紀貫之『古今和歌集』(巻一・二)
この歌の韻律が好きだ。前半の「ひぢて」「むすびし」「水」にあるイ母音の音がゆっくりとしたリズムを作り、後半はイ母音をまったく入れずにかろやかな音が連なりながら結句まで進む。とりわけ「こほれる」「とくらむ」のラ行の音の響きが好きだ。歌の心の動きを想像してみる。
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そういえば、暑い夏の日に湧水を飲もうと思って袖を濡らしながら手のひらで水をすくって飲んだのだった。秋を過ぎて冷たい冬が来てからは、夏に遊んだ記憶は遠い昔のできごとのようで思い返すことができなかった。それが今、春の風が吹く季節となった。氷は少しずつ溶けはじめる。またあの楽しい時間を過ごせる季節がそのうちやってくると思うと心がうれしくなってくる。
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「袖ひぢてむすびし水」を袖を浸しながら手のひらですくった水と読むと「こほれる」の意味が取りにくくなる。「袖ひぢてむすびし水」と「水のこほれる」の「水」はそれぞれ別の時間系にある「水」を指すように思う。後半の「水」は手のひらから離れていて、水も凍ってしまうほど寒い冬のことを詠んでいると捉えた方が無理なく読める。
参考に窪田章一郎の鑑賞を読むと、下の句の「春立つ今日の風やとくらむ」は『礼記』の月令をもとにしているらしい。これくらいのことは「当時の貴族社会では詩的常識となっており、だれでもが理解している共通性、一般性ともいうことのできるもの」であり、「この歌の特殊性は上の句にある」という(鑑賞日本古典文学第七巻, 角川書店)。
「風やとくらむ」を貫之の発想だと思って歌を読むと、上の句の特殊さがぼやけるように思う。風が氷を溶かすのは、当時の常識なのだ。春が来た、程度の意味しかないと考える方が上の句をおもしろく読める。
『礼記』を見ておくと、「孟春之月」の初めに「東風凍を解く」が出てくる(wikisource)。東から吹いてくる春の風が氷を解く。なんと素敵なフレーズだろうか。現代の私の感覚からすると氷が溶けるというなら、それは日差しの熱によるもので、風が氷を溶かすというのは新鮮な感じがする。実際に目の前の氷が溶ける様子を思い浮かべるというよりも、もっと大きなもの、新しい季節の訪れをはっきりと言祝ぐために、冬の氷と春の風が選ばれているのだろう。
「孟春之月」の続きを読むとまた雰囲気が変わる。「蟄蟲始めて振 き、魚は冰に上り、獺、魚を祭り、鴻鴈來る」冬眠していた虫が動き出して、魚が氷の上に現れて、カワウソが魚を供える。もうお祭り騒ぎである。『礼記』の大きなスケール感と比べると、上の句の袖に水が濡れる描写はかなり細かい。「東風解凍」だけ切り出した方が、のんびりと落ち着いた感じがして歌の内容に合っているだろう。短歌には音数の制約があるので、詩のフレーズを長く引用することはできないとはいえ、貫之の言葉を活かすセンスはさすがである。
貫之は、歌の中に、所属する社会の「詩的常識」をわかりやすく入れて、「袖ひぢてむすびし水のこほれるを」の特殊さを際立たせた。「春立つ今日」の「今日」の限定は、「詩的常識」に小さな楔を打って新たな一つの作品の一部として言葉を切り出す効果があると思う。そして、「結ぶ」「解く」の縁語によって「詩的常識」を他の言葉と紐づけてゆく、こういった言葉との関わり方に惹かれるものがある。現代短歌でも、作者自身のオリジナルではない他者の言葉をコラージュ的に取り入れたりすることはあるけれど、そこには言葉の選択の強い意志を感じ取ってしまう。技法を再現するにはまず読まれる場を再現しなくてはならない。その意味で、こういった技法はロストテクノロジーなんだと思う。
