横山未来子歌集『午後の蝶』は、2014年1月から12月31日までの1年間、ふらんす堂ホームページに毎日掲載された「短歌日記」を1冊にまとめたものである。
横山さんとは、一度だけお会いしたことがある。かなり前に、「短歌研究」誌上で三枝浩樹さん、横山さんと一緒に作品批評をした。その時にどんな話をしたかは、定かでない。三枝さんの見識の広さに聞き入ったことを覚えている。
横山さんの批評は、言葉は決して多くないが、的確であった。印象に残っているのは、声の涼しさである。耳にきれいな音が響くという感じだった。言葉遣いが丁寧で、金輪際「ぶっちゃけて言えばさあ」なんて言わないと思った。
三枝さんとはその後またしばらくして、信州は松本の空穂会でご一緒させていただき、2次会にも行って、かなり飲んだ。酔うほどに楽しくなるお酒で、信州人士の風格があった。それからでも随分と経った。
さて、横山さんの歌である。
ものの芽の湿れる朝よこたはりうすきからだのうへに手をおく
2月3日の作である。「短歌日記」ということで、記事があるのでわかる。作者は目覚めたままベッドに横たわっている。そのままの姿勢で、朝露に濡れた、芽吹いたばかりの草の芽を思い浮かべる。小さないのちの息吹が、目交いにうかぶ。そして、作者は自分の「うすきからだのうへ」に手を置く。体力がありそうには思えない身体である。おそらくは心臓に近い、胸のあたりに手を置く。作者は「うすいからだ」に宿る、自らのいのちに触れる。草の芽と自分のいのちとは、等価である。二つのいのちは、大きな一つのいのちのあらわれの違いでしかないように思われる。そんな感想をいだく。ともあれ、ここには植物とか動物とかの区別を越えた、いのちそのものへの敬虔な気持ちと喜びとがある。
作者は、わたくし一人の命ではないいのちを身体で感じている、その感触の深まりを味わいたい。
けふといふ日の終はるころ暗がりの水にしづめる匙の光りぬ
歌の前に書かれた文章を引く。「書評の締め切り日。メールで送れる時代になってからは、日付が変わるぎりぎりまで見直したり考えたりすることが多くなった。時々考え込みすぎて、0時をまわってしまうのだが。」
この文章に導かれて読むと、ダイニングキッチンのテーブルの上にノートパソコンを広げ、深夜まで原稿を打ち込んでいる作者の姿が浮かぶ。午前零時をまわる頃、手を休めてキッチンのシンクの方へ目をやると、さっき使った匙が水に漬けてある。光の加減で、それが光る。深夜のキッチンの隅の暗がりに点る、匙の光。その光に、一首は照準されている。匙とは、生活の謂いである。作者が見たものは、わたくしの日常世界に差しこむ光に他ならない。
遥かより来る風のなか髪切りてかるくなりたる頭をかかげゆく
美容室に行って、髪をカットした帰りである。陳腐な言い方だが、身も心も軽くなった感じがする。実は、胸に憂悶を抱えていたかもしれないのだが、なんだかさっぱりとした気分になったのである。
「かかげゆく」が、いい。気持ちを切り替え、勇気を出して、風の中を颯爽と進んで行こうかというのである。「遥かより来る風」とあるから、風の中を、どこまでもどこまでも行く、という感じがあらわれる。暮しの一場面を切り取ったような歌だが、実は、葛藤をかかえながら、それを越えようとする、作者の人生に臨む姿勢がうかがわれる。
このことは、今までにあげた3首の歌すべてについて言えよう。暮しの中で、ふと心に触れたことを、具体的かつ限定的に詠む。その過程において、作者の初発のモチーフ―作者の心の揺れとそれをもたらしたささやかな素材―は、自分の生き方を確かめる方向に深められる。横山未来子の歌の本質の一つは、そこにあると思う。
蛇足だと承知の上で、歌の前に書かれた文に触れる。
「3/6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。」〈伝道の書 一章六節〉
「伝道の書」とは、旧約聖書の一節で、「コヘルトの言葉」とも言われる。コへルトはエルサレムの王ダビデの子である。「エルサレムの王ダビデ」は、紀元前10世紀ころのイスラエルの王。聖君として崇められ、救世主もその血統から生まれるとされた。寡聞にして知らなかったが、次の詩句は有名らしい。
コヘルトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
この書は、コヘルトが天下のことをすべて知ろうと熱心に学んだものの、空しさが消えないことを述べる。また、快楽を追求したが、空しいことに変わらないことを記す。労苦も富も、また空しいと彼は言う。そして、12章からなるこの書の終わりの方に、次の言葉が書かれる。
神を畏れ、その戒めを守れ
先の歌に戻って言えば、「遙かより来る風」とは、旧約聖書の世界から吹いてくる風に他ならない。風はめぐりめぐって、安住することがないことを意味する。こういう詩句もある。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る
労苦は絶えることがないといったような詩句を縷々連ねながら、しかし、神を畏敬することによって空しさから解き放たれる、と言うところにこの書の眼目がある。
横山未来子の歌のテーマは、地上の苦を宗教によって解放するところにある、なんて言いたいのではない。
あえて、旧約聖書にまで言い及んだのは、横山が歌を詠むときの視点について考えたいからである。彼女は、自らの髪を切ったという体験的事実を詠む。その時彼女は、髪を切った自分自身を、旧約聖書的な空しさを覚える者として見ている。彼女は単に胸の内を吐露したのではない。この世界の中の空しさを覚える人間をうたったのだ。この俯瞰的な視点は、自分自身を、地上の多くの葛藤を抱える一人として、相対化し、抽象化する。この営為はすぐれて文学的であると思う。彼女の場合、その契機が宗教なのである。彼女の作品世界において、宗教はそのような位置にある。
2月25日の日記に、次の一節がある。
三浦さんの自叙伝『道ありき』がきっかけで、私は短歌とキリスト教に出会った。『道ありき』を読むことがなかったら、この「短歌日記」を書く日も来なかったことだろう。
「三浦さん」とは、『氷点』の作家三浦綾子のことである。彼女は敬虔なプロテスタントであった。横山未来子の文学を語るに際して、キリスト教とのかかわりを無視することはできない。
紙の袋にからだををさめたる猫のおのがぬくもりのなかにやすらふ
3月18日、春の彼岸に詠まれた歌。紙の袋におさまった猫の様子があどけない。下句に、作者らしい情意が感じられる。自足した安心、というイメージである。それゆえに、観念性があらわかなとも思う。
スマートフォン夜の机上に点りをりこのあかるさを恃みし日ありき
手におもき梨を剥きをりここにをらぬだれかのために剥きたき夜に
一首目。上句が景、下句が情。心の明るさをスマートフォンの明かりで譬えたに過ぎない。たしかにそうには違いないけれど、「このあかるさを恃みし」という措辞には、観念臭さがない。日常実感に近い。作者のこうでありたいという生き方が、素直に出ていると思う。
二首目は、相聞の歌。それも片恋の歌である。夜ごと来ぬ人を待つ古典和歌の女性作者を思ってしまう。そんなふうに限定できるのか、というのももっともである。言いたいのは、この歌から伝わる愛が、肉感に富んでいるということだ。それは、手に感じる梨の重量感と形、それを剥く行為から伝わる。身体感覚と愛が結びついている。それは、作者の愛が観念に終わっていないからだろう。実は、「ここにをらぬだれか」が、キリストである可能性、東日本大震災の被害者やシリアの内戦で死んだ子どもである可能性は、彼女の他の作品から察すれば、十分にあり得る。たとえそうであっても、彼女がうたった愛は、彼女の身体と暮らしに中にあるものだと、わたしは思う。
湯の沸くを待ちゐるあひだ北の街の雪の予報をながめてゐたり
日記の記事を引用する。
11/1 10月30日に、作家の故・三浦綾子さんのご主人三浦光世さんが亡くなられた。三浦綾子さんの本がきっかけで短歌を始めた私にとって、光世さんも特別な方だった。綾子さんが亡くなられてからも、私が歌集をお送りする度に直筆の丁寧なお便りをくださった。いつか旭川へ行って、お会いできたらと願っていたのだが……。
あらためて歌を読むと、しみじみとした味わい深い挽歌だなあと思う。湯が沸いてくると、しゅんしゅんと静かな音を立て始め、やがて部屋中がその音に占められる。その音に耳を傾けていると、雑駁なきれぎれな思いが消えてゆき、おのずから亡くなられた三浦光世さんのことに思いが占められる。明日の旭川は、雪。葬儀も、雪になるらしい。微笑む三浦さんの姿に、北国の白い雪の降るのが、重なる。「初めは結婚するつもりはありませんでした。」綾子さんとのことを記者に聞かれて、そう答えた記事を読んだことがある。そんなことも、作者は思ったりしたかもしれない。
十二月の暦の隅に来年のわれの予定をひとつ書きたり
来年の予定がはいった。カレンダーはまだ今年のもの。そこで、十二月のカレンダーの隅に小さく印刷された、来年の一月の暦にやはり小さく書き込んだ。事実は、かくのごとし。誰しも覚えのあることだ。作者はそのモチーフを、ちょっと深めてみた。そうしたら、こんなささやかな出来事のうちにも、たしかにこうして生きているんだという喜びが潜んでいた、と気づく。
心に触れたささやかな事実を、生きる姿勢へと深めてゆく。横山未来子に魅せられる所以である。