トリニダード・トバコって国にはたぶん行かない 裏窓に咲く花を見ている

岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』
(青磁社、2017)

上の句は六・九・七である。この定型からの逸脱それ自体が、トリニダード・トバコへ行くというおもいつきの荒唐無稽を体現している。おもいつき、といってもそんなところへ行こうなんて最初からいっぺんも思っていないにちがいない。それに対して、下の句の「裏窓に咲く花を見ている」は定型にぴったりとおさまる。

これは第二歌集の序盤にある歌。歌集でこれを読んだ人の多くは、岡崎の第一歌集『発芽』(ながらみ書房、2005)にあった有名な

年下も外国人も知らないでこのまま朽ちてゆくのか、からだ

を思い出しあのではないかと思う。こちらの歌は「ゆくのか、からだ」と、大切なもの(からだ)をいっとき奥へひっこめるような読点の使い方が印象に残るけれど、音数としては歌全体が定型にぴったりおさまっている。だから、というわけでもないが、この歌の主体は、年下や外国人を「知る」ということを現実的な可能性としてまだ捨てていたわけではないように思う。

一方、掲出歌の方では、年齢を重ねるにしたがって「裏窓に咲く花を見ている」という、もう動かしがたくなった確固たる現実ができあがりつつある。定型をひとりの人間の、それこそ「からだ」に見たててみてもいい。三十一音のからだのうち、今や十四までが〈現実〉に占められてしまって、実現不能なひらめきは、自分という〈からだ〉のサイズから大きくはみ出さなければ語ることもできない。

「とりあえず抱いて見せてる夕茜男の皮膚は扱いやすくて」「永遠に再生される君の声留守電にあたらしい番号がある」と、ひたすら奔放に描かれる第一歌集の主人公に対し、第二歌集に描かれる恋愛はやはり滋味を帯び始めていて、それがいい。以下は第二歌集終盤の「頭塔の道」という吉野への旅をうたう一連から。

暗がりに十二神将並びいてあなたの酉を静かに探す
君の背で風をよければくらむほど春日はるひのような君の匂いす
吉野山もっと先まで行きたいとあなたにねだる「殺して」みたいに

二冊の歌集を読み通して、こんな満たされ方にははじめていきついた。なんだ、ここまで来ていたのか、と思う。現世の自分を「殺して」とねだるかのように誘う「その先」に、主人公にとってのトリニダード・トバコがきっとあるのだ。

*引用は文庫版『発芽/わたくしが樹木であれば』(青磁社、2022)によった。