今月の8冊
『菱川善夫全歌集』
助川とし子『菩提樹のアルト』
岩切久美子『湖西線』
山本司『揺れいる地軸』
南鏡子『山雨』
品田悦一『斎藤茂吉 異形の短歌』
佐々木健一『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』
佐々木幹郎『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』
『菱川善夫歌集』
菱川善夫が短歌を作っていたとは! まず驚いた。18歳で作り始めた。以後長い中断があり(中断といっても思い出したように……15年に1回くらいのペースで……作っていたが)2007年(78歳で亡くなった年である)に76首を詠んだ。
夫人の菱川和子が「あとがき」で次のように書いている。
「二〇〇七年十一月、パリは落葉が舞い、しっとりとした風情の美しい晩秋であった。夫は、出発をためらう私に自分も同行したいからと、決行を促し、パリに滞在中のことである。
ある日ひとりで外出し、帰ってきた私に夫は、
『歌を作ったんだ』と。
初めて耳にする言葉であった。それまでに夫は自作の歌を私に見せることもなく、それに触れて言うこともなかった。テーブルに置かれた小さなメモ帳に歌が何首か書かれていた。私はそのメモ帳をちらと見て『あら、いい歌ね』とだけ言って、遅れてしまった夕食の支度に取り掛かった。
もっと『作った』という歌に寄り添って夫の気持ちを汲むべきであったのに。」
批評とは口先だけのことではない。破れし五体に火を焚くことだ
われと来て遊べやチイのない小鳥鳥言葉鳥に習ひて楽しも
文豪論書かばや我も文豪のはしくれとして生きんとあらば
「フランス滞在歌稿」から3首挙げてみた。夫人に見せたメモ帳に書かれていたかどうかはわからないが、力強い述志の歌である。死病を抱え、1か月後に死を迎えた人の歌とは思えないエネルギーに充ち溢れている。
ただし、1首目には「さて、この様態でフランスへ行くというのか。」、2首目には「二〇〇七年十一月十六日 パリで朝を迎える」と詞書があり、不安を隠しきれていない。本音は詞書に出ているようだ。
横隔膜の奥に輝く星空の大合唱を聞くべくなりぬ
塚本に入退院の歌なきを我は尊ぶいまさらにして
撃つものは撃たれもしよう負わせたる痛みは己が身にこそ負わめ
抵抗の熱なく誰も屈伏の砂の明るいけだるさにいる
道標は風にゆらげり男一人歩みゆく辺の草露の中
この5首は「病院入院雑記」「退院後」と題された一連にあるもので、2007年の入退院時に詠まれたものである。失意と諦め、不安と自尊といった本音が屹立した表現により語られている。
18歳で「新墾」に入会、本格的に短歌を読み始め、以後「潮音」にも属した(中城ふみ子と同じコース)菱川がなぜ短歌実作を離れ、評論に専心したのか?
三枝昴之が「解題」で3つの理由をあげている。「短歌研究」新人評論の入選、同人誌「涯」の終刊そして塚本邦雄の活躍である。
確かに、それらも理由と言えるだろう。だが、評論に力を入れても、実作を止める必要はなかったように思う。18歳から24歳まで、つまり実作中断までの作品を並べてみた。この7首を見る限り、実作に行き詰まってゆく過程が、多少なりとも見えてきはしないだろうか。旧習に飽き足らなくなり、新しさを求める中で、新しい素材を取り入れ、表現を美化してゆくうちに定型に収まりきらなくなり、定型が窮屈にしか思えなくなってしまった、そんな格闘と葛藤が感じ取れる。
もう少し穿った見方をすれば、塚本邦雄にはとうてい敵わない自分の才能に気が付いてしまったのではないか? もしは歴史に禁じ手であるが、菱川が実作を続け、評論に用いたエネルギーを実作に傾けていたら、短歌史の流れが変わっていたことだけは確かだ。
校庭の夕づく光はすに受け盤投げてゐるユニホーム三人 18歳
ネッカチーフそのあくどさを誇るがに駅の車道を女闊歩す 19歳
ジープぴつたり若葉並木に停止して街はブギウギはずむOK 20歳
秋の明るさが落葉と共に吹かれ行くいちやう並木を濶歩する女 21歳
花びらの水に沈んで行く如き恋の結末のある映画そこのみが美し 22歳
無制限にあなたの過去を許した僕が又しても沈淪する夜の暗さ 23歳
重い鞄を提げてゐる腕が地に落ちてくらやみの上の無限に高い空 24歳
助川とし子の『菩提樹のアルト』
不思議なタイトルに惹かれて読み始めた。
助川は福島県郡山市に住み、「短歌人」に所属している。これが第1歌集。読みながら思ったことは「固有名詞が多い」。1冊の歌集の中にいったい幾つの地名・人名・店の名前・商品名といった固有名詞が出て来るのだろう?
ふるさとのホームに佇てば片曽根山のみどり香れる風吹き通る
菩提樹のアルトのパートはわれひとり バスの重量に吸ひ込まれさう
切れ味の良き庖丁を作りたる岡部鍛冶屋も店を閉ぢたり
カレンダーと大感謝祭のチラシ持ちスズキ電機の社長来たれり
「丁寧に寡黙にゆつたり真つすぐに」短歌講座の小池光氏
ときわ荘、大方病院、こぶし荘老いて病む人見舞ひてきたり
1首目は巻頭の歌。「片曽根山」には「かたそね」とルビが振ってある。さっそく固有名詞の登場だ。片曽根山は福島県の田村市にある山で、標高は719メートルと決して高くはないものの、山容の美しさから「田村富士」と呼ばれている。作者の原風景が見えてくる、巻頭にふさわしい歌だと思う。「かたそね」の音の響きも、いい。
2首目はタイトルの由来となった歌。歌集の初めの方にある。菩提樹はシューベルト作曲の歌曲集「冬の旅」の第5曲。コーラスグループに所属している。「菩提樹」を歌うのだから由緒正しきグループなのだろう。たった一人で低音域のアルトを担当している女性、わたしには作者像がなんとなく見えてくる。花形になることを好まず縁の下の力持ち。
3首目は固有名詞で読ませる歌といっていいだろう。「岡部」という程よい普通さがいい。メジャー過ぎず、マイナー過ぎずの姓。しかも「鍛冶屋」との相性がいい。「岡部鍛冶屋」の字面の硬さも好ましいし、「おかべかじや」のきっぱりとした音にも惹かれる。店を閉じたのは何故だろう? そのことは歌とは直接関係ないが、震災と関係があるのだろうか?
4首目は「スズキ」という苗字の普通さが生きている。12月の慌ただしさが何処にでもいそうな「スズキ電機の社長」の行動によく表れている。あなたもわたしも12月は「スズキ電機の社長」なのだ。5首目の「小池光氏」の言葉を忠実に作者は守っている。寡黙でいる分を、固有名詞に語らせている。
6首目、「ときわ荘」はアパート、「こぶし荘」は老人施設をイメージした。「大方病院」も含めて、この歌で使われている固有名詞は物悲しい。いや、正確に言えば、「見舞ひてきたり」があるから物悲しく感じるわけだが、アパートや施設がカタカナの洒落た名前だったり、病院が大学病院だったりすると、この物悲しさは出なかった気がする。
浅田次郎の『きんぴか』読みつつ声あげて笑つてしまう一人の午後を
アンコールに応へフジコの弾きたるはカンパネラなり娘は歓喜せり
朝市の野菜あれこれ求めつつ方言自在の私がゐる
銀行の防犯カメラに凝視され片頬あつく札数へをり
われの目の高さに飛び交う鳥たちよ たつた四人の歌会の窓
昼休みらしき鳶職の四、五人がダボダボダボとわが前をゆく
歌に馴染み、歌を引き立てている固有名詞。事実にのっとっているのだろうが、取捨選択のセンスのよさを感じる。だが、明らかな失敗作もある。固有名詞に倚りかかり過ぎて、固有名詞以外の言葉が安易に流れてしまうのだ。1首目は『きんぴか』の何がそんなに可笑しいのか、そこまで歌って欲しかったと思う。言い換えれば、この歌に固有名詞は要らなかったのではないか。固有名詞を使わんがために肝心な部分を歌い損ねているようだ。固有名詞は情報の固まりであるだけに、歌を報告的にする性質がある。その例が2首目。読者が本当に読みたいのは、何が娘を歓喜させたのかではないだろうか。固有名詞があるために表面的に事実を撫でただけの歌になってしまった。
3首目から6首目まで、固有名詞を使っていない歌から、いいと思う歌を挙げた。どの歌も作者が生き生きとしている。そして郷土色が豊かだったり、実感がこもっていたり、ユーモラスな表現だったりする。
岩切久美子の『湖西線』
「塔」に所属する岩切の第2歌集は、日常生活と身の回りの自然を、さり気なく、ときにユーモラスに表現していて、読んでいて気持ちのいい1冊だ。住んでいる土地を大切に歌っているのも好ましい。
「あとがき」で岩切は次のように書いている。
「歌集名となっている『湖西線』と言うのは京都駅を出て近江塩津駅までの間の線です。大津京から西に比叡、比良の山脈を見上げ、東はほぼ全線にわたって琵琶湖の湖面を眺めることができる風光明媚な路線です。」
湖西線に乗りかえしより秋は濃し駅名を呼ぶ声も透りて
風呂敷包みぽんと置きたる形して竹生島見ゆ六月の湖
死ぬまでに何回書くだろう琵琶とう字今日の琵琶湖は十三夜月
ようやくに秋思わする風の吹き鶏が顔出す破れ木戸より
宿泊の予約受けいる山のホテル受話器の向うに時鳥鳴く
1首目、湖西線の駅名を見ると、それだけで私は嬉しくなってしまう。京都、山科、大津京、唐崎、比叡山坂本、おごと温泉、堅田、小野、和邇、蓬莱、志賀、比良、近江舞子、北小松、近江高島、安曇川、新旭、近江今津、近江中庄、マキノ、永原そして近江塩津。どの駅で作者は降りるのだろうか? できるだけ長く湖西線に揺られていたいことだろう。
2首目、竹生島は琵琶湖に浮かぶ島。6月は木々の緑も濃くなっているだろうから、唐草模様の風呂敷がイメージできる。こんもりとした部分があり、凹んだ部分がある島の形が、まさに「ぽんと置きたる」という表現にふさわしい。
琵琶湖畔に住む作者ならではの感慨のこもった3首目。上句から下句への展開が軽やかでありつつ、余韻を醸し出している。4首目は夏バテ気味だった鶏も涼しくなって活動を再開したのだろう。上句の穏やかな展開が下句になって意外な展開を見せる。
5首目、第3句の字余りが気になるが、よくできた歌だと思う。歌の主要な舞台を電話の向うの山のホテルにした作り方がお洒落だ。もし「われが電話の向うの時鳥の鳴き声を聞いている」という文脈にすると説明になってしまうと思う。
十四階の高みに住めばふわふわと雪は下から降り来るばかり
ホワイトデーとなりたるわが誕生日この日は浅野内匠頭切腹の日ぞ
夢に来し人は桜の下に立ちきみ小さいねと言いて笑えり
夕焼けを好みし人なりベランダのその後姿を見ていたわたし
アラビア糊少しつきたる指先をもてあますごとき晩年となるか
生老病死をテーマとして、ときには寂しい歌もあるが、全体的に明るくて、読んでいて滅入ることはない。定型を大きくはみ出す字余りもあり、その自在さが明朗な歌いっぷりにつながっているのだろう。
山本司の『揺れいる地軸』
どう評価していいのか迷っている。非常に評価しずらい歌集だ。
東日本大震災の被災者と被災地を詠んだ歌だけで構成されている。ただし作者は北海道に住んでいて、多くは報道をもとに作られている。
詩としての象徴や美化を表立てずに記録に徹したところ、一冊すべてを震災関連の歌で組み上げた試み、この二点は評価していいと思う。
首都圏の交通網の停止せり溢れし長蛇の人列映る
逃げ遅れし人や車の流さるる映像の津波われをも襲う
炊き出しを食ぶる被災者のその笑顔 生きんと励み辛さを見せず
雨の中〝絆〟の人文字のひとりなり傘さしながらのメ―・デー熱し
リズムなす雪解け水のしたたりに春を想えり被災地を思えり
壊れたるこの椅子に誰が座っていたガレキの山に聞えぬ声が
1首目は「テレビで見たこと」を定型に納めたもので、それ以下でも以上でもない。数千万人、いや海外の人も含めれば数億人の人が目にした場面である。テレビを見ている「われ」は存在するのだが、「われ」は何も語っていない。数億人分の1として、テレビの前に存在するだけ。
2首目には「われ」がいる。驚愕する気持ちを「津波われをも襲う」と表現したが、映像の中で流されてゆく人と違って命の危険はどこにもない。映像の中と外の落差があまりにも大きいために、「われをも襲う」という感覚ににわかに共感しかねる。3首目の下の句が楽天的すぎる見方ではないだろうか。「辛さ」が本当に見えなかったのかと、作者に問いたい。辛さを見せないように笑顔でいる被災者の中にある本当の辛さを見ることはなかったのだろうか? あまりにも表面的な理解であるようの思えてならない。
4首目には「己と諸事」「五月一日、札幌市中島公演にて」の詞書がついている。いい歌だと思う。震災後なにも出来ずにいた自分が、微力でも行動できていることで、昂ってゆく気持ちが上手く表現できている。「絆」という文字の中にいることの不思議な感覚や、雨に濡れない(安全の中で行動している)ことの疾しさも出ている。5首目と6首目も記録を超えて詩への昇華がなされていて、いい歌だと思った。
テレビ報道を見て作歌するだけでいいのか、現地に行って直接目にしたことを詠むべきでないのか・・・その考えにも一理あると思う。ただし、それを強く主張しすぎると、テレビを見て詠んだ歌は全てダメで、現地で詠んだ歌こそ良くて、現地に行った歌人が良くて、現地に行かなかった歌人はダメという話になりかねない。
山本は「あとがき」に次のように書いている。
「発生した当時は、この世の事と思えない驚愕と共に、茫然自失の状態でテレビ等を見ていた。日が経つにつれ、被災地への出来る限りの募金も行なったが、ボランティアに行くのは、喘息等の持病のある私には無理であった。可能な限りの支援運動はするとしても、やはり歌人としては徹底してこれらの事態の今後の推移を作歌すべきだと思いが至り、この歌集の刊行を得たのである。」
群馬の風評被害のきのこ農家 電気料滞納に送電停止が
崩壊の陸前高田の中心街 山車に引かるる七夕祭
紙上の被災死の人らに合掌す日課となりて半年経たり
出荷の可能となりし福島米されど売れる見通しはたたず
2011年3月11日以降1年の間に、山本は2590首を作ったという。一日平均7首、驚異的数だ。だが、本歌集のように記録に徹したとすれば、1日7首はさほど難しいことではない。むしろ1年間続けたという粘りに驚く。被災状況を短歌に詠みながら、短歌の無力を思ったこともあるであろう。こうして歌い続けることに何の意義があるのかと悩んだこともあるだろう。それでも歌い続けたことは立派だと思うし、こうして1冊の歌集にまとめたことも評価すべきであろう。
ただ、結局歌集で評価すべきは、短歌そのものであって、制作過程は問題にすべきではない。そうすると、どうしても、記録に徹した短歌の弱点が見えて来てしまう。本当に歌うべきは、31文字にまとめられた記録の先にあるような気がしてくる。言い換えれば、詞書であったとしてもおかしくない内容が短歌として存在しているのである。
短歌が詞書的になっているのは記録を重視したからであり、記録することを目的とした短歌の避けがたい宿命であって、本歌集だけの欠点とは言えない。
なにはともあれ、本歌集は様々なことを思い起こさせてくれた(短歌の事に限らず、私個人の震災に関連する思い出も含めて)。記憶に残る1冊になるであろう。
南鏡子の『山雨』
山雨と書いて「さんう」と読む。山から降りくる雨、山中の雨という意味だ。
静かで丁寧な歌い方ながら、発想も言葉遣いに柔軟さがあり、形を守りつつも形に縛られていない。柔軟さから生れる世界はどこかユーモラス。さびしい歌もあるにはあるが、つとめて明るい歌を並べているのだろう。明朗な歌いっぷりが作者の持ち味であると思わせる歌集の構成である。
寝そびれて飲む茉莉花茶若き日のなみだのごときはなびらものむ
ほんの些細な出来事なれば枝豆の莢捥ぎながらふり向かず言ふ
針金をまた締め直し古りたれどよき音たつるこの竹箒
菊芋に隣りて育ちしヨモギゆゑヨモギの丈をはみ出してをり
乱雑な机の物を片寄せてこの四冊は鄭重に置く
俎板が並びて乾くよき日和脚なげてわれも同じ陽を浴ぶ
品は無きよりあるがよけれど大鉢にてんこ盛りせり初筍は
1首目から3首目までは第3句の巧さが際立つ。飛躍しているようでいて、一段ずつ登っているように自然さがある。そう来たかと一瞬驚くが、やはりそう来たかと次第に納得してしまう。柔軟さが一番発揮されているのが3句なのだろう。大胆に歌い始めることはせず、結句で予定を覆すような無茶はしない。
もの言はず螢を待てる少年の掌にしづかなるひかりは来たり
ひとつびとつに星の名前を言ひながら小芋の皮むく明るき仲秋
*小芋に「いも」とルビ
誰も居ぬちちははの家山雨して梅のあを実に酸こごる頃
大写しの夫の写真みてをればそれは私のやうにも思ふ
雨がふつたり花が散つたり芽が出たり今日といふ日のなかの出来ごと
1首目から3首目までのような美しい場面を描くことにも作者は長けている。3首目は作者もその場所にいないのに、読者をその場所に導く。いわば幻想の世界に読者を導くのだから、相当な筆力が必要となる。
幻想と言えば、4首目は不思議な歌だ。「大写しの夫の写真」とは遺影であろうが、まるで自分の遺影を見ているようだと歌う。こういう感覚の歌を読むのは初めてだ。5首目は普通ならばこれだけ盛りだくさんのことを詠むと破綻をきたすのだが、うまく「今日といふ日のなかの出来ごと」と収束させている。散々散らかしておいて、それでも後片付けが上手という感じがする。
30年間作り続けてきて残した約300首。多くの歌を捨てた潔さが、いい第1歌集を生み出した。
品田悦一の『斎藤茂吉 異形の短歌』
好評を博した『斎藤茂吉――あかあかと一本の道とほりたり――』に続き、ふたたび茂吉を新しい切り口で描く。
内容は目次を書き写せば一目瞭然。明解な構成の上に1冊が作られているから、とても読みやすい。
はじめに
第一章 「ありのまま」の底力――茂吉の作詩法
たまらなく変な茂吉の短歌
写生という不思議
第二章 一人歩きする世評
茂吉の生涯
国語教材としての茂吉短歌
第三章 「死にたまふ母」を読み直す
第四章 茂吉の怪腕――作詩法補説二題
已然形で止める語法
声を出さずに読みたい日本語
たとえば「国語教材としての茂吉短歌」。
高校用の国語教科書で一番多く取り上げられている近代短歌の歌人は斎藤茂吉。2位が石川啄木、3位が与謝野晶子、以下、北原白秋、正岡子規、若山牧水、島木赤彦、釈迢空と続く。茂吉はダントツの1位。
中でも連作「死にたまふ母」の歌が人気で、採用された茂吉の歌の過半数を占めている。ところが茂吉自身は「正直に告白すると、私のものなどは中等学校の生徒向ではないだらう。従つて私のものは中等学校の教科書に入れて貰ひたくない」と書いている。
そもそも「死にたまふ母」が国語の教科書に採用され始めたのは、道徳的要素が強いかららしい。品田自身も、高校時代に習った時、国語教師が「最愛の母に死なれた痛恨をありのままに歌い上げた」と解説したので、「なにやら道徳的な臭気――誠実さの押し売りのような胡散臭さを感じ、ほかの作も読んでみたいという気は起きませんでした」とした上で
「実際、教科書にあまり載らない範囲には、素敵に『変』な歌が目白押しです。とても変なのに――というよりも、その変なところこそが――たまらなく魅力的なのです」と書いている。
わたしなどは茂吉の変な歌というと晩年の『つきかげ』の
肉厚き鰻もて来し友の顔しげしげと見むいとまもあらず
税務署へ届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ
濃厚の関係にある面相に熱海の道をつれだち歩む
茄子の汁このゆふまぐれ作りしにものわすれせるごとくにおもふ
このような歌を思うのであるが、品田は『赤光』にも「変」な歌があると、次の歌を引用している。
めん鷄ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
*鷄に「どり」、居に「ゐ」、剃刀研人に「剃刀研ぎ」とルビ
どんよりと空は曇りて居りたれば二たび空を見ざりけるかも
*居に「を」とルビ
にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
*赤子に「あかご」、子守に「こもり」とルビ
長鳴くはかの犬族のなが鳴くは遠街にして火は燃えにけり
*犬族に「けんぞく」、「遠街」に「をんがい」とルビ
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
*幾程に「いくほど」とルビ
どの歌も『赤光』を代表する歌で、不思議な歌だとは思っていたが、「変」という言葉を当てはめてみることはなかった。言われてみると、不思議よりも「変」のほうがぴったり来るような気がする。
さらに品田は教科書で習う「死にたまふ母」も、「よく読めばたまらなく変な歌だらけ」と言う。どこがどう変と品田が言っているのかは、本書を読んでいただくとして、最後に、引用されている『堂馬漫語』の「作歌の態度」から茂吉自身の言葉を聞いて欲しい。
「予が短歌を作るのは、作りたくなるからである。何かを吐出したいといふ変な心になるからである。この内部急迫(Drang)から予の歌が出る。如是内部急迫の状態を古人は『歌ごころ』と称へた。この『せずに居られぬ』とは大きな力である。同時に悲しき事実である。方便でなく職業でない。かの大劫運のなかに、有情生来し死去するが如き不可抗力である。予が『作歌の際は出鱈目に詠む』と云つたのはこの理にほかならぬ。」
「同時に悲しき事実である」という文章が胸に刺さる。痛い。身を削ってまで歌を作りたいと思って作ることが最近のわたしにはないだけに、余計に痛いのだ。
佐々木健一の『辞書になった男 ケンボー先生と山田先生』
著者の佐々木はテレビディレクター。この本は2013年4月にNHKBSプレミアムで放映された「ケンボー先生と山田先生~辞書に人生を捧げた二人の男~」で取材したことを基に書かれている。
ケンボー先生とは『三省堂国語辞典』の生みの親、見坊豪紀(けんぼうひでとし、と読む)。
山田先生とは『新明解国語辞典』の生みの親、山田忠雄。
東京帝国大学文学部国文科で国語学を専攻する同級生だった二人は、『新明解』の前身である『明解国語辞典』をともに作った。だがやがて、袂を分かち、まったく性格の違う辞書をそれぞれが生み出した。
『新明解』四版で「時点」を調べると次のように用例が書かれている。「一月九日の時点では、その事実は判明していなかった。」 1月9日? 辞書の用例にしては、あまりにも具体的であり、あまりにも意味不明な日付だ。
著者の佐々木は1月9日に何か意味があるのだろうと思い、調査し、そして突き止める。『新明解』初版の完成を祝う会が開かれたのが昭和47年1月9日であり、、見坊と山田の決裂が決定的になった日なのだ。
なぜ決裂したのか? さまざまな事情がある。とても書ききれないし、書いてしまっては読書の楽しみを奪ってしまいかねないので、書かないでおく。
しかし一つだけ。二人を決裂させたのは「ことば」である。発した言葉が違う意味に取られてしまうことは、我々の誰もが経験している。本意は違うところにあるのに誤解されてしまう。辞書を作る「ことば」のプロの間にも、それが起きた。
山田先生は「ことばは不自由な伝達手段である」と言い、ケンボー先生は「ことばは、音もなく変わる」と言った。
山田先生は『新明解』四版の「実に」の用例を夏目漱石の『坊ちゃん』から引いている。
「この良友を失うのは実に自分に取って大なる不幸であるとまで云った」
決裂したものの二人は互いを認め合っていた。佐々木に二人の関係を尋ねられた飯間浩明(現在『三省堂国語辞典』の編集を勤める)の回答が端的で納得のゆくものだ。
「あくまで想像ですが、二人は互いを否定していたとは思わない。むしろ、認め合っていた。進む方向は違う。山田先生は規範主義。見坊先生は現実主義。だからと言って、他方を切り捨てていたわけじゃない。相手方の辞書を、深く尊敬していたと思います。性格は違うが、その違いを乗り越え、お互い尊敬していたんだろうな、と」
山田先生がインタビューで、次のように語ったことがあると紹介されている。
「我が国の国語辞書の水準は極めて低い。これからでしょうね。競争品が現れてほしいですね。競争品がたくさん出てくると、さらにその上のものがたくさん出てくると思いますからね」
これを受けて佐々木は次のように書く。
「山田先生は、自身が作った『新明解』に絶対的な自信を持っていた。/だが、それが〝絶対的な存在〟だとは思っていなかった。/むしろ、どんどん他の辞書が現れて、百花繚乱となることを望んでいた。/「ことばは常に変化している」/「ことばは不自由な伝達手段である」/だからこそ、辞書はつねに進化を続けて行かなければならない。脈々と受け継がれながらも、変わっていかなければならない宿命を負っている」
晩年、ケンボー先生は知人に尋ねた。
「……山田君は、どうしていますか?」
知人が「……ええ、お元気で。変わらないご様子で」と答えると、
「私は、山田君を許します」と唐突にケンボー先生は言ったそうだ。
ケンボー先生は平成4年、『三省堂国語辞典』第4版を刊行して半年後に77歳で死去。
山田先生は平成8年『新明解国語辞典』第5版を改訂中に79歳で死去。
佐々木幹郎の『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』
『新明解国語辞典』第六版で「民謡」を調べると「民衆の中から生まれ、民衆の生活・感情をうたって伝えられて来た歌」とある。
佐々木は次のように書く。「民謡。それは一人の制作者が作ったものではない。土地の文化に根ざし、同時にその土地に、陸路や海路で流れ込んできた他の土地の文化を強く残している」。
東日本大震災の後、詩人の佐々木幹郎は二代目高橋竹山とともに被災地をまわった。仮設住宅の集会所や地区の公民館で、津軽三味線の演奏と詩の朗読のライブ、そして竹山が東北民謡を歌う。
初代高橋竹山は若い時期を門付により生きていた。佐々木は二代目を「東北に門付け芸に出ましょう」と誘った。
「いまの時代に門付か芸など成立するはずがない。それはあくまで、イメージだった。小さな会場で、できるだけ誰も慰問に来なかった場所へ。」と佐々木は書く。
大船渡での会場は下船渡公民館の大広間。観音菩薩を祀る祭壇があり、戦死戦没者の位牌とともに、東日本大震災犠牲者の位牌も置かれている。竹山が「りんご節」、「牛方節」(南部牛追い唄)、「斎太郎節」などをアカペラで歌うと、手拍子が起こり、一緒に歌う人が出てくる。
ライブが終わった後、地元の人に震災のときの様子やその後の状況を佐々木は聞いた。大船渡に住む63歳の女性の地震直後に自宅に戻るまでの話が書き取られていて、そのときの様子を生々しく伝えている。
「潰れた家の下から手をあげていたのがチラッと見えたりしたけど、わたしはほんとうはこの人たちを助けたいな、と悩んだんです。
困ったな、困ったな、でも、神様助けてください、わたしの主人は心臓の手術して入院しているし、わたしの家には動物がいる。」
「妹は逃げたんだろうなと思いながら、そして、修羅場を越えて、山、山、山と選んで、どうか神様わたしを許してください、わたしは我が家に行きたいんです。我が家がどうなったか、たぶん駄目かもしれないけれど、行きたいんです。許してください。
今日だけわたしは悪い人になってます。すみませんって、神様にお願いして、」
「聴こえたんです。
助けてください、とかいう声と、ショックで頭が……、年老いた方かな、
唄うたってる声が聴こえてきましたよ。
潰れた家の下から。
でも、わたしはそっちのほう見ませんでした。
見ませんでした。声だけ聴きながら。いま思えば、それは民謡じゃなかったかな、と
思ったんですよ。
八戸小唄だったと思いますよ。
なぜ民謡かとわかったかと言うと、うちのお姑さんも青森の八戸なんですよ、生まれが。
お義母さん、八戸小唄が好きで、うたっていたんです。」
「潰れた家の下で、唄、一生懸命うたっていたのは、かなり年とっている方で。
助けを求めていたんではなかろうかと思いました。
見ませんでした。つらかったです。かなしかったです。
泣き泣き歩きました、山を。」
長い引用になってしまったが、これでも、63歳の女性が語ったことの半分ほどだ。
わたしは読みながら、女性が極限状態の中で、幻の声を聞いたのではないか、記憶の底に仕舞われていた義母の声が甦って来た幻聴だったのではないかと思ったが、この本のいたるところで語られている民謡と人々との深くて強い関係を読むにつれ、幻聴ではなかったと考えるようになった。
佐々木は次のように書いている。
「わたしはこの話を聴いて、絶句した。『今日だけわたしは悪い人になってます』と、神様に祈って歩いたということにも、そして何よりも、瓦礫に埋もれた潰れた家の下から、民謡をうたう声を聴いた、という話に驚いた。信じられるだろうか。しかし、彼女は『八戸小唄』を聴いたのである。津波の第二波、第三波がこのあと襲ってくるのだが、うたっていた老人はその恐怖のなかで声を出していた。声を出している間、恐怖は遠のいていたのだろう。いや、楽しかったかもしれないではないか。民謡の力は強い、とつくづく思う。」
絶対的な民謡への信頼である。「辛いときこそ民謡は歌われる、民謡は辛いときのためにある」と佐々木はいう。そのことを端的に示しているのが相馬だという。江戸期には飢饉が続いた。山地が多いために農作業が厳しかった。常に北に接する伊達藩の攻撃におびえていた。厳しい土地だからこそ民謡が生れ、歌い継がれてゆく。
ここ2,3年、NHKの「のど自慢」を見ていないので(テレビがないので)自信はないのだが、見ていた時期にも民謡を歌う人は稀で、民謡を歌う人がいない週もかなりあった気がする。それは民謡が盛んでない土地で開催されたからかも知れないが、民謡を聴く機会はほとんどなかった。
のど自慢で民謡を歌う人はみんな上手で、合格の鐘が鳴ることが多かった。民謡で鐘ひとつと言う人を見たことがない。きっと民謡が簡単に歌えない歌になってしまっていて、民謡を歌う人はみんな何がしかの方法で習っているのだろう。下手でもいいはずの民謡なのに、下手を許してくれないように感じた。
民衆の歌であるべき民謡が伝統芸能になってしまったということなのだろうか。
民謡の本を読みながら、短歌のことを思ってしまうのは悪い習性だと思いつつ、「民衆の中から生まれ、民衆の生活・感情をうたって伝えられて来た歌」「声を出している間、恐怖は遠のいていたのだろう。いや、楽しかったかもしれないではないか。民謡の力は強い」「辛いときこそ民謡は歌われる、民謡は辛いときのためにある」と書かれていれば自然と民謡を短歌に置き換えて読んでいる。歌集以外の本も読むには読むが、結局わたしは短歌にどっぷり浸っているのだと思う。