大きな柩  —大辻隆弘歌集『景徳鎮』について—

 

大辻隆弘の第八歌集『景徳鎮』は、付箋のいらない歌集だといっても過言ではないかもしれない。それはこの一冊におさめられた一首一首の完成度による部分、付箋をつけようとすればすべての歌に付箋がついてしまうということと、ピンクや黄緑の付箋が、歌集の趣きを削いでしまうおそれがあるということを意味している。前者の意味で付箋のいらない歌集は探せばそれなりに見つかるのだろう。けれども、『景徳鎮』はむしろ後者の意味で付箋のいらない歌集であると言える。ページをひらけば丹念に鞣された歌のかずかずがしずかに立ちならぶ。そのたたずまいにカラフルな付箋は似合わない。と言いつつ、便宜上わたしの『景徳鎮』には色とりどりの付箋がついていて、何かしら申し訳なく思っているところである。それでは作品を見ていきたい。

 

 

鳰鳥(にほどり)の水おしひらきゆく胸を水の匂へるかたへにて見き

 

 

鳰が水面を移動してゆく、それ以上でもなくそれ以下でもない光景である。その光景から感情が反射されないところに一首の透明が生じている。また、ひとつひとつの言葉に難解なものはないのに、読者は何かしら複雑なものを手渡された気分にさせられる。一首は鳰の胸をクローズアップしているにもかかわらず、読み手はゆわんゆわんとした水面の動きを体感し、クローズアップされた鳰の胸以上にその体感へ浸ることとなる。「水おしひらきゆく」の「水」で少し止まり、「おし」でさらに弱く止まり、「ひらき」で伸びやかになり、「ゆく」でまた弱く止まる言葉のつらなりがゆわんゆわんを生じさせているのである。また、一首全体で見れば、「水」のリフレイン、「鳰」と「匂」のリフレインもさりげなく水の運動に同化してゆく。読者はある特定の言葉からではなく、一首の全体性から水の運動の複雑さを受け取ることができるのだ。

 

 

道の上に落ちし椿の花びらは黒き脂(あぶら)となりて溶けたり

どこからか吹き寄せられて来し花の柿の花ちひさな箱型をして

終りたる花の名残りのくれなゐを臀辺(しりへ)に立てて熟るる石榴は

 

 

いずれも花にまつわる作品である。一首目は落花した椿が時を経て変化してゆく様子だけれども、「黒き脂」という把握が大胆である。二首目、柿の花のかたちが箱のかたちだというのもたしかにそうで、この歌では途中「吹き寄せられて来し花の柿の花」という軽い迂回が、子どもの言ったようなたどたどしさを呼びながら一首を可愛らしいものにしている。三首目、石榴の実のふくらみから臀部の質感へ移行してゆくところに面白さがある。いずれも実際の花を描写しているような手触りを感じるのだが、大辻作品の場合には描写力を認識力が追い越しながら一首が成立している。「黒き脂」「ちひさな箱型」「臀辺」といった一点集中は、認識のなせる技であり大辻作品の本質のひとつはその描写力にあるのではなく、認識力のほうにあるのではないかと個人的には感じている。認識の力によって、歌に必要な一点だけが握られていることによって、これらの作品にはすっきりとしたしずかさが湛えられている。

 

 

ブラインドの羽根にひとさしゆびを載せ雨を見てゐた野を移る雨を

かろき音立てて真冬の雨は降る欅の枝の深き交差に

 

 

二首とも平明な歌であるだろう。とはいえ、平明な歌というだけではない。こうした作品にみられるのは文体の力である。こちらもうっかりすると描写力の秀でた歌だと思ってしまうが、描写という「手法」ではなく文体という「状態」に大辻の意識はある。どう描くかより、描かれたものがどういう状態にあるのか、というほうにおそらく重点が置かれている。もう少し言えば、大辻の歌は、たたずまいの歌である。ひとつひとつの歌に、ふさわしいたたずまいを与えること。そこへ認識の力、文体の力を溶かし込んでゆく。

 

 

橋脚ははかなき寄辺(よるべ)ひたひたと河口をのぼる夕べの水の

そぼそぼと藜(あかざ)に降れる雨をおもふ幾万粒のなかの幾粒

 

 

橋脚に寄る夕べの水や藜に降っている雨といった風景が大辻の身体を通って最終的には歌のたたずまいへと収斂してゆく。歌のここが読みどころだ、という地点にとどまって完成を迎える作品にももちろん魅力はある。読みどころが強く出ている作品は何かを食べて味そのものを味わうことと似ている。一方で大辻作品は味そのものよりも味に付随する香りや、味そのものの後に立ち上がってくる後味を味わう方向へ向かっているのではないかと思う。それにしても穏やかな二首である。一首目、河口という場所が切り取られるときには雄大さや明るさへ視線が向きがちだが、ここで視線は橋脚にひたひたと近づく水へ向いている。二首目でも雨の降る場所として表れるのは藜である。藜は、基本的にどこにでも生えてくる雑草で多くの人が目にしている植物であろう。しかし、薔薇や百合のような「見る」ための植物ではない。ただ何となく普段の生活の視野に入ってくるだけの植物だ。それを大辻作品は「見る」ものとする。橋脚に寄る夕べの水についても雨の日の藜やそれに降る雨粒についても、「ただ見えている」だけのものから「見る」ものへと穏やかな逆転が起こっている。

 

ここまで、自然の風景が詠み込まれた作品を中心に見てきた。『景徳鎮』はこうした作品が数多くおさめられているけれども、一冊の中心となるのは父の挽歌である。

 

 

背に腕を添へてからだを起こすとき年寄りに成り切りし父と思へり

粘着ける入歯を外しやりたれば頬(ほ)のゆるぶまで病み呆けにけり

 

 

余命の先が見えている父親であることが滲んでくる。「年寄りに成り切りし父」「粘着ける入歯」など言葉自体は冷徹な印象を含んでいるものの、父の衰えを全身で感受している主体のありようが伺われる。また、二首目など読み手によっては老残の光景として映る部分もあり得るけれども、むしろわたしにはある種のうつくしさを帯びた映像のように見えてくる。

 

 

梅もうぢき咲くで、と告げぬ垢づきて乾ける父の耳に向ひて

ものいはぬ父の傍(かた)へにゐるときの安らふこころ父は知らざらむ

昏睡の寒きねむりのなかにゐて両の瞼を開きくる父

 

 

生がゆるやかに終わってゆく過程が、父と子という関係性を織り込みながら描かれている。ひりひりとした切迫感とそれを包む空間のしずかさが当然のように一体化し、読むものの胸に沁みわたる。

 

 

畦道を歩める猫の横腹が伸び縮みして夕陽に当たる

 

 

そんな日々にあっても、世界はいつもと変わらない。父の臨終へ向かってゆく一連のなかにあってこの畦道をゆく猫が見せてくれるのは、世界の奥行であろう。臨終へ向かう場面のひとつ向こうにはいつもの畦道があり、猫が夕陽のなかを歩いている。すぐ向こうにはこのように切迫感の及ばない、また、主体からみれば切迫感の消化された世界がひろがっているということの途方もなさである。

 

 

夕ひざしあかるむ丘が見えはじめ美旗(みはた)の駅はさくら咲く駅

わが父を葬れる日々に開きけむ辛夷の花も見ずて過ぎにき

父のなき息子となりて花桃のひえびえと咲く白に逢ひたり

 

父の死に添えられるように、さくら、辛夷、花桃が歌のなかに咲く。おそらくは「梅もうぢき咲くで」の梅も咲き残っていたはずである。父の死後が、花々を描写した作品で埋められていることによって、時間それ自体が大きな柩となっているようにも思われてくる。と同時に『景徳鎮』という一冊の歌集もまた父の死を中心に据え、その余白を花々や風景で埋めた柩としてあるのかもしれない。