内山晶太


執着と怒りと足場  —染野太朗歌集『人魚』について—

染野太朗の第二歌集『人魚』が出た。

トピックとなるポイントがいくつも潜んでいる歌集で、さまざまな視点から語られるべき歌集である。私自身が思うトピックをすべて網羅することも考えたが、ここはいくつかに絞りながらこの一冊に寄り添ってみたい。

はじめにミクロ的に一首単位で気になった歌について見ていく。

 

 

大宮南銀座通りのああなんだか芳香剤くさいこの居酒屋は

 

大宮南銀座通りに行ったことはなくても、「芳香剤くさい居酒屋」がその通りの詳細を照らしている。大宮ではないけれども、たしかにそういう居酒屋には私も入ったことがあるような気がするし、「ああなんだか芳香剤くさいこの居酒屋は」の崩れ方が、ものすごく生きている。この部分の緩さが「芳香剤くさい居酒屋」の生理的不快感を醸し出していて、それを何度も確かめたくなる。この歌だけでなく、『人魚』におさめられた作品には不快感やいらいらが一首の要になっている歌が存外に多い。そしてそういう作品にはついつい足が向かってしまう。

 

わが前の座席は()かずその脇の座席が空いてわれは座れず

座るなら網棚に載せるな 朝陽のなかで人を見下ろす

 

いらいらが充溢している。こういう状況に遭遇したことのある人はたくさんいるだろう。しかしこれらの歌ではそうした読者の共感をいらいらのパワーが超えていく。二首目などは、怒りに後光がさしてしまっている。卑近な出来事でも人は、状況がそろえば完全に怒ることができるということを見せつけてくれる歌。そして、そういう歌には完全にユーモアが含まれる。共感は持ちつつ腹の底から痙攣するような笑いが湧いてくるのは、いらいらのパワーの強力さゆえである。

 

まずすべてほじくってから食べたきを西瓜の種は奥にまだある

 

面白い。この歌が面白いのも、やはり一首のなかにいらいらがあるからだろう。今まで意識したことはなかったが、西瓜に限らずほどよく小さな種が点在している果物というのは、いらいらしながら食べているもので、私もそうなのだ。「いらいらしながら果物を食うんじゃないよ」というツッコミをこの一首に添えたい。西瓜といらいらのコンビネーションが絶妙な一首である。

 

冬の花舗に店員らみな着膨れてばちんばちんと切りつづけている

青天の広さ深さを測るように少年野球に歓声上がる

 

一首目は切り花の茎や枝を切りそろえている場面。着膨れた店員さんたちは、まるで筋骨隆々の人びとが服を着ているようで、なんとなく強そうに見えたかもしれない。その店員さんがハサミを鳴らして切っていくのだが、この一首では視覚から聴覚への切り返しが豪快だ。「ばちんばちん」だけで突き放す描写の腕力に驚嘆した。染野作品は太いマジックで書かれているようなイメージがある。この一首などはそうしたイメージを代表する歌として印象的なものである。二首目。余計なものは差し挟まない。描写の網目は決して細かくなく、どちらかというと大きいほうだが、そこに余地が残る。少年野球の、たぶんやや甲高い歓声が何もない青空に勢いよく上っていき、その余韻がゆっくりと空の輪郭をなぞっていく。長くはない青天のそのひとときがたっぷりとして過ぎてゆく。現代の短歌は鋭利さや瞬発力や洗練の方向に動いてきた節があるように思われるけれども、染野はそちらへ舵をきっていかない。

 

一首単位で気になる歌をあげていくと、上記のような感じである。だいたいの歌集であれば一首単位でのいくつかの鑑賞のなかに歌集一冊が透けて見えたりする。しかし、『人魚』の場合には若干事情が異なってくるようだ。上にあげたいくつかの歌の印象の総和と、一冊の印象が必ずしも一致しない。もちろん一致する部分もあるけれど、誤差が大きいような気がするのである。というわけで、ここから先はもう少しマクロよりの視点に切り替えていきたい。

 

歌集を通して感じられたのは短歌になった「もの」たちの何かしらの物体感である。それは「物質感」というよりも「モノ感」という言葉で表現したほうが的確なものかもしれない。

                                                      

吉祥寺ヨドバシカメラ四階でそっと扇風機を持ち上げた

 

歌のなかに地名が提示されることはそれなりに多い。地名の提示によってもたらされる情報量というのはばかにならならいものだ。が、「吉祥寺ヨドバシカメラ四階」という提示には、そうした情報量のプラス作用よりも自身のいた場所をただ明確に指し示そうとする意思を強く感じる。そこがどういう場所であるか(たとえば冷房が効いているとかまぶしいとか)は一首の眼中になくただただそこが「吉祥寺ヨドバシカメラ四階」だという地理的正確性がむき出しになる。「扇風機」もそうだ。これは「扇風機」以外のなにものでもなく、「扇風機」である。どういった扇風機かは問題でない。さまざまな修飾語を付け加えることで、この扇風機のディティールは増す。にもかかわらず、そちらへは行かない。個々のディティールをあきらめることで、むしろ「扇風機」という電化製品の「モノ感」があらわになっているのではないだろうか。モノを言葉のディティールによって削るとき、そのモノは観念へと移行し現実から乖離する。この乖離をなくし「そのとき、その場で、それを持ち上げた」という事実を一首のなかに引きとめることは、染野にとっておそらく重要なことなのだろう。

 

五月十五日、馬橋(まばし)公園、青天に君をし思うこと許されず

わたくしは耐えていました脚二本四月五日のこたつに入れて

七月十五日 ぼくはNHKのカメラの前で笑ったりした

杉並区天沼に雪 積もる前に買い物せんとSEIYUへ行く

 

上三首は日付の詠み込まれた歌、最後の一首は地名の示された歌である。

これらの歌にも「吉祥寺ヨドバシカメラ」の歌と同様の傾向が確認できる。「五月十五日」も「四月五日」も「七月十五日」もこれらの言葉が何かの象徴であることより、時間を確定させることで「そのとき」だったということが読者の目の前に突き付けられる。

三首目を見れば明らかだが、「七月十五日」と「ぼくはNHKのカメラの前で笑ったりした」とを比べるとき、「七月十五日」という日付の提示のほうがその後の叙述よりも高密度であると感じる。

四首目は、場所。「天沼に雪」ではなく「杉並区天沼に雪」。

「杉並区」というたった三文字が、「その場」だったことを痛切にわからせてくれるのだ。「そのとき、その場」へのこの執着にこそ染野太朗がいる。

 

こうした作品が点在している一冊のなかに、次のような歌が出てくる。

 

尾鰭つかみ浴槽の(ふち)に叩きつけ人魚を放つ仰向けに浮く

 

この歌が入っている一連「人魚」は、歌集のタイトルにもなっておりひとつの大きな山場のようにも思う一方で、「人魚」のなまなましさが全面に押し出され、その後ろに込められているだろう部分がうまく読めなかった。

こういった歌には、作者にとっての正解があっても読者全体にとっての正解はないものだ。ただ、一読者としての個人的な落としどころが見つからないのはよろしくない。というわけで「人魚」の後ろを覗く。

 

人魚というのは、アンデルセンの童話『人魚姫』の人魚ではないかというのがこの歌を一読しての反射的な反応だった。『人魚姫』は大雑把に言ってしまえば、片恋の果てにみずから泡となって消えてしまう物語である。

 

紫陽花の毬の重みをなお増して雨 少しずつ妻を消しゆく

向き合いてコーラを吸えば夏の君が家族旅行の予定を告げた

 

 

歌集中には妻との別離や不倫を思わせるような歌もありそうしたやりきれなさの象徴としての「人魚」である、という捉え方もできよう。

とはいえ、それだけだと一読者である私には、割り切れすぎて逆にもやもやする。

 

 

心音のすこしはやまることのみがいやそれすらもきみのつく嘘

これもあれも嘘だと人を遠ざけた雨の降らざるこの十日ほどを

 

二首ともに「嘘」に重心を置いた歌である。もう少し細かく言えば「嘘」と「真実」の境目を見極めきれない苛立ちに重心が置かれている歌である。このような作品が「人魚」の歌の周囲にあることを思う。「人魚」は、先ほどとは別の角度から見ればUMA(未確認生物)であり、虚と実のはざまにただよう存在でもある。やりきれなさの象徴としての意味を孕みつつ、嘘と真実の境目のなさを肉体化したものが先の歌の「人魚」なのではないか、というのが今現在の一読者としての落としどころとなっている。肉体化した人魚を叩きつけた手ごたえを事実として自身のなかに保存するほかになく、一方で「人魚」はどこまで行っても幻に近い存在である。それを叩きつけて手ごたえを得たところで、最終的にはむなしさしかない。それでも叩きつけて事実を引き寄せるほかにない。「事実、真実への執着」がぐるぐるとループしていくのである。

 

 

 

そして、この歌集では主体がやたらめったら怒りまくっている。

先ほどはいらいらのある歌について述べたが、今度は怒りの歌である。

 

胸倉をんでまでもこいつらに伝えんことのなきまま

怒鳴りたるのちのしずかな教室で音読を聞く「父の詫び状」

あなたへとことばを棄てたまっ白な壁に囲まれ唾を飛ばして

君の手の触れたすべてに触れたあとこの手で君を殴りつづける

父を今日も怒鳴りつけたり今日父は炊飯釜をぼくに投げたり

 

老婦も怒る。

 

駅員に死ねおまえ死ねと怒鳴りいる老婦の唾の二、三滴見ゆ

 

そして、怒りが肉体化する。

 

怒りにて冷えた身体を浴槽に沈める 怒りのみ濡れていく

さびしさが地蔵のように立っている怒りがそこに水を供える

 

嘘と真実の境目のなさが肉体化して人魚となったように、怒りやさびしさも肉体化している。一首目、「怒りにて冷え」るということの実感がまぎれもない。浴槽に沈めた身体は消え、肉体化した怒りが湯船に浸かっている。二首目、さびしさは地蔵へと変わり、怒りがそのさびしさへ水を供えている。肉体から感情が生まれ、その感情が新たな肉体となる。感情の迸り、またそれによって肉体化したこれらの歌の一首一首に感じられる、微かだが不思議な充足感というか安堵感というか。

肉体化とは、つまりモノ化ということもできる。かたちのないゆらゆらとした感情に肉体を与えることで、主体は足場を取り戻しているのではないか。

思えば、「そのとき、その場への執着」も「事実、真実への執着」もおそらくは主体の、足場の確保に対する願いへ収斂され得る。どうやって生きていくか、といった現実的な問題の前提にとどまりせつせつと足場を取り戻しつづけている一人の人物がこの歌集にはいる。私にはこの人物が、恐ろしくも愛おしく思われてくるのだ。