大滝和子『竹とヴィーナス』(砂子屋書房)
母からオリーブオイルの瓶を手渡された、という場面が詠まれている。つねづね、あのオリーブオイルというのは高価なものであればエキストラヴァージンオリーブオイルなどと呼ばれて、そういうものは実際手に取ることはないが(へー)と他人ごとのように店の棚に並んでいるのを見かけはする。買うときは下の方にある安いものを選ぶ。
垂らせばフライパンにゆるゆると円は広がって、オリーブオイルの色味は無二である。うす黄緑というのか、黄金のようでもあり、緑がかった油はたんにそれだけで美しい。といって、調理中にうっとりするような余裕はなく、刻んだにんにくを入れ、入れれば香りは立ち上る。ごま油だってなんだっていい油はたくさんあるのだろうが、オリーブオイルはただ瓶として置かれるだけで、また格段と、傾けてこそ美しい。
「母生きて」という初句について、生きているから手渡すことができるのは当然と言えば当然のこと、何かの動作のうちに、本来「生きて」は言うまでもなく、だからそれはつねに省略されている。けれども「ヴァージンオリーブオイル」である。「ヴァージンオリーブオイル」を我に手渡すそのいっときの行為と「母生きて」はむしろ釣り合っている。現実にはきっと、なにもうやうやしく渡されたのではなく、「これ、前言ってた美味しいやつだから」などと言いつつ袋から出してきたものを手渡されたのだと思う。それでも、それは「生きて」いるから我に渡された。大仰でなく、「母生きて」と「ヴァージンオリーブオイル」、ふたつはありえないようなバランスで均衡を保っている。
「生きて」「持ち」「手渡す」という動作がすべて描かれたのち、「そのたまゆら」へとたどりつく。主体の目には一連の動きがスローモーションのように写り、美しい緑の油は自分のもとへ渡される。それが手渡されるまでの「たまゆら」、そのほんのいっときが、実は生きている時間そのものを指しているように思われる。オリーブオイルが傾くさまは、砂時計が時を遡るかのように象徴的だ。我にオリーブオイルを手渡せるのは母がそれを持っているから、そしてそれは何より母が生きているから。逆再生の時間を透かしみるように、オリーブオイルのうす黄緑のいのちの液体はたっぷりと、ボトルのなかで傾いている。
母の襟にちさき蜘蛛いて食卓やきょういちにちの始まらんとす
