全体像

角川「短歌」5月号が出ている。江戸雪の短歌時評は納得できる内容。川野里子『幻想の重量―葛原妙子の戦後短歌』(本阿弥書店)と、「短歌往来」1月号に掲載された、岩井謙一「川野里子『幻想の重量』への疑問」についてのコメントである。
後半は中沢直人作品にふれ、「作者は、拍子抜けするほどあっけらかんと、信仰を持つ者として作品のなかに立っている。またいっぽうで、宗教独特の理想に拠って詠むこともしない。こういう風通しのよさも新鮮である。」と結んでいる。

ああ、そうだった……と思う。私などはあれこれ考えてしまうほうなので、中沢作品の、江戸の言うようなある種の屈折のなさは共感できるわけではないのだが、ともかくこういう立場もあるのだろうと思って作品を読んだことである。
風通しのよさといえば、江戸の文章も、風通しがよい。

川野―岩井の論争(といっても、川野は答える必要を感じていないようだが)については、青磁社の時評及び掲示板でいくつかのやりとりがあった(※1~3)。

私としては、この論争については、本欄1月5日稿(※4)で、水を差したつもりであったが、ややエスカレートしているようにも思われる。それで議論が深まっているならばよいが、どうだろう。

松村由利子「葛原妙子とキリスト教」(※1)について、ひとつコメントをしておきたい。

こういうのはお互い様で、わたしもずいぶん不注意なことをしているから他人様のことを言えないのだが、私の文章の、一部のみへの言及「真中もその部分について、岩井と同様のことを感じたといい、無力なイエスこそが『象徴的なイエスの像』ではないかと述べている」は、なにか私が岩井の肩をもっているように読めてしまうのはどうか。
私の書いたはずのことを、思いきり短くすれば「双方の論を鳥瞰しながら生身の葛原のゆれを受け止めたいとした」という江戸の要約につきる。
「鳥瞰」つまり傍観者的な書き方は反発を招くかとも思ったが、何かを論じる時には、情熱と同時にどこか冷静な部分も必要だろう。
それにしても、一文で言えてしまうことを、長々と書いて申し訳ないことであった。筋道を立てて書いたつもりでも、長い文章になると結論までなかなか読んでもらえないものだと思ったことである。

岩井謙一の松村への反論(※2)は、かなり踏み込んで自分の立場を書いていて驚かされた。
このことが論争をどう方向づけるかというと、かならずしも岩井の論を補強することになっていないようにも思えるのだが、岩井は「私は牧師に騙された形で洗礼を受けさせられ、無念の気持ちを抱きながら洗礼の儀式を終えた。したがって私自身は信仰者であるという認識はあるが信者ではない思っている。」と書いている。

勝手な口をさめば、ここで読者は言葉の定義にすぐには深入りしないほうがよい。信仰と一口にいっても、かくのごとく個々の体験や教会組織との距離のとり方は異なるのということを読み取ったほうがとりあえずは有益だろう。

それにしても、岩井のこの述懐は、ありがちなことではあるけれど、相当に強い表現である。ただ、岩井のこれまでの2冊の歌集を読んできた者には、腑に落ちる感じがした。第二歌集『揮発』には次のような作品がある。

・退職を告げし牧師の見捨てたる教会にかぐ荒廃の香を

・アメリカへ永住せむと牧師去り二年半過ぎ二度の戦争

もう少し生々しい作品もあるが、論点がずれそうなのでここでは触れない。歌集にあたっていただきたい。9・11以後のアメリカが前提であり、この「永住」は帰国ということであるかもしれない。
比較的厳格で平和主義(「非戦」)を掲げる教団に属していることは第一歌集『光弾』の作品からも読み取れるのだが、その教会の信徒が「見捨て」られたと感じるようなできごとがあったのだ。

指導者を失った教会を維持するのは、それはたいへんなことだろうと思うのだが、岩井の場合には、それが信仰そのものにかかわることとして内面化されている。受洗の頃までさかのぼる根深いものなのだろう。

これは読解に関係のない私的なことの詮索か? そういう面もあるかもしれない(存命中の歌人の場合、本人が積極的に書かないことまで調べあげるべきだとは思わない)が、しかし評伝(川野『幻想の重量』など)を書き、評伝を読むというのは、歌人の全体像をとらえなおしつつ作品を読むということである。そしてここで触れた文章および作品も、全体から見れば、ごく一部ということなのである。

論争の帰結はともかく、熱く語る人物には興味がある。熱い思いをもった人の作品は大切に読んでゆこうと思う。

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※1 葛原妙子とキリスト教/松村由利子
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_100419.html

※2 松村由利子への反論/岩井謙一
http://6131.teacup.com/seijisya/bbs/204
少しだけコメントを加える。岩井の書く「敗戦後の混乱期にキリスト教が注目されたという川野の論自体が間違いである」および、GHQ等による「キリスト教化は失敗している」は、後者についてはある程度納得するものの、前者のように否定できるわけでもないように思う。戦後期に受洗した若者達(私の両親を含む)のうち、去らずに残ったひとたちがその後の各地の教会を支えているのであって、それは「歩留まり」が低かったとしても、やはり「注目された」ということの結果ではないか。これは地域によっても違うだろうが、岩井の断定に違和感を感じる部分として書いておく。

※3 信仰と作品/広坂早苗
http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/jihyou/jihyou_100510.html

※4 信仰を〈読む〉/真中朋久 本欄1月5日稿
http://www.sunagoya.com/jihyo/?p=174