消えていく。いつのまにかに朝のひかりが部屋を満たした、アパートの一室を想像する。

陽を受けて陽の暖色に染まりおる窓この朝をわれと隔たる
殺人者たりし悪夢の醒め際をたわわなるかな朝の乳房は

歌集題にもなった掲出歌と同じ連作「臨界」から。同じ朝であっても外の世界と主体のいる部屋のなかの世界は明確に分離されているというのが一首目。二首目では「朝の乳房は」というから、そこには恋人がいるのかもしれないが、この瞬間のふたりのあいだに「おあいそ笑い」のような社会性は感じられない。満ち足りていく世界をよそ目に主体はただ一人、悪夢と朝の世界の、微妙な「醒め際」にいる。

満ち足りてなにごともなき人生の喩として夜のメリーゴーランド

これは別の一連「夢の遠近法」の歌。この歌集で、満ち足りる、はほとんど悪口である。悪夢ではない人生は、軽やかな光と音楽でえんえんと回転しながら、人々を引き付ける。そんなメリーゴーランドを、主体は他人事のように傍観している。