内山晶太


中庸の美学  —本川克幸歌集『羅針盤』について—

 

静止する鯨のような雲のあり時間とは見えぬ海かもしれず

 

 

大きなものの核心に触れようとしている歌だ。下句「時間とは見えぬ海かもしれず」に、流れるものではなくたゆたうものとしての時間が捉えられている。いずれにしても時間は目に見えない。茫洋としていて非常にこころもとないものだと思う。だが、この一首には時間を「見えぬ海」としながらも、おおらかにものを見るまなざしが感じられる。大きなものを詠おうとするときに、テンションを支えにしたり、言葉についつい力が入ってしまったりするものだけれども、この歌にはそうした部分がない。大きなものを、おおらかなまなざしで見ている主体のありようがなんとなく伝わってくる。

 

『羅針盤』は第一歌集であるけれども、言うなればじっくりとした大人の第一歌集である。一首一首、地に足をつけて詠んでいく姿勢に派手さはないが、その派手さのなさがむしろこの歌集の価値になっているようにも思われるのだ。

 

 

すっぽりと包まれており鉄塔の影の長さに冬の長さに

歳月が世界を小さくする不思議 うすむらさきのクロッカス見ゆ

 

 

一首目、登場するものは鉄塔の影と冬だけというシンプルな歌である。そこに主体が織り込まれている。「鉄塔の影の長さ」と「冬の長さ」は同じ「長さ」であるけれども、一方は空間的長さでありもう一方は時間的長さとなる。異なるふたつの「長さ」に主体は包まれている。鉄塔の冷たさ、冬の寒さが通奏低音となって一首に陰影を与え、「長さ」の繰り返しが読後に余韻となって残る。平易な言葉の組み合わせによりながら、この歌だけの魅力を生み出すことに成功していると言えるだろう。二首目も言葉自体は平易である。人は歳を重ねていくことで、行動範囲も狭まるだろうし大きな夢も抱かなくなるものだ。それを悲しいことと感じることもできるが、この歌では不思議なことだと感じているのである。若き日には目にもとめなかったであろうクロッカスの花を、今はじっと見つめている。世界が小さくなったことで逆に見えてくるものがあるということ。それを悲しみでも喜びでもなく、不思議なものとするところにこの作品の良さがある。

 

 

空見ゆる部屋で繋げたふたつの手 あたためながらあたためられて

君のいる街が遠くに見えている雪のなか君の街がとおくに

 

 

歌集中にはたくさんの「君」が出てくる。このことは他の歌集にも見られる現象なのかもしれないが、これらの歌には「君」が出てくる歌にしてはしっとりとした雰囲気があってやはり『羅針盤』は大人の歌集なのだということを再認識させられる。一首目は下句「あたためながらあたためられて」のしずかな絡み具合が胸に迫る。ひらがなだけで書かれていることも、ひとつひとつ一瞬一瞬を噛みしめているような趣きを呼んでいる。また、この歌の「部屋」の質感も独特だ。部屋という言葉は、たいていの場合その部屋のなかにある冷蔵庫であったりテレビであったり家具であったりを読者の意識の淵によみがえらせる言葉であるはずなのだけれども、この一首の「部屋」にはそうしたものの存在が微塵もない。「君」と「わたし」と「空」だけがこの部屋の質感を形成しているように見えてくるのである。そこになんともいえない清潔感がただよい、生活圏とは別の次元にある独立した「部屋」を感じる。

 

二首目もしずかな歌。感情の強さが、むしろ「君のいる街」をまぼろしへと変化させている。ひとりを思う気持ちが、そのひとりを、そのひとりがいる街ごと遠のかせていくような逆説がこの一首の核になっているのだろう。

 

 

距離、時間、速力、体温、心拍数 助けられないから助けたい

陸岸のかたちを指でなぞるとき仄あたたかきレーダー画面

 

 

歌集の後半にあって印象に刻まれた二首。一冊を読むと作者は海上保安の仕事をしていることが読み取れるのだが、一首目は「助けられないから助けたい」にすべてがこもっている。それ以上の鑑賞の言葉は不要だろう。次の歌も実感がダイレクトに届く。レーダー画面のあたたかさ、は言葉上だけの発見ではなく実感のこもった発見だったはずである。

 

 

縄ばしご降りて来ぬかと見上げてもつーんと天空まで何もなし

 

 

『羅針盤』は「君」や上にあげた職業詠がおおきなテーマとして据えられた一冊である。そうではあるけれども、大テーマから離れた小品的な作品にもたびたび立ち止まった。晴天に縄ばしごを思う歌。空から垂れる縄ばしごというと、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を少し連想したり、現世からの脱出のようなニュアンスが醸し出されてくる。しかし現実には縄ばしごは降りてこない。ただ空があるだけだ。歌のながれからすれば、ここは空しさのほうへぐっと引力が発生するところである。が、そちらへは引き寄せられない。「つーん」というオノマトペがどちらかといえば飄々とした味わいを一首にそえていく。晴天を見上げたときの、なにか意識が絞られていくような感じもこの「つーん」にはよく出ている。

 

短歌は、どちらか一方へ振り切れていけば振り切れていくだけパワーを増すものである。しかしそこで振り切れずにいること。パワーがある歌にだけ価値があるのではない。本川作品を読んでいると、そのあたりの「中庸の美学」を感じずにはいられない。そしておそらく、この美学が作者の資質にとてもフィットしている。

 

 

雪の夜に眼(まなこ)ひらきて並びおり池のかたえの白鳥ボート

枯れている時間のほうが長い葉のさらさら落ちてゆく音のなか

帽子箱ひとつくらいの陽だまりを鳩がよぎりてまた元どおり

冬枯れの木々を抜ければふと戻る意識のごとく湖が見ゆ

 

 

一首目、「白鳥ボート」は観光地の湖などにある白鳥をかたどったボートのことだろう。そのボートの眼は寒さのなかでも閉じられることなく、池のかたわらに並んでいる。白鳥ボートの芯までの冷えがこの歌には宿っている。眼が閉じられることがない、ということと白鳥ボートの冷えとは事象としてまったく関連性はないはずなのだけれども、一首のなかでは「眼(まなこ)ひらきて」によって、白鳥ボートの冷えがぐっと立体化してくる。二首目は「枯れている時間のほうが長い」の把握が的確なだけではなく、それを見つめるまなざしがプレーンでやさしい。枯葉に感情を移入しないことは、要は枯葉を支配していないということなのだ。そこにあるのはただただ、枯葉と「わたし」との対等といってもよいくらいの一対一の関係である。

 

三首目、陽だまりの大きさを言うのに「帽子箱」を尺度にする面白さ。結句「また元どおり」にも肩のちからが抜けてすーっと歌がたたずんでいる気持ちよさがある。四首目は硬質な感触を持ちながら「ふと戻る意識のごとく」という直喩が揺らぐようなやわらかさを得ている。いずれの歌もこれといって目立った部分はないが、一首の全体性が見せてくれる味わいがとても印象深い。

 

本川克幸歌集『羅針盤』は、やはり大人の第一歌集であり、「中庸の美学」がいたるところで発揮されている一冊である。こうした作品の「読み手」がこれからどれだけ増減するのか、は短歌にとって密かで大きな問題になっていくだろうし、個人的にはこのような歌を大切に読み、味わっていきたい、とつよく思った。