奈良線で昼前に奈良に着き、荷物を宿に預け、昼食をとってバスに乗り込んだ。行き先を確認しつつ路線図をながめる。
疎開で戦中から戦後の東京が落ち着くまで奈良の母親の実家にいた師の藤井常世は奈良を詠んだ歌が少なからずあり、そこで街の風情とか地名を教えられた。
汚れざる白鷺をこそかなしめと水音高き今朝の佐保川
『繭の歳月』夕闇はたちまち迫る帯解より京終過ぎて入らむふるさと
同
帯解は、帯解寺があったりして何となく知っていたが、京終は藤井の歌で知った地名である。桜井線で奈良から一駅で、文字通り平城京の南の端であったのだろう。はじめて読んだ時、そこに藤井が立つと絵になると思った。なお、この二首目で奈良のことを「ふるさと」と呼んでいることからも、単なる疎開先、親類宅ではない、思い入れのある土地であることがわかる。
そんなことを考えていたら、「一条高校前」のアナウンスが流れ、あわててボタンを押した。バスを降りると、広い交差点だった。南北に通っていて北へやや登っているのが国道である。国道よりも東に傾斜のゆるやかな住宅地を北へ登る道があった。これしかないと思い、晴れた晩冬の小道を歩きはじめた。さきほど、私を奈良へ運んでくれた奈良線と、二駅先の木津から伊賀上野、亀山へ繋がる関西本線を踏切で越える。
突き当たりの冬の木群の中に山門が見えてきた。不退寺である。在原業平ゆかりの寺はそこにあった。
多少、短歌を作ったり読んだりしはじめて、斎藤茂吉『万葉秀歌』(上・下)から万葉集の歌にも親しんできたが、奈良の地を歩いた経験はそう多くなかった。
大学に一般教養のゼミがあり、ゼミ旅行で林勉先生に連れられて日吉館に泊まったことがあった。記憶は朧だが、小柄な林先生が、通る声で楽しげに語っている姿は憶えている。和辻哲郎『古寺巡礼』を持って奈良を歩いていた学生時代を想像させる雰囲気があった。
その後、短歌をはじめて、所属してきた「人」短歌会、「笛」の会で、大会が奈良や吉野で行われれば出かけた。ただ、夜に宿を抜け出して奈良ホテルでコーヒーを飲んだとか、帰路ひとりで関西線で名古屋に向かったということが思い出になっている。奈良の地にはさほど熱心ではなかった。また、仕事があって日帰り出張の折に、阿修羅像だけに会いに立ち寄ったことはあった。
昨年、京都に数日滞在し、一日の午前から夕方まで奈良で過ごした。春日大社と東大寺を巡り、町を歩いただけだったが、奈良の寺社も町も、もっとじっくり見て歩きたいと思った。そして今回の数日間の奈良行となった。
まず、「佐保路」と呼ばれているところを目指したのは、不退寺に行きたかったからだ。在原業平についても伊勢物語についも、きちんと学んでいるわけではない。いわゆる、聞きかじり程度である。ただ、有名な次の一首をはじめ業平の歌は「うまい」と思っている。勝手な思い入れだが、私の和歌史・短歌史の中でうまいと言えば業平と石川啄木である。
月やあらぬ春は昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
在原業平
かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸に残れど
石川啄木
これに加えるとしたら、黒人の「棚無し小舟」、千樫の「峰岡山」であろうか。
とにかく、不退寺の山門をくぐった。チャイムが鳴り、奥から女性の方が現れたので、拝観の手続きをお願いした。この方が執事長である。やりとりしている間に、青年が出て来て、本堂をあけてくださった。次期住職の方だと思う。この親子がこの寺の歴史をつないでゆこうとしてると聞いている。
業平作と伝わる聖観音像を仰ぎ、業平の絵姿に手を合わせそのほかの寺宝を拝したのち、執事長さんと少しお話をした。聖観音と国立博物館所蔵の聖観音の縁について話された。私は埼玉県新座市の平林寺にある業平塚のことを紹介した。
そのあと、一層のみとなってしまった、それでも重要文化財の多宝塔に参り、池を覗いたりして門を出た。案内書きで、門は「南大門」と呼ぶことを知り、こじんまりした寺にしては立派な門であることに納得した。この門の名前と威風からかつての伽藍を思ってみた。なお、門の脇の石柱には、寺の本来の名前「金龍山 不退轉法輪寺」が掘られていた。
門前からは西へ細い道がある。ちょっと悲しかったのは、そこの木に下がっていた札の注意書きである。ここに咲いた椿の花を切って持ち去ることのないように、と書いてあった。
木の間を抜けると右手にはちいさな池がある。不退寺の庫裡のすぐ裏である。大雨が降ったら不退寺の方へ水がいかないか心配である。池の西の辺にはふつうの家が1軒あり、そこから北へ家が並んでいる。その間を歩いて行くと左へ行く道がある。小さな鉄橋が鉄道の線路にかかっている。さきほど踏切で渡った奈良線と関西線の線路であった。道は国道に立つボタン式信号機へ導いてくれる。国道24号線だが、山越えのバイパスで、歩道らしい歩道はない。ボタンを押し、車が止まるのを待っていて、ここが平城山かと思い、「ひとこふは~」などと呟いていた。
「平城山」と「白鳥の歌」は唱歌としてなじんだ「うた」だと、思い出して歩いていて、もう一つを忘れていたことに気づいた。「君が代」があった。…と思ったところで、眼前に広がる壕に囲まれたウワナベ古墳をあらためて眺めた。応神天皇の娘、仁徳天皇の后、八田皇女の墓と言われている。宮内庁では「宇和奈辺陵墓参考地」と名付けて、管理しているとの由。
思いのほか広い壕をわたる風に吹かれ、さざ波のたつ水面の向こうに鎮まる古墳を眺めているのは気持ち良かった。
しかし、古代の強大な天皇の権力によって駆り出され土木工事に携わった人たちを思った。その中には、竪穴式住居で丸くなって寝ていたわが先祖もいたかもしれない。
ウワナベ古墳を過ぎると思わぬ所に出た。航空自衛隊幹部候補生学校がある奈良基地の門の前である。姿勢を正して建物のある方向を見遣った。
まひるまの広き水面にひとつ浮く鵜に目を戻せばすでに影なし
拙作
空自幹部候補生学校の門前を慎しみ過ぎぬ 世界騒がし
同
南からこの基地に届いている道を南下して、海龍王寺に向かう。こちらは光明皇后創建と言われている。建物が本堂と国宝の五重小塔を収めた西金堂など多くなく、境内は広い感じであった。帰国した第九次遣唐使の僧玄昉が初代住持となるなど、往時は皇室と結びついた寺として栄えたという。今は、奈良市郊外の静かな寺だが、平安遷都後、再興されたり、衰退したりを繰りかえしたようだ。
なお、不退寺も、一時は廃寺同様だったいう。現在、この海龍王寺の住持が、不退寺の住持も兼ねていると聞く。長い長い歴史を背負っている両寺が助けあっているということのようである。
海龍王寺を辞したあと、法華寺を覗き、平城宮址を歩き、朱雀門の先でバスに乗り宿に戻った。半日ばかり歩いただけであるが、自分が何にも知らないことをあらためて反省した。いや、知らないことではなく、知る機会があったのにそれを生かしてこなかったことを反省した。すなわち本を読んだり、出かけて歩き回ったりすることができたのにそれをしてこなかった。怠惰の果てに今がある。
短歌について、現代のものも、また、古典和歌も、読んでいない。残っている時間がどれほどあるかはわからないが、読んでゆきたいと思う。
追伸 今回の奈良行での発見。長谷寺門前の酢屋長で買った柿の奈良漬はとてもおいしかったです。
