島田 幸典


「冗語」の働き―玉城徹の所論からの連想

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 かつて玉城徹は「短歌における冗語という問題」を提起したことがある。助詞や助動詞は一首に歌らしい「おちつき」や「ふぜい」といった「気分」の側面で〈うた〉になにがしかを加える。近代短歌はこのような助詞・助動詞の働きを削ぎおとす方向で進んだが、同時にたえず冗語への回帰を促す力とのあいだで動揺してきた(*1)。

 
 短詩型という文芸が、言わば「無用の用」とでも呼ぶべき効用を滋養としながら、散文とは異なる表現技術を洗練させてきたことは、この雑文でも縷々触れてきた。子規は助辞の追放からその革新プログラムを開始したが、晩年に到ってむしろ「和歌の俳句化」から離れ、助辞を活かしつつ、時間に即した意識の流れを一首に投影させる途を模索した(「問いとしての写生」)。玉城が指摘するとおり、戦後短歌においても助辞の排除への志向性は顕著に見られた。近藤芳美はその一典型である。「葬式自動車の如き余剰装飾を最も嫌悪」し、「洗ひ去つたはてに本当の美しさがある」と信じ、「定型詩を、結局は詩の一隅における約束型式だと考へ」て、「定型詩を必要以上に意味づけてはならぬ」と論じた敗戦直後の時期の近藤が、簡潔明瞭な文体に「新しき短歌」の然るべき佇まいを求めたことは当然の選択であった(*2)。他方、後年の近藤短歌が、受難者が身を捩(よじ)るかのような佶屈な調べをつうじて、悲歎と懊悩を含んだ思惟を形象化しようとしたことを我々は知っている(*3)。それは、近藤なりに助辞の機能を酷使したすえの所産であった。

 
 今日「短歌の口語化」は既成の事実として語られることが多い。だが、それがただ単に口語作品の「量的」増加を意味するにすぎないのであれば、用いられる言葉の変化が作品の豊穣をどのようにもたらすのか、依然として未解明であると言わざるをえない。口語化が開いた可能性から韻文表現の再生のための契機を見出すために、実作と批評両面からの検証が今後いっそう求められるであろう。勿論、この課題は、文語に拠る作者にとっても―旧套墨守以上のものを目指すのであれば―無縁ではない。むしろ、自明であったものがそうではなくなった今こそ、その意味と価値について問いなおす好機ではあるまいか。

  韻文表現の効果について、一個の基点から一本の線をすっと引くように明快に論じることは難しい。むしろ細部に注意し、裏道や枝道があればあえて踏みこみながら、逆説を一つずつ解きほぐす慎重さや迂遠さが欠かせない。

 
 辺辺記を閉じるにあたって、最近目に留めた作品についてささやかな鑑賞を試みたい。

  

トランジスカンチア・アルビフローラ・アルボビッタータ呟けば小さき祈りの如し

高安国世『虚像の鳩』(*4)

 

  この一首の上句は言わば虚辞である。何となく植物の学名ではないかとあたりをつけることはできるが、それが具体的にどのような植物なのか、すぐさま答えられる読者は(私を含めて)そう多くはないのではないか。しかし、一首を鑑賞するうえではそれで十分なのである。植物学者がある植物について、他との違いを突きつめ、それ固有の特性を何とか明らかにしようとする、そしてその発見のために、名を与えようとする。そのようなとり組みは真を求める気持ち、あるいは信仰にも似た―信仰そのものではない。「小さな」と断っていることには意味がある―思いに根ざすものである。このとき上句の意味内容は限りなくゼロに近い。しかしその弾むような、時には息せき切って言葉を継ぐような響きのなかに切迫した真理への憧れと、下句の深々とした作者の地声のなかにそのような思いへの共感という〈実〉がたしかに詠いとめられている。ここで玉城が言う〈冗語〉を拡大的に解釈し、作品における〈虚〉の部分の機能という観点で読みかえるなら、掲出歌の場合〈虚〉が〈実〉へと鮮やかに転換するだけでなく、〈虚〉が〈実〉に明確な輪郭と深度を与えている。ここにも短歌の逆説の一端を垣間見ることができる(*5)。

  

できないとなんどいってもわたされるナイフのような鬱がきざせり

江戸雪『駒鳥(ロビン)』(*6)

 

  短歌の口語化には、純粋口語作品の増加だけでなく、口語・文語混用の常套化という現象も含まれている。右の作品は後者の一例であり、叙述の本体部分「鬱がきざせり」は文語、それにたいして序詞のように修飾部として被さる四句までが口語表現をとっている。私はこの現象について、口語化への控えめな順応としてみるのではなく、「冗語」のヴァリエーションの積極的拡張という観点で理解できないかと考えている。元来、もっぱら文語の助詞あるいは助動詞が担ってきた情感やニュアンスの添加という機能を、口語センテンスの導入によって補強しているものと捉えてみたいのである。

 
 口語という〈意匠〉は、第一に同時代性というコンテキストに一首を据える作家の意思を明らかにし、第二に発話内容の直接性・無操作性(という見かけ)、つまり主体の言葉や体験が直(じか)に伝達されるような感触を作品に与える。掲出歌の場合、閉塞感が殺意に直結した近年の幾つかの事件を連想させる点で前者の、またまるで悪い夢でも見ているかのような主体の強迫感を伝達する点で後者の効果が発揮されているように思われる。そしてこのような口語の働きは一首に独特の〈気分〉をもたらすために、冗語の機能にきわめて近しい。

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 前世紀以来、短歌は抒情にも増して、認識の器たることを要請されてきたし、時代が突きつける困難さが増せばそのぶん、批評知の果たすべき役割はいっそう大きくなることだろう。主題や意味、メッセージが、今後とも創作と解釈にとって注意すべき要素であることに変わりはない。だが、短歌にはその詩型固有の伝達の作法がある。それは表面的な意味の授受とは別の次元で、すなわち狭義の修辞や韻律、文体や編集をつうじて、さらに印刷技術や各種メディアのような言語外的インフラとも深く関わりながら、その表現の可能性を拡大させ、あるいは緻密化してきた。だからこそ短歌を読むさいには、〈事柄〉そのものとともに、それを伝える手つきや置かれる場にも注意がなされなければならない。

 
 周辺的に見えるところが、案外に中心に繋がっているところに短歌を論じる難しさと、それゆえの楽しさがあるように思われるのである。〔了〕

 

 

 

(*1)玉城徹「近代の濾過」『近代短歌の様式』短歌新聞社、一九七四年。
(*2)近藤芳美『新しき短歌の規定』十字屋書店、一九五二年。引用は「新しき短歌の規定」(一九四七年)、「過剰表現の歌」(四八年)、「歌壇の生態と定型」(同)に拠る。
(*3)助詞の使われ方に着目して近藤作品の文体の特性に迫った試みとして、例えば島田修三「をにの文体―『黒豹』の文体について」『短歌』(角川書店)、第五三巻第七号(二〇〇六年六月)。
(*4)白玉書房、一九六八年。
(*5)引用歌に先行して「メキシコ産つゆくさの学名も読みて行く学名は学のよろこびのごと」がある。ここから引用歌に籠めた高安の真意は明らかであろう。しかし、「トランジスカンチア」の一首は、それだけで十分な独立性を備えているように思われる。
(*6)砂子屋書房、二〇〇九年。