くらくらする歌集  —國森晴野歌集『いちまいの羊歯』について—

『いちまいの羊歯』は書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」として刊行された國森晴野の第一歌集である。この歌集をひとことで言うとすれば不思議な歌集ということになる。そして言ったそばから、「不思議な歌集」というひとことで括り切れないもやもやが残る。國森作品は決して派手な修辞を特徴としているわけではないし、言葉のありようはむしろナチュラルに見える。しかし、するっと読めてしまうようでいて、その歌の世界の核心にはなかなか触れさせてもらえないのである。それでは、具体的に作品を見ていきたい。

 

 

遠くまできたねと深夜営業のあかりをふたりで辿れば星座

足裏に熱を孕んで砂粒はこんなに粒だとわらいあえたら

青空にひろがる銅のあみだくじ君の窓まで声が繋がる

 

 

三首ともプラトニックな相聞歌だと言ってしまいそうになるが、ただ単にプラトニックなわけではないような気もする。たとえば一首目。「深夜営業のあかり」はコンビニエンスストアのものであったりファミリーレストランのものであったりするのだろう。「あかりを辿る」という言葉から、繁華街のような至るところであかりが灯っている場所ではなく、郊外の大きな道路沿いのようなところに点々とあかるさがある感じを思い浮かべる。また、何か目的があって夜の道を歩いていて、その途中に深夜営業のあかりが見える、というよりも特に目的はなく遠くまであかりを辿ることを楽しんでいるような気配がする。そこになんとも言えない無重力感が生じ、現実の匂いが希薄となる。現実の重みが省かれているから、その道程が「星座」になるという見立ても、見立てを超えて別次元の現実を生み出しているのだともとれる。別次元の現実にいるのはこのふたりだけであり、「ふたりでいることの孤独感」がこの相聞的な一首の背後にあるテーマだと読んだがどうだろうか。

 

二首目。これは夏の砂浜かもしれない。そこまではうすうす想像ができる。「わらいあえたら」もしっくりくる。が、どういう事象でわらいあうのかが問題だ。「砂粒はこんなに粒だ」でわらいあえる状況というのは、日常から乖離した彼方にあるもの(のように思う)。「砂粒はこんなに砂だ」は現実的な認識だけれども、「砂粒はこんなに砂だ」という認識とそのことでわらいあうこととの脈絡は現実的なものではない。この歌の魅力は、認識の近さと脈絡の遠さが混ざりあって異様にきらきらして見えるところにある。

 

三首目も不思議な歌だ。上句の「あみだくじ」は電線の描写であって、その電線をとおって声が「君」まで繋がる。と読めばすんなり読めるのだが、一首の叙述としては「君の窓」までとなっている。「君」まで声が繋がっていくのかどうかはだれにもわからない。「君の窓」を具体的窓ではなく「君の入り口」というくらいの抽象的窓として捉えることもできるかもしれないが、いずれにしても腑に落ちない。核心に触れそうで触れない。國森作品にはこうしたもどかしさが織り込まれているものが多く、とはいえ作品のもどかしさが読者を一首のほとりに長く立ち止まらせる要因にもなっているのである。

 

 

透明な表面するり撫でてゆく超純水の滴はにがい

 

 

この一首がおさめられた連作「指はしずかに培地を注ぐ」は、実験室が舞台となっている。理系の現場である。わたしなどは、超純水というと「南アルプスの天然水」がすぐに浮かんできてしまうけれども、そういう方向ではない。超純水は「澄んだ水」を超えて有機物や微粒子といったものが取り除かれた水で、産業分野の用語だという。苦さ、へと行き着くまで純度を高められた水。想像するだに果てしない。しかしその果てしなさはいま、主体の舌の上にある。果てしなさが、自身の身体というもっとも近いものに接している。ここでも先ほど述べたような、意味的な遠近感の狂いを感じてくらくらする。そしてこの意味的な遠近感の狂いは、イメージの力によって生じているのではない。事実的現象の力によって生じている。ここに國森作品の唯一性があるのだろう。

 

 

目を閉じて三つ数えるくちづけは最初の雨の匂いがします

 

 

引けば引くだけくらくらする歌が次々に出てくる。「目を閉じて三つ数えるくちづけは」は少し幼さの残る恋愛の一場面に思える。下句「最初の雨の匂いがします」も上句のながれに乗って読んで、そうした恋愛の一場面が感覚的に描かれた作品とすればいいのかもしれない。けれども「最初の雨」にわたしはひっかかってしまうのである。結句まで読んで、「最初の雨」に立ち止まって、立ち止まる。「最初の雨」とは主体が人生で最初に出会った雨なのかもしれず、相手と最初に出会ったときに降っていた雨なのかもしれず、地球上で最初に降った雨なのかもしれず、知らず知らずのうちに数十億年の時間を行ったり来たりさせられる。時間の確定が避けられていることで、読み手は時間の幅を右往左往し、その右往左往の動きのなかに「最初の雨」を曖昧なかたちで置かざるを得なくなるのだ。そのことに不安定さや疲れを感じる読者もいるかもしれない。ただ、その部分がこの作品の代えがたい魅力にもなっている。

 

 

消えてしまえきえてしまえと冬の夜に紙石鹼をあわだてている

声をひとつ抱いて乗り込む車輛には北行きとのみ記されており

 

 

一首目の「消えてしまえきえてしまえ」は紙石鹼への呼びかけとも思われるし、泡立って消えていくのは自分自身のほうだとも思われる。感情は明確にあるのに、その感情が向けられている対象の輪郭が滲んでいる。むしろ一首の言葉の運動としては「消えてしまえきえてしまえ」という呼びかけがあることによってはじめて、対象がその輪郭をなくして溶け合ってしまうのである。

 

二首目は「北行きとのみ記されており」が一首の世界をうやむやにしている。「北行き」の車輛にあるのは、目的地ではなく方向である。たとえば「札幌行き」や「青森行き」であれば、そこまで気持ちを乗せてトレースできるのだが、「北行き」だとそれができない。読み手はまた「最初の雨」のときと同じように「方向」のなかへ放り出される。とはいえ、読み手は放り出されることで、一首が繰り出した「北行き」という言葉に直面することができるのだ。「札幌行き」や「青森行き」では、読み手の経験によって「札幌」や「青森」という固有名詞に色がつく。そうではなくて、読み手の経験が反映しない無色透明に近い「北行き」であるからこそ、読み手は「北行き」に直面できるのである。

 

 

羽ばたきのようにかすかな音をたて郵便受けに降り立つ手紙

見渡せる町のひろさをてのひらに載せて記念写真を撮ろう

 

一方で、上記二首のような、言葉によって光景の輪郭をとらえている作品も『いちまいの羊歯』のなかに見ることができる。一首目はややデフォルメされているものの、郵便受けに手紙が落とされるときの乾いた響きと鳥の羽ばたきの音が重ねられている。遠近感の狂いによってくらくらとなる魅力とはまた別の、さっぱりとした良さがある。

 

二首目。こちらの歌は作品の内容としても遠近感が正しいのだけれども、言葉のつらなりとしても過不足がない。今回のコラムの前半にあげた作品群とは少しニュアンスの在り方が異なっていよう。

 

 

五分だけ遅れたひとの抱擁に冬のにおいを確かめる夜

右肩にささるあなたの嘴をもっと埋(うず)めるあなたを知りたい

 

 

まっすぐに貫かれるような相聞歌である。この歌集には、くらくらする魅力を持つ作品と突き刺さるような魅力を持つ作品が混在している。歌集を俯瞰してみれば、こうした混在にまたくらくらしたりするのだが、いずれにしてもたっぷりと時間をかけて読む価値のある歌集なのではないかと感じる。

 

國森がこれから先どちらかを捨ててひとつの方向に絞っていくのか、この混在を抱えたまま歌を作りつづけるのか、また別の選択肢を選ぶのか想像しても結論の出る話ではないのだろう。しかし、そうした想像を読み手に抱かせるには十分な振り幅を持った第一歌集であることに間違いはないはずである。