炭竈をのぞきて我はあかあかと照り通りたる炭木を見たり

斎藤茂吉『あらたま』

一読して内容のわかる歌だと思う。それでいて主体の異様なテンションが感じ取れる。炭窯の中で真っ赤に光っている木の、生命を燃やし尽くす直前の炎の色が詠われている。あかくかがやいているのは炭だけではない。この歌は茂吉が火の色に照らされている歌だと思う。「我は」は省略しても意味が通るのだけど、あえて「我は」「見たり」と過剰に説明をして、炎と対抗するように自分の存在を炭窯の中に置いている。

読者は真っ赤な炭をイメージしながら、同時に炭を見る主体をイメージする。もし見ている風景をそのままいうなら、「炭𥧄をのぞけば◯◯あかあかと◯◯炭木は照り通りたり」のような語り口で十分だ。しかし茂吉はそうはしなかった。

この歌は、炭になりゆく木のすぐ近くにいるような気がする。それがこの歌に異様な迫力をもたらしている。実際は炭窯の入り口や小窓から中を除いているのかもしれない、あるいは本来は炭化が終わった後にしかあかないはずの扉が、何らかの理由でたまたま空いていて、それを見たのかもしれない。何か、本当は見てはいけないものを見てしまっているような、危険な香りがする。子供が遊びの中でわずかに危険に触れるような、例えば噴水の周りを囲む壁の上を歩いたり、花火をぐるぐる回して遊んだり、そういったスリルのなかで得られる非日常感や、思いがけない楽しさやその場の没入感が「見たり」から感じ取れた。

「照り通り」この把握がすごい。炭木はそのものが発する光は、ゆらゆらと木の周りを赤くする程度で、炎がごうごうと立っているわけではないだろう。木の形そのままを保ちながら、木の芯の部分まで真っ赤になっていると察する感覚が「通り」にあらわれている。鉄を鍛える時のようにそのもの形を保ちながら熱を発する様子を端的に「照り通り」とするところが、この歌の恐ろしさだ。内部まで火が通っているから「通りたる」としている。

「あかあか」とゆったりとした調べから、転調(短歌においては歌の調べを変えるという意味で転調という)する音の流れは感動を覚える。「照り通りたる」を分解すると「て」「と」「た」の語の頭の音にタ行の音があり、語の後ろが「り」「り」「る」とラ行の音がついている。細かな音の繰り返しが歌に複雑なリズムを作る。

「炭𥧄をのぞきて」この「て」には単に順序を示す以上の働きが読み取れる。炭𥧄の近くをたまたま通り過ぎるだけでは覗きこむところまではいかない。覗けばなにか想像を超えるものがあるかもしれない、その予感があらわれている。もっと確信的に炭𥧄の中の様子をしっているなら、「炭𥧄をのぞけば」とした方が自然だろう。

「て」の方が思いがけなく「見た」というニュアンスが出る。炭𥧄の中の様子をはじめて知る、一回限りの感動が「て」にあるのではないか。

知識として知ってしまえば2回目以降に同じ景色をみても感動は薄れていく。「て」は前後の文章を繋ぐという、そのあまりに素朴な機能により、知識化した経験をもういちど知識以前の状態に時間を巻き戻すような効果がある。だからなんどでも、その当時の感覚を追体験できるのだ。