真中 朋久


出発点にする

私事で恐縮だが「逆流性食道炎」とやらになっている。胃酸が逆流することによって、食道に炎症が起こるとだという。
ストレスのせいか胃の調子が悪いと思ってきたが、胃が痛んだりするのは一時的で、健康診断でもとくに悪いところは見つからない。ただ、げっぷが多いのには閉口する(出てしまうげっぷをかみ殺すためにも口は閉じないといけないが……)ので、すこし前にかかりつけの医師に相談したのだ。診断は「典型的な逆流性食道炎」とのことで、薬を処方してもらっているところである。

最近になって、某薬品メーカーが、キャンペーンをはじめた(※1)。「逆流性食道炎」を自己チェックしてみて、該当する可能性があれば病院に行きなさい。そうすれば適切な治療を受けることができるというのだ。ああなるほど……処方されている薬を見ると、この薬品メーカーのものが含まれている。そういうキャンペーンなのだ。

「キャンペーン見た?」と先生がおっしゃる。そのときは見てなかったが、上記のようなキャンペーンであるのを翌朝の新聞折り込み広告で知ることになった。

先生曰く「ちゃんと医者に見せればいいんだけど、自己診断でたいしたことないと思ってしまう人がいると困るな。げっぷとか胃のもたれとかが、深刻な病気の兆候である場合もあるからなあ」だそうである。

「短歌往来」5月号の「今月の視点」に、山田航が「啄木と発達障害」という文章を書いている。何か言おうと思い、どう書こうと思っているあいだに「まひる野」6月号が出る。染野太郎が時評「わからないということ」で山田の文章にコメントしている。先を越されてしまった。

山田は、「医師でもない私が、残されたエピソードのみで啄木を発達障害と断ずるのは危険を孕むが」と留保をつけたうえであるが、自身が「発達障害」の当事者であるということで経験的に感じるシンパシーも含め、啄木が「発達障害」である可能性が強く、あれだけの作品を残したのは、「奇跡的な幸運」であったと希望的断定的に書いている。
そして、「これからの啄木研究において、『発達障害の可能性があった』という視点を避けては通れないと思う。啄木を愛する全ての歌人は、発達障害についも学ばねばならない。」と結ぶ。

染野太郎は、この山田の文章に対し、学校教育現場で発達障害を抱えた生徒とも向き合い、発達障害について学んできた経験からこんなふうに言う。

—— 引用ここから ——
しかしそれによって彼らを理解できるようになったか、彼らを支援できるようになったかと言えばそうは思わない。発達障害とそれがもつ特徴を言葉によって納得したところで、それを目の前の生徒に当てはめることなどできないことの方が多かったし、今もそうだ。わからない生徒をわからないままにしてほとんど対症療法的に接していくことでしか、目の前の「わからない」を「わかる」に変えることはできなかった。
—— 引用ここまで ——

カウンセリングに心血を注いでいる人からは異論が出るかもしれないが、病名がついたからといって、解決につながらないことが少なくないのはそのとおりだろう。特効薬があるものならともかく、メンタルなものはとくに難しい。強引なことをすれば副作用のようなことも起こるかもしれない。
そしてまた、病名がレッテル貼りや排除につながってしまうこともしばしば見聞きするし、逆に当事者が病名を盾に開き直ることもある。自分を守ることは必要だが「わたしは病気です」に甘えてしまうのだとしたら、それはやはり治癒や解決からは遠いだろう。

染野はこんなふうに結んでいる。

—— 引用ここから ——
啄木を「発達障害」と名付けたとき何かが終わる。穂村弘が「短歌的武装解除」「棒立ちの歌」「想いの圧縮と解凍」と言ったとき何かが終わったはずだ。僕はそれを「思考停止」と呼ぶ。言葉をもってしか思考できない僕たちは言葉によって思考停止にも陥る。
—— 引用ここまで ——

山田が断定的なのと別の方向であるが、染野もまた断定的に書いている。短い文章をシャープに書こうと思えば、テンポよく断定的に書かなければならないことはわかるが、このあたり、「陥ることに注意が必要である」とでも補って読んでおきたいと思う。

この部分はおそらく、「短歌研究」6月号の座談会の大辻隆弘が、鮮やかな批評用語によって「何かわかったような気分になってしまう。そこがちょっと危うい」と言っていることにも通じるだろうし、この大辻の発言を引用している川本千栄(※2)が、少し前に「評論に求めること」(※3)で提起したことも、余計なことをいろいろ書いたためか批判を呼び、理解されなかったが「思考停止」を危ぶむということが根本のところではなかったかと思う。

ある「名付け」あるいは「批評用語の発明」によって、終わることもある。終わらせてしまうのはたいてい、生はんかにそのキーワードに飛びついた人たちである。またたくまに思考停止状態に覆われる。考え抜いて新しい批評用語を提出した本人まで、「わかったような気分」の一人と見られてしまう。

ただ、そのことをもって、新しい批評用語の開発をしなくてよいということにはならない。新しい視点に立つことは作品を新鮮な目で読むことになる。批評用語とは、つまり切り口であり視点なのであって、危うさは意識しつつ、踏み出してゆかなければ何も得られないとも言えるのである。
診断して病名をつけなければ治療計画も立てられない。日々の対症療法といえど、診断を放棄してよいということではなかろう。

出発点にするかどうかは、論者、そして読者次第なのだ。

山田のアプローチも必要なことである。「発達障害」という切り口も面白いのではないかと思う。ただ「啄木を愛する全ての歌人は、発達障害についも学ばねばならない」というような押しつけは勘弁してほしい。啄木が嫌いになってしまいそうだ。
まずは山田自身が、みずから学び(医者にならなくてもいいのだ)、あるいは専門家のパートナーとともに、分析を進めるのがよいだろう。文学作品にその作家の病気の跡を読み取り分析する学問を「病跡学」といって、学会まであるが、そういうところに参加すると、より適切なアドヴァイスを得られるかもしれない。「発達障害」と見当をつけて分析をはじめたら、さらに違った病名が浮んでくるというようなこともあり得る。

「そっちでやれ」と言っているのではない。狭いところで考え込まないほうがよいということである。

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※1
http://gyakusyoku.jp/

※2
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_100524.html

※3
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_100315.html
http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda137.html
反論・コメント多数。江田浩司の最初の反論のみを掲げる。