「日々」というもの  —坂井修一歌集『青眼白眼』について—

 

外は雨われはひとりの夕がれひナプキンが膝の断崖にゐる

 

 

生活のさびしさ、といってしまえばそれまでなのかもしれない。けれども、その生活は人さまざまであり、短歌においても固有のものとなりうる。生活はひとりにひとつずつあり、その生活のひとつずつに宿るさびしさのひとつを、しっかりと見せられた気持ちになる歌だ。この一首の場合、ひとりの夕食でありながら、膝にナプキンを敷いているというところ、ここに胸倉をつかまれる。きちんとナプキンを敷いていることのうつくしさのさびしさが、つやつやと光っている。生活のさびしさ、と言ったが、この歌では生活のさびしさを突き抜けてひとりの存在のさびしさにまで手が届いている、と個人的には感受した。同じ一連には次のような歌もある。

 

 

ちろちろとベーコン焼けてちぢまるをサド侯爵のごとくみしかな

 

 

同じ夕食の場面だろうか。熱したフライパンの上のベーコンを見下ろしながら、サド侯爵に自身が重ねられる。ベーコンという肉の、焼けて縮んでいくさまは、肉への暴力である。縮まるという肉の動きに何かしらの感情が動かされたにしても、その視線は冷静だ。熱にちぢまる肉を冷静に見下ろしている主体を、読者は俯瞰的立場から見下ろす。サド侯爵に重ねられたものも、生活の片隅の台所のあかるさにちいさく包まれる。上記二首を見てもあきらかなように、『青眼白眼』はペーソスのふんだんにまぶされた歌集である。

 

 

端擦れしビデオテープの中に来て三歳の子がわれに雪投ぐ

雪すべり無限時間を子はあそぶはるばると来し雁(かり)のごとくに

 

 

この二首の入った連作のタイトルが「ひとりの日曜日」だということ、現在五十五歳の時間から二十年遡った三十五歳の時間がビデオのなかに流れていることをあわせて考えるとせつなさしかない。他の歌から、子はすでに巣立ち、妻は旅行中だということが分かる。そういう日曜日に、ひとり、二十年前のビデオを回しているというシチュエーションが胸にせまる。主体はなつかしさに浸っているわけではない。むしろなつかしさに照らし出された現在を詠っているのであり、そのことによりこれまで積み重ねられてきた時間の量が見えてくるようだ。一首目、「端擦れし」はビデオ映像のはしばしに擦れたようなノイズが入っている様子だととった。幾度も見た映像であること、撮影から長い時間が経っていることがこの初句で分かる。ビデオ映像の向こうからこちらに三歳の息子がやってきて、撮影者だろう父である主体に雪を投げるのを、ひとりの日曜日にリビングかなにかで眺めている。二首目も一首目と同じビデオ映像を詠んだ歌だろう。映像に取り込まれた子は、再生するたびに雪すべりをしてあそぶ。映像のなかは二十年中の雪すべりができる場所であり、二十年中、雪すべりしかできない場所であるということ。そこにとどまり、無限に雪すべりを繰り返す映像のなかの子とすでに巣立った現実の子。「はるばると来し雁のごとくに」は、わが子のかけがえのなさが感じられる。と同時にやがてはまた「はるばると行くもの」だということを暗示している。主体は主体は、そこにあって、もうそこにはないものをひとりの日曜日に思い返すのである。

 

 

「ひとりの日曜日」一連もそうだが、『青眼白眼』には十首以下のコンパクトな連作でも構成がしっかりと練られているように思うものが多かった。「アトム」という連作は六首で成立したものだけれども、かつての原子力が持っていた希望的イメージと現在の原子力のイメージを交錯させていてあざやかである。

 

 

ありあけの原子の火もてアトムとぶ青空よつひにあふぐなからむ

 

 

「アトム」とは、かつては鉄腕アトムであった。が、輝かしい希望の言葉だった「アトム」から希望は剥がれて、「アトム」はただの原子力を表す言葉となった。鉄腕アトムがとぶ空を見ることはおそらくないだろう、という感慨はシンプルなものでありながら、個人の感慨を超えてある種の日本の感慨となっているようにも感じられる。

 

 

影法師はやあそぶなき午前二時「もう働くな」こゑがいふなり

今ですか? わたしの息の尽きるのは 野薊枯るる道に臥すなり

私もう人間ぢゃない枯れアザミ 子の名を呼べど口が開かぬ

うつむいてひとのこゑきく教授会 顔の輪郭きしませながら

どつぷりとくろき煮汁のごときもの流れ出でたり夜のわれから

 

 

上記のような歌からはかなりストレスの多い立場にいることが伺われる。そしてそれをストレートに歌にしてゆく。それぞれの作品から疲弊は感じるものの、それ以上に若さを感じるのは、このストレートさゆえかもしれない。しかし、肉体的にも精神的にも相当苦しいことに変わりはない。こらえながら過ごす日々の、こらえることでさらに疲弊する日々がつづく。

 

 

八重山の海のむかうにかがやける南波照間わが恋ひやまず

大利根の真冬の底にふらふらと楽しかるらん鯰の骨は

わたくしの全細胞がはじけとぶMRIの空洞のなか

 

 

一首目には「南波照間は非在の島である。昔、重い年貢の取り立てに苦しんだ八重山の人々が、ここに渡ろうとした。」という詞書が付されている。疲弊の日々が非在の島へとこころを向かわせる。二首目の「鯰の骨」も非在のものとほぼ同じ存在であろう。骨だけになった鯰の、むしろすがすがしくあっけらかんとした姿へこころが向かう。三首目、MRIの空洞も前二首と同様である。この歌の全細胞がはじけとぶイメージには、肉体の崩壊というマイナスの要素よりも解放の快感が多く含まれているのではないか。南波照間も鯰の骨もMRIの空洞も、現実逃避といえばそうなのかもしれない。とはいっても、こうした現実逃避をときに味わうことで、またこらえるための現実に戻っていくことができるのだ。

 

 

あとがきに「歌集は、現代の北京に始まり、古代エルサレムで終わる。人でいえば、毛沢東からイエス・キリストまで。意図してそうしたわけではないが、歌集を編んでいるうちにこの偶然に気づき、なんだか暗示的なものも含まれているような気持ちになった」とある。時間空間(現実のものだろうと非在のものだろうと)を縦横に行き来することは、この歌集の主体にとって「日々」を継続していくうえでおそらくは、なくてはならないことなのである。

 

 

真夜中にかへりきたりてかさこそと亀に餌、われにサンドウィッチ

歯にあたるレタス・ベーコン・ハム・トマト うつせみはうすいうすい音すも

 

 

働いて自宅へ帰ってサンドウィッチを食べる。家族の気配はなく、亀がいる。サンドウィッチへみずからの歯を食い込ませて、食材の感触をていねいに感じている主体がいる。読者からみれば、これらの歌にうたわれている「日々」はさびしさを含みながらも、なにかしらすがすがしく透きとおって見える。こらえるための「日々」のなかにも、「南波照間」や「鯰の骨」のような瞬間があるのである。「日々」の渦中にある主体には感得できないものなのかもしれないけれども、こうした歌は少なくとも一読者であるわたしにとっては「南波照間」や「鯰の骨」となり得るのであり、それは短歌を味わうよころびや現実に戻っていくための力にとっての大切な一要素となっているのである。