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「対立点しんしに協議」と書きなすは誠意などなき証とも見ゆ
市野ヒロ子『川霧』(*1)
「しんし」。もちろん「真摯」という熟語を平仮名で書きあらわしたものだ。なぜ平仮名かというと、「摯」という字が常用漢字表に記載されていないからである。漢字表は、その「前書き」によれば、「漢字使用の目安」にすぎない(*2)。「目安」だから強制力はない。が、逸脱を最小化するだけの効果はある。行政やマスメディアでは、表にない字はなるだけ平仮名で書こうということになる。だから「ら致」や「破たん」といった交ぜ書きが現れる。交ぜ書きで不都合なら、ぜんぶ仮名書きしようということになる。その結果生まれた意味と表記のズレが、なんとも弛緩した空気をつくりだす(*3)。
はたして漢字表は、歌人の表現をどれほど制約しただろうか。字体の簡略化に伴う問題を別とすれば(機会があれば、あらためて触れたい)、たいした制約にはならなかった、のかもしれない。創作の現場では「目安」に拘束される必要はなかった。しょせん常用漢字だけでは、創作の必要性を満たすことはできなかった。必要なら、書き手は遠慮せず「表外漢字」を使う。新聞小説を書くときには常用漢字しか使ってはいけない、というルールはない。短歌も同じだ。時にはプラグマティックな、また審美的な理由から、印刷技術が許すかぎり、好ましいように漢字を選択してきたというのが、実情だろう。
注意深く選択された漢字は、一首を活かす。そう思わせる作品を挙げたい。
夕闇に浮かびて白き手のひとが尨(むくいぬ)をして歩ましめをり
大辻隆弘『デプス』(*4)
一国の政治に関心せざるゆゑその〈美〉の缺(けつ)に充塡をさる
阿木津英『巌のちから』(*5)
大辻作品。犬を散歩させている夕べの情景だ。変哲もない風景を一変させ、犬の存在感を際立たせているのが「尨」という、そのものずばりの象形字だろう。漢字によるリアリズム、だ。阿木津作品。これはベルリン五輪の記録映画で知られる女性映画監督、レニ・リーフェンシュタールを詠う。「缺」は当用漢字表で「欠」と簡略化されたが、元来両者は別の漢字だった。「欠」は「あくび」の意。一方「缺」は「甕の欠け」を表す。芸術が権力にたいして無関心になるとき、いつしか後者の「欠落」部分を補完する役割を負いかねない。作者の批評的知性が、厳密な漢字選択を行わせている。
歌は、意味内容がすべてというわけではない。音の響き(しらべ)は言うに及ばず、字面の印象も重要だ。一首のなかでも仮名と漢字の配合には気を使う。同じ言葉でも、仮名書きするものもあれば、漢字にするものもある。それも、一首の最良の姿を求めるための工夫である。
(*1)砂子屋書房、二〇〇七年。
(*2)国語政策にかんする資料は、文化庁の「国語施策情報システム」から閲覧可能。
(*3)現在、検討が進められている「新常用漢字表」試案では、晴れて「摯」も追加される見込みのようだ。そうなると市野さんの怒りの原因も解消されるかもしれない。
(*4)砂子屋書房、二〇〇二年。
(*5)短歌研究社、二〇〇七年。