現実と記憶をつなぐもの  —岩尾淳子歌集『岸』について—

二〇一四年四月に開かれた第一〇〇回「新首都の会」記念の会で、島田幸典が作成した神楽岡歌会の最近の高点歌に関するレジュメに岩尾淳子作品があった。関西の神楽岡歌会も当時、歌会の開催回数が一〇〇回となっておりそれなら東西の作品の違いを見てみようということで、島田が神楽岡歌会の代表として参加した会だった。

 

 

葦分けて水ゆくように制服の列にましろき紙ゆきわたる

 

 

そのときの神楽岡歌会のレジュメに第九八回の最高点歌として記載されていた作品である。記念の会からすでに三年ほど経っているけれども、この岩尾の歌のことは明確に覚えていた。そして今回、第二歌集『岸』のなかでふたたびこの作品に出会い、三年の時間がぴたっと密着するような不思議な気分になったのである。こんな思い出話を持ち出したのは、それだけこの一首がわたしにとって鮮烈なものだったということの証になると思ったからだ。

 

教職の場面を描いた一首で、場面は教室。目の前には着席した生徒たちがいる、という状況をまず最初に読者のわたしは想像したが、これは教室でなく体育館のようなところで、生徒はみんな立っている、という読みもあるだろう。こちらのほうが「葦」との響きあいが強まる。いずれにしても、生徒が配られた紙から一枚をとって後ろの生徒に残りを渡す様子である。「葦分けて水ゆくように」という比喩が、生徒たちの隙間を順々にとおって紙が運ばれていくさまをこの上もなくよく表している。仕事の最中に、葦の茂った水辺の光景へと誘われてしまっている主体の在り方も面白く印象深いのだが、この歌のもっとも推したいところは学校といういろいろなものが抑制される場の、それでもそこにひしめく学生たちの生き生きとしたエネルギーが籠っている場の、その両者の気配が、作品のなかに満ちていることである。その意味でも「葦分けて水ゆくように」の比喩は見事で動かしがたいものがある。

 

きちんと数えたわけではないが、『岸』には直喩の歌が多い印象を受けた。こうした比喩というものは、どちらかというと現実世界を異化するために用いられることが短歌のなかでは多いのかもしれない。しかし『岸』に現れる直喩は現実異化のための技術的要素というよりも、もう少し体感に沿ったものなのではないかという気がする。

 

 

新しい小児科医院は夕やみにスープのような灯りをこぼす

よろこびの長さのような川はありところどころに橋は休める

 

 

一首目の「スープ」は「コンソメ」だとわたしのなかでは決定しているので、その前提で進めてしまうと小児科医院の灯りの感じがわりあいにうすく広がっていて、そのうっすらと澄んだ灯りの色がスープのイメージにつながったのだろう。もっと厳密にいえば、主体の認識にはまずうすい光があって、次にスープ、次に小児科医院の灯り、だったのではないか、と個人的には感じる。うすい光を認識した時点で、小児科医院の灯りより先に漠然としたスープのイメージが感覚の奥にあり、それを歌にする過程で意識の表面まで吊り上げるようなかたちで一首が生み出されているように感じられる。

 

二首目は「よろこびの長さのような」が特徴的で、かつ難しい。この歌は「岬へ」という、生徒とともに川辺で遊び、川舟に乗る道中を詠んだ一連のなかにある。「よろこびの長さのような川」というのは、「わたがしのような雲」といった直喩と違って、おそらく満場一致の見解が出るものではない。それだからこそ、この比喩には川の水の流れる速度や、水面のきらきらとした光景や、俯瞰したときの遠くへとうねっていく川の全体像や、その水辺で遊んでいる生徒および自身の感情や、そうしたいっさいが含まれ得る。読み手として焦点の絞り切れないところに、より多くのイメージが流れこんでくるのである。

 

 

泣きながら痛がる兵もいただろう神戸市須磨区一の谷町

この家の隅々までを知りつくしぷつんと掃除機うごかずなりぬ

すこやかな靭帯ならん白鷺は肩のちからを抜いて降り立つ

 

 

三首とも他者へと入り込んでいる歌である。一首目には「一一八四年、一の谷の合戦」と詞書がついている。一の谷の合戦は日本史の授業で耳にしたことがある。流血の場面があり、苦しみがあっただろうことも想像がつく。しかし、合戦というと映画やドラマの印象ばかりが強く、私自身の印象はほぼそれしかなかった。いかめしい武者が、いかめしい顔つきで苦しみながら死んでゆくのが、昔の合戦なんだという先入観である。この一首では、一人の他者へ入り込むことによって、そういう先入観に取り込まれることなく歌が成立している。そして、歴史がひとつの無味乾燥な知識としてではなく、一人ひとりの生身の人間がかかわった出来事として現在に立ち現れる。

 

二首目も掃除機という他者に入り込む。掃除機の目になって物事を見ている。ああそうか、家の隅々まで知っていたのは掃除機だったのか、と思わせられる。動かなくなってしまった掃除機への感謝の気持ちが一首全体から漂ってくる歌だ。三首目は白鷺。白鷺にも靭帯があることは分かるが、ここではその靭帯を感じている。着地した際の靭帯への衝撃のようなものが、一首を読み終えたときにずんと来る。

 

 

ぶらんこがしずかな親子をゆらしおり浜につづいてゆく境内に

ほんのりと火星の寄せてくる夕べちりめんじゃこをサラダに降らす

うつしみの夕餉のために街へゆく六時のバスはすぐに来たれり

日本郵便の赤いバイクが見えてくる冬の毛布を干しているとき

 

 

なぜ他者へと入り込めるのか、ということを考えながら『岸』を読んでいるとこうした作品に行き着く。一首目、海の近くの境内にぶらんこがあって、そこに親子がいる。散文化すればなんの変哲もない風景となる。が、こうして岩尾の手によって一首にされたとき、境内のぶらんこから浜までの景色が非常になめらかに展開していく。鋭角な視点のカットが、広角な視点のカットへと切り替わるのではなく、鋭角だった視点がそのカットのまま広角化してゆくように感じられるのだ。次の歌も火星という遥かな天体で1カット、ちりめんじゃことサラダで1カットとなるのではない。火星の遠い時空と、ちりめんじゃことサラダの時空を語るテンションにまったく差がないことも一因であるけれども、両者の距離感がほとんどなく同一平面に置かれている印象を受ける。

 

三首目も独特である。夕餉の材料を買いに外へ出てバス停に行くことと、六時のバスが来ることとの境目がない。街へゆく主体も六時のバスもともにひとつの流れと化しているのである。四首目についても赤いバイクと毛布を干しているわたしとが、別の現象でありながら一体化したもののように存在する。このような背景を主体が持っていることにより、他者への移入も当然のこととなるのではないか。

 

一方で、現実も見方によってはこのようにシームレスなものであるとも思う。ただ、上記四首のようなシームレスさの強度を考えると、むしろ記憶に近いもののような気がしてくる。とはいえ、現実もある個人が認識した瞬間から記憶への変化をはじめるものだと言うことができ、現実と記憶の仲介ポイントとしての主体についても考えさせられる歌群であった。

 

 

灯のともる操車場へと戻り来るバスは静かなバスへ寄りゆく

 

 

『岸』は視点のすぐれた作品が多い歌集だった。なかでも上記の一首は強く印象に残っている。この一首では、バスを把握するときにその大きさや色や新旧の度合いなどに目が向くのではなく、静かなほうかそうではないほうかが基準とされている。これは無機質な物体を見る目というよりも、生き物を見るまなざしであると思う。他にも取り上げたい作品はあったが、いずれも視点の自在さが大きな魅力となっており、じっくりと楽しみながら読み進むことのできた歌集である。