近代短歌と現代短歌

 前回取り上げた『短歌往来』2025年10月号「特集 近藤芳美」の中で、永田和宏さんの文章「近藤芳美にとっての朝日歌壇―岡井隆の〈常民の思想〉に触れて」のある部分が記憶に残っています。
 永田さんはその文章で、近藤芳美が「短歌という民族詩は、一面では民衆詩です。」と言い、歌人が「この民衆詩と切れた時に、詩歌は退廃する」と言っていることを紹介し、そこから、岡井隆が一時期熱く語った「常民の思想」を思い出しています。
 そして、岡井隆の問題提起として次の発言が抽かれています。

 地方へ行くと、中央では知らないような新聞があり、聞いたことのない選者が選をし、そしてその中だけで近代短歌の類型をなぞったような作品を作って死んでいく人たちがいる。
 そういう人たちの存在というのは、全く無意味かどうかということなんですね。

 角川『短歌』1977年12月号の座談会での発言とのことです。
 岡井隆の問題提起は確かに今あらためて考える必要があると思います。ただ、私がここを読んで立ち止まったのは、何か、自分のことを言われたような気がしたからです。
 地方、無名、はその通りですが、それはともかく、「近代短歌の類型をなぞったような作品を作って死んでいく」というのは私のことか…と、我が身を振り返った次第です。

 最近、ある若い歌人の方が、私が住んでいる県の歌人の団体をさして、あそこの人たちは近代短歌までしかわからないと言ったという話を聞きました。近代短歌と現代短歌はどこで切り分けるのか。現代短歌は近代短歌を上回る存在なのか。いろいろ考えさせられる発言でした。

 こういう経験があります。北陸の短歌団体の催しに参加させて頂いた時のことです。投稿された歌に短評を加える場面で、選者である地元の指導者の方のお話が、素晴らしかったのです。初対面でしたが、和服をきちっと着こなした小柄な女性の先生でした。主として欠点とその対策、つまり、添削的な短評でしたが、それで歌がよくなってゆきます。
 同席していた人にその感想を訊かれたので、思わず、この先生が手を入れると歌の格が上がる感じです、と答えました。ちょっと古臭い言い方で、その人は一瞬首を傾げられました。
 彼は私が敬愛する先輩です。社会や時代に短歌はどう向き合うかを常に考えて発言し、刺激を与えてくれます。ただ、その瞬間私は、短評をしている和服の選者の先生と短歌観、あるいは強いて言えば短歌感を共有しているなあ、と思いました。
 格が上がる、は直感ですが、丁寧に言えば、景色、光景がよりシャープになり、奥行きのある空間が現れて、ものの存在感が確かに感じられるようになるということです。そしてもう一つは、言葉のしらべがたってくることがあります。それらの結果、作者の抱いている思いや感覚がよく伝わるようになるのだと思います。
 その会場は、いかにも近代短歌の修練の場のようでした。正確に言えば、アララギ系の近代短歌というべきかもしれませんが、私にとっては心地よい時間でした。

 私は、いわゆる近代短歌が好きで、21世紀の1/4を過ぎた現在の、これこそ現代の「現代短歌」といわれる作品があまり響いてこないというのが正直なところです。

 しかし、最近、はっとすることがありました。冒頭に申し上げた特集に「近藤短歌の二つの流れ」を書かれた今井正和さんの著書『彼方に向かいて―近藤芳美の青春』を手にしました。
 著者には申し訳ありませんが、本書をひろげて、まず自然に、最後の「第Ⅳ章 曠野」に目が行きました。近藤芳美が、敗戦、原爆、社会変動、そして第二芸術論、それらを受け止めつつ、「新歌人集団」を立ち上げ、「現代」の短歌を求めていった姿が見えてきます。
 1945年までの戦争をどう受け止めてゆくか、第二芸術論にどう応えるか、それを背負ってこその現代短歌なのかと思い至りました。

 中学生の時、母上が近くの旧家の出という友人の家に遊びに行って驚いたことがありました。広い玄関を入り、正面の壁の裏にある広間に入ると薄暗い広間に7つか8つ額がかかっています。男性の写真ばかりです。多くが、友人から見ると伯父や叔父にあたる人で、みな戦死者の遺影でした。私は母から3月大空襲と疎開の話は聞いていましたが、近い係累には戦死者はなく、このときほど、戦争を身近に感じたことはなかったです。
 今、その半世紀前の経験を思い出しました。3周遅れぐらいの学びと納得かもしれませんが、現代短歌とは戦後短歌であるということに気づきました。「未来」所属の古い友人に、「そんなことはもう結論が出ている。」と笑われるのは仕方ありません。私にとっては今なのですから。

 「人」誌上で佐藤佐太郎、宮柊二、近藤芳美を研究していた先輩たちを思い出しました。空襲で燃える豊橋の火の赤さを覚えているという成瀬有、記憶にないが銀座通りを行進する出征兵士の父を見送ったのが最後だったという人など、それぞれに背負ったものがあったわけです。
 人を殺してでも欲しいものを手に入れようとする大国の権力者が、国や世界を牛耳っている現代、われわれはどうしたらよいのでしょうか。また、国内に目を向ければ、昨日投じた一票を悔いる日が来ないことを願いたいと思います。

 ……と言いつつ、小さな短歌の世界に帰ってゆくしかありません。前回、中川佐和子さんが紹介して下さった近藤芳美の「短歌を唯一の文芸とし、自己表現のことばとして選んできた。」に始まる一文をあらためて、再読しようと思います。

以上