手仕事としての詩歌制作―活版印刷をめぐって

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 古本に惹かれる理由に、活版印刷の味わいも含まれているのではないか。学生の頃はまだ一般書も活版で刷られていたように思うが、今では詩歌集を除けばほとんど見かけなくなった。(漫画雑誌は貴重な例外の一つだ。)読書に没頭すると、飴玉でもしゃぶるように、紙の表面を撫でる癖がある。つるりとしたものより、軽くざらつきのある紙質のほうが心地よい。指先が浅い凹凸を感知する。文字に触れたという確かな実感。紙面の指を滑らせると行間を措いて、触感もリズミカルに変化する。言葉がマテリアルな、実体をもったモノとして、そこにあるのが分かる。それと同時に、その本のかけがえのなさを思って、怖ろしくもなる。版下、活字、文選や植字にかかわる技術。数々の手間を経てようやく形を得た本の有限性が、ありありと了解される。

 
 パソコンで文章を書き、原稿を電子データとしてやりとりすることが当たり前になったこんにち、「本」はかつてのような有限性から解放されたように思われる。言葉が「モノ」でなくなることで、つまり「情報」として純化されることで、新しい機会がもたらされた。言葉はやすやすと一回性の制約を克服するとともに、単に技術面だけでなく、表現の点でも可能性は拡大した。この連載だって、言葉の脱モノ化のおかげを被っている。喪われたものを嘆いていたら罰が当たる、か。それでも言葉のモノ性について、ちょっとだけ考えてみたいのである。

 

 文芸誌の「群像」がオフセット印刷に切りかわるという。活版最後の今年十二月号の特集は「活版印刷の記憶」。市川真人による印刷工場その他の訪問記がおもしろい(*1)。

 

 「文字のエッジが食い込むぶん、活版印刷にはオフセットにはないインパクトがあるんです。」印刷工場の品質責任者の言葉だ。紙に版を押しつけて印刷する活版には独特の力感と主張がある、ということはある装幀家からも聞いたことがある。その人は文字数の少ない詩歌にこそこの「力」が必要になる、とも言っていた。

 

 市川によれば、インクが紙面に文字を記さない空白部分にも「活字」は必要なのだという。印刷されない部分にも「クワタ」のような込め物が、活字とともに組まれるからだ。詩歌にとって沈黙は発語と同じ重みをもつ。文字を記さぬという選択にも、文字を記すに匹敵するほどの意思と計算が要る。欠落にも充足と同等の手間をかける活版印刷は、詩歌の生理となんと相性のよいことか。活字だって、もとはと言えば人が彫りあげて作ったものだ。今は閉鎖されたフランス国立印刷所の作業風景を捉えた、港千尋の写真を見たことがある。タイトなスカートを穿いた女性彫刻師が、前屈みになって活字の母型を作成しているモノクロ写真だった(*2)。菊地信義が言うとおり、活版印刷は人の手と力を経て進む「物理的な」工程の賜物なのだろう。

 

 思えば彫心鏤骨というとおり、詩歌の制作も手作業によく似ている。言葉を削り、組み、取りかえ、思うようにならねば、バらして組みなおす。そのような「物理的な」操作のさなかに、新たな詩想に出会い、あるいは的確な言葉に辿りつく。そういう意味で工芸における手仕事にも似た作業が、作歌には欠かせない。詩歌を「情報」に還元することへのかすかな違和感は、私の指の記憶が消されてしまうような気がするからではないか。詩歌と活版印刷の親和性も、言葉の物質性や身体性と関わりがあるように思う。

 

 

 

(*1)「活版印刷の終着駅を前に―凸版印刷川口工場・印刷博物館・菊地信義事務所」
(*2)「活字の娘」『たまや』第四号、二〇〇八年五月。