なまぬるき夜風/生きたし/怒る姉/生きたし/怒りながら/生きたし/

石川美南『砂の降る教室』
(風媒社、2003)

生きたし、という本来ならあたりまえの欲求を取り戻した瞬間の、疾走するような感覚の動きがとらえられている。スラッシュ(/)が差し込まれることで、文章のようにまとめるほどの心の余裕がないまま、ぶつ切りに感情が展開していることがわかるが、最後にも「/」がつくことで、この連鎖はこの歌の先にも続いていくということが暗示される。また「生きたし」という文語調が使われていることも効果的で、たとえば「生きたい/怒りながら/生きたい/」などというよりも、自らの心の中に爪を立てて、その思いを刻みつけていくようなニュアンスが出ていると思う。肌で感じる風や、視界に入ってくるもの、そして自分自身の感情を、うまく統御できないままぶつ切りに連鎖させつつ、しかし、そのエッセンスである「生きたし」という感情だけは、自分の人生にとって、決して忘れてはならないことなのだと直観的に理解し、心に刻みつけようとしている。

百文字の回文を考へてゐるやうな葬儀の列に加はる
前日も蕎麦をもりもり食つとつた 路面に水を撒いている祖父
「死びと住む夏」

この歌は、歌集中の「死びと住む夏」という全八首の一連の末尾におかれている。この連には主体の祖父の囲碁仲間であったらしい「熊次さん」の死をめぐる顚末が描かれている。つまりここには家族があって、さらには、友人を亡くした祖父を作品の中心に据えながら、後景からそっと見守るような主体のまなざしがあった。家族を見守る主体といえば、私は掲出歌から、あるいはこの一連から、以前歳時記で読んだことのある鷹羽狩行の「叱られて姉は二階へ柚子の花」を連想するのだが、同じように怒る・叱る、姉、という語彙を使いながらも、掲出歌と根本的に相違しているのは、この俳句では主体が家族を見守るという立場に徹していることである。「死びと住む夏」のほうでは、その一連の最後に至って、主体は「生きたし」という強烈でシンプルな願望をくりかえしとなえ、後景からぬっと顔を出すように自我を打ち立てることになる。

この歌のひとつ前に、

お祖父ちゃんの白い碁石を口中に含んでふいに恐ろしくなる

という口の中の感覚にうったえてくるような一首がある。祖父や熊次さんの指紋がついているかもしれない碁石(白の碁石だとすれば、碁笥に収められたそれは熊次さんの遺骨を連想させたかもしれない)の冷たさやすべらかさを口中に感じ取って、ふいにスイッチが入るように「死ぬ」ということを理解したのだろうか。一方で、掲出歌では初めの「なまぬるい夜風」を肌にあびることがスイッチを押す役割を果たしている。夏のエネルギーがたゆたいつづけるような空気のぬるさに、生きたし、という想念が発生する。こちらには主体自身に加え、姉がいる。生きたいという感情の発生したときに、たまたま姉が視界に入ってきた、というふうなのだが、この姉はなにかに怒っているらしい。疾走する「生きたし」のエネルギーはそんな本来は関係ない出会い頭の他者の感情をも吸収して、「怒りながら/生きたし」というあらたな想念を生成した。死に近い、あるいは死んだ、祖父や熊次さんを中心とする碁石の世界と、エネルギーを持て余して生きなければならない、まだ若い主体と姉。この対比は明瞭で、そう考えると、唐突に思えた最後の一首の展開にも合理性があることがわかる。

*引用は現代短歌クラシックス版(書肆侃侃房、2020)によった。