なんとなく忙しがって日々を送っています。通りすぎてゆく、例えば雑誌について「あっ、これは読みたい」と思い、目のつくところに置いておきます。しかし、いつの間にやらそれが消えていて、結局、読まずじまいになってしまうことも少なくありません。そうならなかったのが『短歌往来』2025年10月号です。「特集 近藤芳美」を読みました。
今井正和、高良真実、永田和宏、中川佐和子、江田浩司、加藤次郎、大辻隆弘、黒木美千代、道浦母都子、秋山律子の各氏の文章が載っています。それぞれ充実した文章でした。「批評とは対象を評することで己れを語る」という、当たり前の感想にも思い至りました。近藤を師とする人たちは余計に自らを語ることになるのではないかと思われます。全体として行き届いた特集のように感じました。私のように何首かの有名な歌の印象と略歴程度の知識しか持たない者にとっては、ありがたい企画です。
私が「人」に入会して間もなく、「人」誌上で「戦後短歌史研究-佐太郎・柊二・芳美」という連載の共同研究がありました。松坂弘、中井昌一、成瀬有、石田容子が、毎回掲載される三人の各一首を並べて、短い論考を付すといったものでしたが、私はただ、この三人の歌の雰囲気を感じただけだったと想います。
近藤さんについては、忘れがたい場面があります。平成に入ったころでしたか、「未来」の会員の方の歌集の批評会に参加しました。一通り批評が出揃ったころ、所用で遅れた近藤さんが登壇されました。遅れたことをわびた後、次のようなことを話されました。自分は聞けなかったがいろいろ評論家の方々がこの歌集について述べたと思う。著者はそれは聴かなくてよい。自分の信ずる道を進みなさい・・・と。ほかのことは忘れましたが、その言葉の内容と声の勢いは記憶に残っています。
それより前だったか、何かの講演会で近藤さんの講演をきいたことがあります。講演後の質疑応答のところで、一人の初老の男の人が、現在の左翼政治運動の動向について近藤さんの意見を求めた場面がありました。その人が歌人なのか、政治運動家だったのかはわかりませんが、その場違いな質問に対して、近藤さんは誠実に答えていました。
今回の特集の総論的な役割を負った今井正和さんの「近藤短歌の二つの流れ」の次の部分が、この二つの場面を思い出させてくれました。
後期の近藤芳美の作品は、リズムが無く、晦渋で、よみづらいものになっていく。近藤は或る雑誌の中で、「詩」と「思想」との結合を目指す旨の発言をしている。そのためにが周囲の評価は二義的であり、求道者のように苦闘しながら自分の道を進んで行くのであった。
今井さんの文章で教えられたことがもうひとつありました。「朝日歌壇」の選者になったことが、「近藤にとっての一つの転機」だったとしていますが、「そうした無名者の歌に触れて、以後近藤は旧仮名から新仮名に改めた。」と述べています。私にとっては興味深い問題です。
なお、近藤さんが「朝日歌壇」の選者であったことについては、高良真実さんの「民衆の歌を信じていた人よ」、そして永田和宏さんの「近藤芳美にとっての朝日歌壇-岡井隆の〈常民の思想〉に触れて」が、深く考察を加えています。
さて、何より私を撃ったのは、中川佐和子さんの「唯一の文芸」の文中にひかれた近藤芳美の文章です。『「短歌と人生」語録:作歌机辺私記』(2005年5月、砂子屋書房)に掲載されたものです。少し長いですが、そのまま以下孫引きさせて頂きます。
短歌を唯一の文芸とし、自己表現のことばとして選んできた。(略)唯一の選択である短歌が、わたしたちの生きる唯一の「生」の上に何であるのかという問いを、ときとして自分に向けることが大切であり、ひそかに自分の作歌の上に見定めていくことが大事なのであろう。(略)どう考えたって、たかが三十一文字の短歌など、あまり楽しいはずもなく、格好のよいものではない。無論、世俗の報いなど期すべくもない。その上でわたしたちが短歌作者であるとしたなら、わたしたちの作る短歌が何であり、何であるべきかは自ずから定まっていくのであろう。じたばたするな。その上に自分の短歌を見定めよ、ということである。
93年10月
中川さんは、この引用文の後に「この「短歌を唯一の文芸」という近藤さんの言葉を私は大切にしていきたい。」として、筆を置いています。
私は、短歌が自分の「唯一の「生」の上に何であるのかという問いを、自分に向けることが大切」の一節を少し考えてみたいと思いました。「問いを、自分に向ける」ということに、はっとしたというのが、正直なところです。
今回、「特集 近藤芳美」を読んで、一冊の歌集を思い出しました。私が勤めている小さな出版社で作った非売品の歌集です。取引先の幹部の方が、恩師の歌集を作ってもらえないかと持ち込まれたもので、短歌にあまり関わったことない同僚を、ちょっと手伝いました。略歴を見ると、三重県に生まれ、昭和2年に小学校教員となり、招集されて中国で兵として転戦し、帰還後教員に復帰して、昭和40年に57歳で定年退職。翌41年に短歌を始めたとあります。その年譜の中に、昭和48年に「未来短歌会に入会近藤芳美氏の指導を受ける」と記されています。「未来」在籍は長くなかったようですが、戦争の悔いや反省、戦後の社会へのメッセージを詠うために、「未来」の扉を叩いたのではないかと思われます。
この『中村正夫短歌集』(平成6年11月27日、ゆまに書房、非売品)の歌を少し紹介します。
- なまなまし山荘壁の弾痕に思いで痛し兵のわが過去 (あさま山荘事件)
- 英霊に献花の儀礼厳粛なり滅びし者の何に触れしか (慰霊式典)
- 終戦のことばにほっと息衝きし体制教師われ今も生く
- 北鮮に還りし教え児想うなりこの坂越えて開墾などせし (明倫国民学校)
- 義勇軍奨めし時に抵抗の瞳の少年今も忘れず (昭和十七年頃)
- 英霊の言葉も古び広場には村の碑孤独に動かず
- 八達嶺はるかなる兵舎の窓に居て銃声激し元旦朝明け
- トラックに売られ行く牛整列す兵隊輸送の古き幻
- 国の意志なりと言ひつつ人間撃ちし痛みを今日も思へり
- 離れざる我の影なり北支那の大平原にも共に征きしを
1―あさま山荘事件のニュース映像に弾痕を見て、戦地の風景を思い出した歌です。
2―戦没者の慰霊の儀式に参加しつつ、亡くなった人たちにそれは届いているか、疑問を抱いています。
3―体制に属する教師であったが、終戦の詔勅にほっと息をついた。そして戦後を生きている。
4―小学生まで繰り出して食料増産を図ったということでしょうか。戦後その子どもは、朝鮮半島へ帰って行きました。どうしているか心配しています。(戦前、紀勢線の工事に携わるため、半島から家族で移ってきた人たちが多かったと聞いています。)
5―これは史実を語る一首です。義勇軍とは満蒙開拓青少年義勇軍のことで、表向きは意欲ある青少年が集まって……なのですが、実態は、上からの割り当て制になっていて、小学校で優秀だった十代の二、三男を、小学校教師が説得して応募させるといったことが行われていました。作者もその仕事に携わったことを、戦後、思い出しています。
6―いわゆる忠魂碑といったものが、忘れられてゆくのは、帰還できた者には辛いことだと思います。
7―戦地での光景を回想しています。
8―売られてゆく牛を見て、兵隊輸送の光景がよみがえったのでしょう。
9-銃で人を撃ったことは忘れられないでしょう。第3句の4音の「にんげん」のあとの空白の1音に作者の強い思いが感じられます。
10―戦争の経験を共有できるのは、わが影しかない。
あるいは、拙いかもしれませんが、まさに「無名者」が自分の人生を精一杯生きてきたことを、唯一の文芸である短歌に託していると言える1冊かと思います。
以上
