自分の力でただ飛んでいる  —奥村晃作歌集『八十の夏』について—

 

シロクマは白、エゾヒグマの体は黒、パンダは白に黒が混じれり

 

 

短歌のスタイルとして、たいていの場合まずは外堀から埋めていくようなところがある。たとえば「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱」というふうに周りの環境から徐々に核心へ迫っていく、その過程に味わいを含ませる特性を持っていたりする。しかし、奥村作品はのっけから核心に突入していく。「シロクマは白」という初句の強さ。七音しか使っていないこの時点ですでに白(シロ)が二回出てくることも凄い。つづく「エゾヒグマの体は黒」で字余りによる若干のもたつきが起こる。初句の強さによってそのもたつきはよりもたついて見え、さらに初句では「シロクマ」そのものが対象だったのにもかかわらず、「エゾヒグマ」ではその「体」へと対象が移り、若干のテンションダウンを伴っている。からの、「パンダは白に黒が混じれり」での盛り返しである。表面的な歌の見どころはたしかに下句であるかもしれないが、この一首の要となるのはなんといっても「エゾヒグマの体は黒」のもたつきにあるといっても過言ではない。

 

 

目が赤く頭茶色で尻黒く胴灰色のホシハジロ浮く

 

 

こちらも凄い。わたしが凄いと思うのはとりあえず歌の構造である。この歌はいわゆる頭でっかちの状態で、「ホシハジロ」の形容が初句から四句目までつらなるかたちとなっている。オーソドックスな短歌のセオリーから言えば、この構造はほぼほぼうまくいくことがない。ところが、上記作品ではうまくいっていない、と言うことができない。端的に言うとすれば、「過剰」がセオリーを押し切っている。

 

三十一音のほとんどが「ホシハジロ」の色彩の描写で占められており、それ以外の情報はない。その色彩の描写にしても、目から頭、頭から尻、尻から胴と脈絡のない視点移動が行われ、読み手もその都度パッパッと視点を切り替えざるを得なくなる仕組みになっている。つまり、句ごと句ごと歌に接近していくほかになく、歌の構造という俯瞰的な立ち位置を放棄させられるのである。むしろ、最終的に「ホシハジロ」へ収斂されたことへの安堵感さえもたらされる。付け加えれば「頭茶色で尻黒く胴灰色」は助詞抜きであるのに、「目が赤く」だけは助詞が入っている。この辺りの匙加減も歌が単調な印象より過剰な印象を与えてくる要因の一つとなっているだろう。

 

 

てのひらの米粒食いに来る雀次々に来て米粒を食う

杉なれば真っ直ぐに立つ七本の老い杉どれも真っ直ぐに立つ

遡上する鮭を素早く咥えたる羆(ひぐま)に嚙まれ鮭身を震(ふる)う

 

 

こういった作品も良い意味で、どうしたことだろうかと思わずにいられない。一首目、雀を修飾する言葉が「てのひらの米粒食いに来る」であり、そうして修飾された雀の動作が「次々に来て米粒を食う」である。二首目は「真っ直ぐに立」つ杉が「真っ直ぐに立」っている。三首目も接続が面白く「鮭を素早く咥え」た羆に鮭が「嚙まれ」ている。おそらく調べを重視したリフレインという話ではない。「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり 永井陽子」のような風景が音へほどけていく感覚ではなく、風景が風景としての輪郭をより濃くしていく感覚である。瞬間的にビデオを再生して巻き戻してまた再生したような不思議な時空がここにはある。

 

なぜこうした不思議さが生じているのかの理由は、対象に対する、またはそれを作品化するときの目の近さにある。永井陽子の歌に見られる俯瞰的な視野を捨て、より対象、作品に接近している。版画家の棟方志功は版木に顔を押し付けるようにして作品を生み出していたが、これらの作品に見られる奥村の作歌も、実際のところは分からないとしてもそれに近い印象を受ける。一句一句に全力が注ぎこまれるためほかの句は視野の外にあり、結果、このような重複が発生するのではないか。ここでも「三十一文字という短い字数のなかで、(意識的なリフレインを除いて)なるべく言葉の重複は避ける」という一般的セオリーと衝突することとなる。にもかかわらず、一句一句入魂の強さが先ほどと同じようにこのセオリーを押し切っていると言える。もちろん、

 

 

濁流は芥(あくた)を切れ目なく乗せて下り行くなり岸辺に見守(まも)る

 

 

といった俯瞰的なものを俯瞰的に作品化した歌もあって、歌集一冊で見るかぎり対象との距離は自在であることも付け加えておきたい。

 

 

朱塗の筒、銀(しろがね)の部品あまた付くファゴット両手に抱えつつ吹く

餌やるな表示のあれど老人が餌撒きてオナガガモら寄り来る

 

 

これまで挙げた作品からも感じられるかもしれないが、奥村作品はどちらかというと視覚重視のものが多い。一首目もファゴットという木管楽器を詠み込みながら、その音色について一顧だにせずファゴットの外観に意識が集中している。二首目にも鳥の鳴き声や風の音や波立つ水の音は感じられない。

 

もうひとつ、これら二首から垣間見える奥村作品の特異点は「朱塗の筒」や「餌やるな表示」といった大掴みな断定表現である。「朱塗」という文字を目にしてわたしはとっさにお椀が浮かんできてしまい、ファゴットとの不釣り合いの狭間に立たされ、しばらくしてその状況に笑いがこみあげてきた。「餌やるな表示」も剛腕である。「餌をあげないでください」という立て看板は公園などで遭遇するけれども、それを「餌やるな表示」としてしかも読み手にあの看板だと過不足なく伝え得ている。これは対象を描写する方法でありつつ、一方では作者である奥村晃作という歌人をあぶり出している方法でもある。むしろ後者の方法としての機能が大きいのかもしれない。

 

 

メキシコ産ウーパールーパー真っ白の体(たい)で四足(しそく)を漕ぎつつ進む

本物のライオン八頭椅子に坐しムチ持つ男(ヒト)も檻の中に居る

 

 

「メキシコ産」であり、「本物の」であり、こうした部分も「朱塗」や「餌やるな表示」の機能と近いところにあって、対象の描写が裏返りここに目がいく作者であるという作者そのものの描写へ向かっている。

 

 

動くなくただ立ち居りしアオサギが次々と発ち空を巡れり

 

 

個人的にはこの歌などは奥村短歌の真骨頂だと感じるものである。『八十の夏』にはかなりの数のカタカナ表記がある。「アオサギ」も「青鷺」と漢字で書いたり「あおさぎ」というひらがな表記もできるはずだ。あえてカタカナを用いるのは、抒情を抑制し一首の肉となる情報を排除できるからではないか。「青鷺」は青という情報と鷺という情報の組み合わせであり、それぞれの情報が独立した意味を持つ。そしてその独立と独立の余白には派生したイメージが入り込んでくる余地がある。「アオサギ」だとその余白がより少ないものとなってくるはずである。

 

一首の肉をそぎ落とし、あえて骨組だけにすることで作者が手軽に抒情を生み出せないスタイルとなっている。作者が抒情するのではなく風景が抒情する。抒情によって鳥は空を飛ばされるが、この一首の鳥は外部の力によって飛ばされることなく飛んでいる。「自由に」飛んでいるのでもなく、自分の力でただ飛んでいる。

 

『八十の夏』は現代短歌のある種のセオリー対するいくつもの質問がそれとなく埋められている歌集だろう。そういった観点からこの一冊を読むこともできるし、それとは別に一冊、一首一首のエネルギーに触れる直感的な喜びを味わうこともできる歌集である。