引用・コラージュ・批評~斉藤斎藤歌集『人の道 死ぬと街』をめぐって~

 

斉藤斎藤の第2歌集『人の道 死ぬと町』を読むと、途中で眩暈(めまい)を覚えそうになる。

いままでふつうに歩いていた道が、いきなり陥没して、身体が宙に浮いたかと思うと、墜落して死ぬわけではなくて、今までとはおよそ景色の違う世界に着地させられる感じである。

 

斉藤短歌を好む人たち―わたくしを含む―に、歌集の出だしは、期待を裏切らない。

 

エレベーターの扉の脇に陣取って閉のほうだけ押すお父さん

ここにふれてくださいなんてあられもない自動扉に学ぶべきもの

 

エレベーターがある階に停止すると、そこに用のある人が下りてゆく。そのたびに、お父さんであるといわれて違和感のない中高年男性が、胸のあたりに位置する「閉」のボタンを押す。エレベーターは扉を閉じて、何事もなく上昇する。お父さんは最上階まで行き、しかし下りることなく、再びエレベーターとともに下降する。そして……。

わたしたちはこのお父さんについて、リストラにあったのではないかとか、いや、そのことを家族に告げられず、毎日このエレベーターのボタンを押し続けているのではないか、といった想像をせざるを得ない。

次も扉の歌。町中にある銀行の無人のATMなんかは、ドアに押すところがついていて、そこを押して入っていく。確かに「ここにふれてください」って書いてあったかも知れない。だけど、そんなエロティックな文面だとは思わなかったなあ。言われてみれば、確かに。「あられもない」が、言い得て妙だ。

こういう歌を、わたくしは「あるある感」の(漂う)歌と名付けて、勝手に悦に入っている。だって、言われてみれば、そういうことって「あるある」と思うではないですか。

自分は見たことがなくてもありそうだとか、見てはいたけれど気づかなかったとかいうのは、どういうことだろうかと思ってみる。それは、見えているのに見ていなかった事物の可視化に他ならない。それって、詩の原点だったのではないだろうか。

そんな歌を、いくつもこの歌集に読むことができる。

 

折りたたみ傘がカバンにあることを言えなくて夏みんなと濡れた

そんな話ここでしなくてもいいじゃない ほほえみながら娘は母に

もう一度だけ聞くがオレンジ・緑・赤、それでいいのかセブンイレブン

静岡の長さに負けて三〇〇円のコーヒーを買う行きも帰りも

じいさん動いてる歩道あるいてる子犬のような酸素をつれて

年が上なだけであだ名は父さんの父さんとぼくらの同じ時給

 

一首目は、中学生か高校生の頃を歌っている。自分だけ折り畳み傘をさすなんて、少年にできるわけがない。自分から仲間はずれになるようなもんだ。でも、稀にそういう奴がいて、意外と素直でいい奴なんだけど、友だちにはなれないかなって。でも、勉強とかできるんだよな。

二首目の「娘」は、怖くないですか、「ほほえむ」ところが。「母」に対する敵意は半端じゃない。子どもが親に盾つくとかいうのではなくて、女同士の闘いみたい。

「もう一度だけ聞くが、それでいいのか」って、刑事物の決め台詞みたいだけど、自分が言われていると思うと、忸怩たるものがある。「そんなんでいいのか」って聞こえるんだよね。現状維持でいいのか的な、そんな風に聞こえる。あるいは、結局保身なんでしょ、とか。いや、これはセブンイレブンの歌なんだから、なんて到底思えない。セブンイレブンのイメージカラーを歌う歌なんかあるわけないじゃないか。

「静岡の長さ」に負ける人は多いと思う。新幹線の歌。静岡県は「こだま」に限るのも含めて停車駅が多い。それだけ広いんだろう。だから、車内販売を買うわけです。

五首目の「子犬のような酸素をつれて」は、あわれが深い。胸の病のために、つねに酸素ボンベを引いて行くのだが、その姿が彷彿とするからだろう。でも、それにもましてもうこの人が子犬を連れて歩くことはないんだな、と思ってしまうとあわれが身に沁みる。

六首目は、明らかに社会批判。今日の社会の貧困はこの歌にあらわされたようなこととして現象している。歌にはペーソスと怒りが紛れもない。

 

歌集を読んでいくと、今までにあげた「あるある」感の(漂う)歌とは異なった風情の作品に出会う。

それは、メディアからの引用による詞書を多用した連作である。

「今だから、宅間守」と題した連作から、一部を引く。

 

大阪池田小事件の被害者遺族は、「八人の天使の会」を結成する

うちの子は天使じゃない、と思っても言える空気ではなかったろう

「ある遺族は事件当日子どもの体調が思わしくないように感じられたのに登校さ

せてしまったと、またある遺族は家族の病気が子どもにうつっていれば学校を欠席

して殺害されることもなかったと、さらにある遺族は事件前夜子どもに傷んだものを食べさせて体調不良となって学校を欠席していれば殺害されることもなかったなどと」*3

ある遺族はわたしが子どもを押しのけて登校すればとランドセル背負い

 

大阪池田小は、正式には大阪教育大学附属池田小学校。2001年6月8日午前10時20分ごろ、宅間守(38)は池田小に侵入、教室で包丁を振り回し、小学校1年生1名、2年生7名を殺害した。ほかに児童13名、教諭2名が傷を負った。宅間は最後の一人を刺し終えて、「あー、しんど」と言ったという。

一首目。もし自分が被害者の親であったならという視点から詠まれている。そうであったなら、自分の子を「天使」とは呼ばなかったろうというのである。被害者を天使、加害者を悪魔という2項対立が、歌人斉藤にはなじまなかったのだろう。けれども、そう言うことすら憚かられただろう、と歌う。詞書は、遺族の異常とも思われる自己処罰の言葉から構成される。「*3」は注釈を示し、次のように記されている。「大阪地裁判決、量刑理由。(後略)」。

判決は死刑であったから、遺族の言葉は、裁判官に、彼らの子どもに対する強い愛情と激しい悲しみや苦しみの表現として理解されたものと思われる。その詞書の付された歌は、注の番号が示されていないことから、斉藤の自作と考えられる。詞書の異様な悲苦をそのままに引き受けた表現になっている。逆に言えば、遺族の異様な心の高ぶりを歌にはしたが、同情を表明したわけではない。それは、斉藤が遺族に冷淡とかいうわけではなく、被害者でも遺族でもないのに被害者の側に立って、自分もまた被害者面をしてその場をしのぐという態度をとらないことを表している。

この歌集で初めて知ったのだが、斉藤は死者に対して実にストイックな考え方をする。「私の当事者は私だけ、しかし」というエッセー風の散文詩の中で、次のように述べる。

 

あなたの不在を私は、私の喪失感としてしか、悲しみのありがたみとしてしか、書くことができなかった。いい気なものだ、という声がした。

だから私は死については、正確に黙ることしかできないと考えた。その厳密さにおいて、行間の余白の束が祈りとなって立ち上がりますよう、そう願って、そう書かないできた。

 

わたくしなりの言い方をするならば、死者をだしにして自らを語らない、ということだろう。この連作は確かに死者である子どもたちを歌わない。焦点は、死刑になった死者宅間守ではなく、犯罪者宅間に絞られる。宅間を詠んだ歌をあげる。

 

わからない涙が流れわからないまま泣きやんで理由を付けた

「最後ぐらい人間らしく死にたい」と、事実は小説よりもベタなり

 

ここで、わたくしはこの連作の弱点を指摘せざるを得ない。一首目の詞書の一部と二首目の注を引用する。初めは詞書。次に注。

 

「精神病を振る舞っているようにしていたことを、最後まで押し通すことができなか

ったという悔しさから出た悔し涙であったのです。」*8(筆者注:供述書より)

注12 宅間は戸谷茂樹主任弁護人への最後の手紙(二〇〇三年七月二二日付)におい

て、次のように述べている。「マスコミにペラペラ何でも、しゃべりやがって。結婚に

当たって『人間らしく死んで行きたい』等いつしゃべった。よもや、言ったとしても、

そんな事、口外されたら、ワシのカッコつかん事、書かれるに決まってるやろ。謝れ

謝れ」。『創』二〇〇四年一一月号

 

これらの引用箇所の言葉の持つ訴求力は、歌を超えている可能性がある。

では、この連作は失敗だったのか。そうは思わない。連作に挑んだ斉藤斎藤の意図を、わたくしなりに推察して、誠実で果敢な試みであり、作者の歌は確実に深まったと思う。

初めに、「あるある」感の歌ということを述べた。それは、見えていながら見ていなかった事物の可視化であるという意味で詩の原点である、と。この連作「今だから、宅間守」もまた、同じ軌跡上にあると考える。

この一連を読んだときに、この事件当時のわたくし個人の衝撃をあらためて思い出した。そして、それは通り一遍のものとして過ぎ去っていったことも、思い知らされた。そのことがあったことは知っている、しかし、それが何かは知らない。ニュースで見た、でも、それだけしか見ていない。通り一遍とはそういうことだ。斉藤だってそうだったかも知れない。しかし、斉藤は、見えているが見ていないことの一つを、ここですすんで見ようとしたのである。

それまでの斉藤の歌は、私たちの生活に見え隠れする事象を、ユーモラスに、戯画的に、揶揄したりしながら、新しい切り口で見せてくれた。

この連作では、斉藤は自らモチーフを狩りに行っている。この踏み出しを喜びたいと思う。

「人体の不思議展」や「ここはシベリアのように寒いね」という連作もある。テーマは違っても、その制作方法も狙いも、宅間をめぐる連作と同じだとわたくしは考える。ここに引用する紙幅がないので、歌集を読んでいただきたいと思う。

 

 

2011年3月11日午後2時46分、東日本大震災が起きた。この震災は、斉藤斎藤という歌人の魂にも襲いかかり、浅からぬ痕跡を残した。

2013年に彼は被災地を訪れる。「ない」という一連から引く。

 

あの水をどこへ消したのだろう

車窓に見える冬田のような、道よりも一段低く更地がつづく

いちめんのない 片付いた工場のない屋根にない大群の鳥の黒 ない

 

震災から2年。津波はあとかたもなく、破滅したビルも家も何もない。人影も鳥すらもない。同じく被災地を詠んだ違う一連から引く。

 

上がりかけてバーを抜かれた遮断機が青空の果てをつらぬいている

廃線をいつか歩いてみたかった こんないつかじゃなかったよ楢葉

パトカーの福島のひとほほえんで「こんなところでどうされました?」

 

楢葉町の成立は1956年。その時だって人口は1万人強いた。2016年は8000人弱。震災の影響が大きい。楢葉は「こんなところ」に、成り果てた。パトカーの人が、そう言うのだ。悲しみと怒りがにじみ出る。いい歌だ。

これらの歌から斉藤が震災によって受けた衝撃を思う。

先に、斉藤の「あるある」感の歌について述べた。そこには、息苦しさを感じずにはいられない今日の現実に対して、蜂が敵を刺すように、批評のカウンター・パンチを食らわせていたと思う。若者と時給が同じ「お父さん」と呼ばれる中高年の悲哀は、たしかに今日の貧困の実態を風刺していた。

斉藤は自らの拠ってきた歌の方法について、正岡子規のかの「藤の花ぶさ」の歌を例にして説明する。

 

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとゞかざりけり

(前略)一首に書かれていないのは、藤の花を見ているこの私がもうすぐ死ぬということだ。なぜわざわざ畳に寝転んで藤の花を見ていたのかというと、それは私が病気で、ふとんに寝たきりだったからだ。病気のことは、一首に書かれていない。しかし、私にいま見えている世界が、私の見え方に厳密に描き出されることで、私には書くことのできない私の死が、書かれないという形で、一首の裏側に貼りついている。

「私の当事者は私だけ、しかし」

 

ここには、「あるある」感の(漂う)歌の方法が、率直に書かれている。詩人は見えていないものを見るものだ、と言う。そしてそれは、目の前の対象が「私の見え方」として見えてくることに他ならないのだ、と。そして、彼は自らすすんで「そこにあるが、見えなかった」現実へ向けて、モチーフを狩りに行くまでになった。

震災もまた、確かにそこにあったものでありながら、しかし、「私の見え方」として見えてこないものに他ならない。だが、震災を詠もうとするとき、斉藤は自分の方法を鍛え直さなくてはならなくなった。同じ作品に次の箇所がある。

 

あるいは小さな共同体、ともに長い時間を過ごしてきた友人や恋人たちや家族たちが、

互いに互いの彼岸を共有することはあり得るだろう。互いの一人が死んだとしたら、私があなたを悼むではなく、私たちが私たちの喪失を悼む、ということがあり得るだろう。

そのような私たち―たちが大量に、ほぼ同時に流されてしまったのだとしたら、誰が?

 

まさに東日本大震災は共同体を根こそぎ流してしまった。彼女を悼む資格のある彼女の母も、彼女の恋人も、隣のおばちゃんも流してしまった。悼まれるべき人が悼まれない。斉藤の言葉は、そう語っている。斉藤は他者の死については沈黙すると決めていた。しかし「誰が?」悼むのかと問いを発したとき、斉藤は、他者の死について他者である誰かがうたわなくてはならないという方へ、新たな回路を開いたのではないか。

そして、そのような可能性への想像が、わたくしをさらなる想像へといざなう。

先に斉藤の歌は、所与の現実に対する「わたしの見え方」の提示であると述べた。そうであるならば、大震災は彼から現実を奪った。共同体が流されたということは、今まで疑うことのなかった、この息苦しい現実は明日にも続くという漠然とした思い込みが、流されたということを意味するはずだ。明日、この世界はないかもしれない。平安末期や中世の日本人は、それを無常と呼んだ。

斉藤は、震災の死者とも繋がっていないし、震災の悲惨にも立ち会っていない。震災の死者に対して、彼には「彼の見え方」は、ついに訪れない。無常の自覚。歌人が遭遇した魂の衝撃とはかかるものであった、とわたくしは思う。

歌人は、しかし、それでも震災を歌う、福島を歌う。それは異形の連作として私たちの前に現れる。例として、一部を記す。

 

春が来た 見える景色は もうちがう/コンビニの まどにきたない 水のあと/(略)/海を見て 黒い津波は もう青い/(略)/見たことない 女川町を 受け止める(後略)

ヤマハ漁船 タカラ 黄川田建材店 理容ヤナギ 民宿にこにこ荘

 

詞書は、『女川一中生の句 あの日から』の引用。短歌作品は、作者が街を歩きつつ見た看板などの言葉を連ねたのだろう。これも一種の引用。いわば、引用による夥しい詞書と注釈をほどこした先行する試みに加えて、連作中の一首として短歌作品そのものまでも引用(に近いもの)を据える。ここには「わたしの見え方」は、ないに等しい。しかし、その廃墟感は紛れもない。

この場合、特にわたくしが注目するのは、詞書の女川一中生の俳句である。巧拙にはかかわらない。彼ら彼女らが、震災の当事者であることが重要なのだ。歌人斉藤斎藤は、彼らの眼や身体を通じて、震災の現実に降り立った。

斉藤は、震災の以後に、他者の短歌の引用だけで一連を構成した作品を発表している。また、おそらくテレビなどを通じて知った他者の発言を、そのまま引用して自作の短歌として発表している。それらの制作と発表が震災以後であることは、震災における、またそれに伴う原発事故における当事者は誰か、ということがをすでに意識にあったことを示すものだろう。だが、今はそれ以上触れない。福島の原発をテーマとした、前例のない壮大な作品を語ることで、それに十分こたえ得ると思うから。

 

連作「広島復興大博覧会展」は、壮大な異形の連作である。まず、冒頭作品を引く。

 

私はそれから十年間、家で病みました。

十年たって比治山の上から見た街は、見知らぬ白い美しい街

 

いきなり「私はそれから十年間、家で病みました」。と言われても、なんのことやらと思うけれど、詞書と歌であることは疑いがない。と思うと、この後に次のような記述が続く。

 

でありました。今となっては不可能なことですけれども、あの足を踏み出せばがさ

がさと砕ける瓦礫の街を、鎖を張りめぐらして残したかった、と思っています。

そしてあのチロチロと燃えつづけ、私たちはここで死んでいる、と訴えつづけた燐

を凍結してそのまま残したかった。今もそう思っています。

 

すぐにわかることは、歌に見えたものが、実は散文の一節を抜き出して、引用したものだということである。そして、この一節が、ある書物に載っている、広島で被爆した看護学生の証言であるということが、後注によってわかる。この連作は約百首からなっているが、そのうち斉藤自作の短歌は、正確には数えていないが、四割くらいではないか。

とまれ、歌(証言)からは、広島の受苦を決して忘れないでほしいという、痛切な願いが聞こえてくる。

では、被爆から13年後に開かれた、題名の一部ともなった「広島復興大博覧会」とは、何か。連作から引用する。

 

思えば、あの荒涼たる焦土から、悲涙を呑んで決然立ち上がり、(略)私は、よくも

こんなにまで、復興したものよと、(略)目がしらの熱くなるのをおぼえるものであ

ります。

今か今かと会場を待つ四千人 会長にこやかに鋏入れ

 

詞書は『広島復興大博覧会誌』に載った当時の広島県議会議長の開会式祝辞。歌は、同じ本からの引用。寡聞にして知らなかったが、被爆後13年目にして広島の復興を祝い、さらなる発展を願って、このような広島経済界あげての一大イベントがあったのだ。そこでは被爆の惨事も展示されてはいたが、斉藤斎藤の連作を読む限りでは、復興に重点が置かれていたようである。

 

(前略)いまや原子力産業革命を目前にし、生産と産業の第一線にある労働者が、

この課題の前にシリ込みしていることは決して許されない。原子力の平和利用こそ

原爆のつぐないとしてもっとも適切な途であろう。

絶望は再生のための恩寵(めぐみ)ぞとこの語に驚き得し力なり

 

詞書は中国新聞に載った、広島全労連副議長談話の一節。歌は、注が付してないので、斉藤の作品と考えるが、これも詞書に寄り添う形でつくられており、副議長の作として読めないことはない。とまれ、当時の誰かの作品のように作られている。原作では、漢字に正字すら用いられているのである。

 

原子爆弾の一個があれば広島市中を明るく照らすこともできる

 

広島大学理学部の助教授の発言から切り出してきた作品。助教授は、「悪用すると死の世界」とも述べているが。かの博覧会は、被爆都市広島が、原子力の平和利用によって復興することを、声高く宣言したもののようなのである。

13年前にそんなことがありましたと、斉藤は私たちに報告したかったのだろうか。そのために、このような夥しい引用による詞書と歌と注からなる百首連作を試みたのだろうか。

まさか。ここで考える糸口として、題名に目をやることにする。『広島復興大博覧会展』。「広島復興大博覧会」、ではない。連作中に次の記述がある。「二〇一八年四月一日から五十日間にわたり、広島平和記念資料館にて、広島復興大博覧会展が催される」と。そして、「広島復興大博覧会展は広島復興大博覧会を、当時の最先端の技術と、当時の最先端の知識に基づき、可能な限り忠実に再現する」と。もちろん嘘である。この虚構にどんな意味があるのだろうか?

福島の原発事故から五年目の今日、全国の原子力発電所は次々に稼働し始めた。1958年に「広島復興大博覧会」で平和利用が謳われてから50年余、平和利用の花形である発電所は、福島を冒した。それにも懲りずに、私たちはかつてと同じ道を歩き始めようとしている。それは、原爆を落とされた13年後に復興博覧会を開いた、当時の人たちと変わらない。性懲りもなく、と思う。そして、戦後の日本は、このようにして今日に続いてきたのかと思い、それは他人事ではなく自分がしてきたことなのだと認めざるを得ない。

この連作は、2011・3・11以降の批評行為の中でも、すぐれたものであると思う。私に知識がないことを斟酌しなくてもよいのならば、かなりすぐれた批評的営為であると言いたい。

斉藤は、大震災の当事者ではないし、広島で被爆してもいない。そこで彼は、当時の当事者の眼と声と身体を通じて、広島に降り立ち、そこから現代に照準を合わせたのである。

最後に、連作の終わりの方にある作品を挙げる。詞書は、斉藤自身のもの。歌は、広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアムからの引用、おそらくネットからの引用である。

 

当時のわたしたちの夢は、どこで間違えてしまったのだろうか。

当時の私たちは、どこで引き返すことができただろうか。

それとも当時の私たちは、夢を見てはいけなかったのか

消息が書かれた瓦、講堂にぎっしりと横たえられた負傷者

 

私たちは、同じあやまちを繰り返しているらしい。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には有名な碑文が刻まれている。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」。