文フリ・文化祭・批評会・あばな

2024年12月1日(日)

文学フリマ東京39を見に行く。文学限定の同人誌即売会である。年に2回だからもう20年も開催されている計算になる。単に回を重ねるだけではなく出店者も来場者も増やし、今回からは東京ビッグサイトで開催するのだという。今までの東京流通センターに比べて乗り換えが楽になってありがたい。
出店している友人と待ち合わせて飲んで帰る約束をしているので、お昼を食べてから家を出、14時半ごろ駅に到着。帰る人波に逆流して歩く。

短歌エリアは特に活気があると聞いていたが、確かにこの時間でもたいへんな混雑。通路が狭いのでまともに歩けない。知った顔に挨拶をしながらキョロキョロと3周ほど回って、学生短歌会の機関誌を中心に14~15冊を購入した。

千葉大学の「千大短歌」が1号、
日本大学芸術学部文芸学科の「日藝短歌」と東京理科大学「理科大短歌」が2号、
上智大学の「上智詩歌」が3号、
筑波大学の「つくば集」が4号、
東京大学の「東京大学Q短歌会」が7号、
そして京都大学の「京大短歌」が30号。

主力の卒業という宿命を背負う学生短歌会のなかにあって「京大短歌」30号が異彩を放つ。私が「まひる野」に入会したのが31年前の20歳の頃なので、同世代が始めた同人誌を子どもの世代が続けているということになる。気が遠くなる。巻末の寄稿者一覧に見るOPの豊かさよ。

30号の記念座談会に大森静佳さんと吉川宏志さんが参加されていて、ここしばらく気になっている「下二句の句またがり」の多用についてお話しされていたので食い入るように読んだ。
現役の早瀬はづきさんが「(七七を音読するときには)最初に区切って、二回目で意味の切れ目にあわせてフラットに読むようにしています」と発言し、大森さんもそれと同様の発言をしているのに対し、吉川さんは「五七五七七で切るときに身体性が生まれるんですよ」「オーソドックスな文体の歌も大事だと思います」と発言されていて、私の感覚は吉川さんに近いな、と思う。

私には多くの下句の句またがりは4句字余りの結句字足らずに思えるのだった。結句の欠落はたとえば山崎方代なども多用していて、意識的な表現技法に成りうるだろう。あるいは口語中心であったり述懐や呼びかけの文体なども関係しているのかもしれない。10年後20年後この流行がどのように位置づけられるのだろうと気になっている。

作品では「日藝短歌」がとてもいいと思った。全員いいと思ったが、5首だけ引用する。

  • カーテンの隙間から朝が染み込んで部屋を侵食し始めている  /坂本佳樹
  • 影を追う 肺の全部を海にして 温度と揺れに慣れていくだけ /ひび
  • 北極星 それからこぐまの星座線 躰はここにあるとおしえて /桃瀬糸
  • からだごと数多の笑窪におおわれてかわいい子供と間違われたい /志久
  • 三次会からは二手に別れ連絡は取れなくなっててもバースディ /平出奔

尚、文学フリマ東京39の最終的な来場者は過去最高、14967名だったという。

2024年12月7日(土)

現代歌人協会のオンラインイベント「短歌の文化祭」が、SNSのひとつX(旧Twitter)の音声共有機能「スペース」を利用して開催された。
企画立案運営は千葉聡さん。千葉さん自身はずっと温めてきた企画だと言うが、現代歌人協会理事会で開催を提案されたのは1か月ちょっと前、何が起こるのか出演者もよく分からないまま当日になった。
朗読・テーマトーク・短歌なんでも相談所・短歌の文化祭大賞(2首連作)と一日かけてのイベントで、私は「短歌の文化祭大賞」の選考に当たらせてもらった。

「短歌の文化祭大賞」は、当日の9時から15時の間にX(旧Twitter)にハッシュタグ付きで投稿された作品の中から即日大賞と選者賞を、それも公開で選考するという企画だ。
私としては100組くらい投稿があればいいな、という気持ちで引き受けたところ400組を超す投稿があり、まことに有難いながら時間と戦いながらの選考になったのだった。

大賞と選者賞は今後編みなおして発表の機会があるということなので引用はしないが、まずこの400という数字はそれだけで成功と言っていいのではないだろうか。スペースのリスナーもそれに応じていたわけで、それはちょっとした短歌結社くらいの人数である。オンラインだからの気軽さもあるだろうが、400人を集めるシンポジウムや歌集批評会を想像してみるとSNSと短歌の親和性を改めて感じる。

とはいえ、日々X(旧Twitter)の上部に表示される他ジャンルのスペースでは千人のリスナーというものも頻繁で、そもそも短歌のパイ自体は依然決して大きくはない。それでいいのではないかと思う。
読者論やAIとの関わり方とも繋がってくるかもしれないが、作品と作者のどちらが主体かといえば、私は作者とする側に寄る。歌人とは生き方である。AIがどんなに良い作品を作ったとしても短歌を最も必要とするのは作者自身であるから特段脅威とは思わないし、自分が作ることにこそ意味があると思っている。

今回の「短歌の文化祭」は実のところとても面白かった。できれば、朗読がしてみたかった。文士劇というものがあるが、歌人同士でそういう朗読劇のようなことが出来たら楽しそうだなと思う。それは短歌を作ることと同様に、そこにどんな意味や価値や成果があるかではなく、単にやってみたいという好奇心からである。

 

2024年12月15日(日)

愛知県の実家に帰省して結社の後輩の歌集批評会のパネルの司会をしてきた。
実は前日には静岡県で他結社主催の歌集批評会があり、2日続けての批評会だった。
今回は2つとも所属結社が中心となった会だった。参加者も過半数は結社内。

会の前半は結社外の歌人を招いてのパネルディスカッション。後半は参加者による会場発言で、終盤に版元の挨拶があり、最後に著者と一番かかわりの深い師匠筋の歌人が会を締める。そして花束贈呈と著者のあいさつ。
歌集の出版記念会はほかに、食事をしながらお招きした大御所からお祝いの言葉をいただく披露宴形式や、結社内でその年に出た何冊かの歌集を同時に批評する合同批評会、あるいは10名程度の少人数でそれぞれ5首選や10首選を持ち寄り読み合う読書会など色々あるが、クローズの会は表に出ないので、一般的な批評会と言えば前述のような形式となるだろう。

もちろんパネリストの発言が会の主幹なのだが、意外と記憶に残るのが、版元の話す出版時のエピソードと師匠筋の話す著者の人物像である。歌集も著者もひとつとして同じではない物語を持っていて、それを聞くとぐっと身近に感じ、愛しさが増すのだった。

短歌結社というのは、文学活動であると同時に教育機関の側面を持つ。それは人間的な繋がりだから、歌集批評会と言いつつも最終的には作者の人柄、そして所属グループの目指す短歌観に話は及んでいくのは自然な流れだろう。特にそれが相対的な若手の第一歌集の批評会だったりすると、だんだん著者の遠い親戚になったかのような気持ちになってくる。結社、悪くないよなあ、と思う。

余談だが土曜日に掛川駅で買ったメロンパンがとてもおいしかった。次の王将戦で「おやつ」として選ばれるのではないかと地元の人(「短歌の文化祭大賞」に投稿してくれた人だった!)が期待を語ってくれて、私まで楽しみになってしまう。柚子の香りのついたお茶もおいしかったが実家に置いて帰ってしまった。

 

2024年12月29日(日)

2020年に亡くなった岡井隆が若い仲間と行っていた歌会「首都の会」(現・新首都の会)が岡井さんの遺歌集『あばな』を読む会をするというので行ってきた。
京都では神楽岡歌会、名古屋では東桜歌会と、カルチャーで訪れる機会を使って岡井さんは超結社の歌会を持っていた。首都の会はその東京版であるらしい。

広く声をかけている様子に見えたのだが参加してみたら日頃「新・首都の会」に参加している人ばかりのようで、20年以上前に数年東桜に参加していただけの私はやや恐縮してしまうけれど、こういう時にはなるべく大きな顔をして楽しむほうがお互いに気持ちが良いことを経験上知っているのでしっかり二次会まで参加して帰ってきた。ちなみにパネリストは大井学(かりん)、吉田恭大(塔)、田中槐(未来)、司会は岡崎裕美子(未来)。

論点はいくつもあったが、なにより祖父と孫ほど、あるいはそれ以上に年齢差のある歌人の歌を、「岡井さんらしい」「話し方まで浮かんでくる」「ここに及んでこういうことをやってくる」などと語るパネリストたちの親し気な口調に岡井さんの魅力を改めて感じ、参加者それぞれの心の喪失を埋め合わせるような温かないい会だった。

死といふはあんな翼を持つのかも知れぬ蒼ざめて空を飛んでる
死後的な付き合ひもあると死者きみは灰いろグレイてのひらをひろげて言つた
               ※ 岡井隆『あばな』P19・P51

1首目、3句から4句へは意味としては「持つのかも知れぬ」がひとまとまりの句またがりだが、読むときは句の切れ目により「持つのかも」と「知れぬ」の間に一瞬呼吸が入り「知れぬ蒼ざめて」でひとまとまりのように進んでいく。そのぐんと上昇するような勢いが「空を飛んでる」という何気なくも見える結句へと繋がって、死を観念的にうたいながらそこにはある種の爽快感が表れる。
なにより「知れぬ蒼ざめて」の8音が理屈抜きでとにかくかっこいい。

2首目、歌意としては追悼文や回顧などもあり誰かの死はそれまでの関係を一切断つというわけではない。というようなことだろう。問題は「灰いろ」に「グレイ」とルビを振り、また「掌」に「てのひら」とルビを振ったことである。「はひいろのてを」とすれば意味をほぼ変えず定型となるが、どう考えても「ぐれいのてのひらを」9音のほうがかっこいい。

やはり4句はきっちり音数を数え余りを5句まわしにするよりちょっと捻りがあるほうが、良いように思う。

 

2025年1月1日(水)

あけましておめでとうございます。

ご挨拶が遅れましたが、2025年度の月のコラムを担当いたします富田睦子と申します。所属結社は「まひる野」、愛知県出身東京都在住の団塊ジュニア世代です。現代歌人協会では公開講座を担当しています。

読みやすく、楽しく、そして、できればちょっとした酒の肴として話題にしていただけるものが提供できたらと思っています。
気楽に読んでいただければ幸いです。

どうぞ1年間よろしくお願いいたします。           富田睦子