のどかな午後にわれは働く  ~この危機意識を稀釈するもの~

  短歌という短詩型は、わたしたちの生きている今という「時代」とどのように関わるのだろうか。こんな問いの立て方にどこか気恥ずかしさを感じながら、それでもわたしはとりあえずこの問いを提出してみたいと思う。どこに提出するのか、まずは、わたし自身のなかにである。

  短歌が文学の一翼をになう詩であるならば、人間のこころの問題と無縁でいることはできないように思う。「時代」と関わるとは、社会的事件や外交上の緊張関係にジャーナリズム的な批評を加えたり、政治的な党派性からなにかを言いたてることではない。文学と政治については戦後さまざまな論議がくり返されて来たけれど、わたしは基本的に〈政治〉というものに対して生理的な不信感をもっており、それでも文学は今という「時代」とまったく無縁であり続けることはできないと思っている。もちろん、文学は「時代」を斬ってみせたり、だれかを糾弾したりする器でないし、そんなことを文学の名においてするべきではないとも思っている。

  ここに、今年一月に出版された加藤治郎の第九歌集『噴水塔』(角川学芸出版)とその前歌集にあたる『しんきろう』(砂子屋書房)がある。加藤はライトヴァースの騎手として現代短歌の八〇年代以降を走りつづけ、最近では、戦後短歌史の新たな区分を提案し、「口語は前衛短歌最後のプログラム」であると宣言したことでも知られる。その初期から、ポップな言語感覚と独自のオノマトペで歌壇に新風を送りこむいっぽうで、〈神に武器ありやはじめて夏の朝気体となりし鉄と樹と人〉と原爆投下を歌い、〈ぼくんちに言語警察がやってくるポンポンダリアって言ったばっかりに〉と表現の危機を歌い、麻原彰晃や酒鬼薔薇聖斗を歌い、つねに時代に対する尖鋭な問題意識をたてた作品群を多く発表してきた。

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  まずは、最新歌集である『噴水塔』から引く。この集には父の挽歌にいい作品があり、歌集評ということであれば、本来そうした部分から筆をおこすべきだろうが、本稿ではすこし気になった別の作品のほうに足をとめてみたい。

 

   虹の彼方は真っ白だった乳ふさの風車の回る空を見上げて

   乳輪のごとき血痕貼りついた階段のその二段目を見た

   ひだり手にスポーツ新聞もっている俺を無害と思うなよ、今

   数人にフラグを立てるバタフライナイフをもっていそうなヤツに

   ともだちのだあれもいない会はてて橙色のミューズ石鹼

   この綿棒かたいぞなもしこの綿棒かたいぞなもし雪の夕闇

   あからひく朝の路上にころがるはアンパンマンの頭部なりけり

 

  「ともだち」と題する章に収められた十四首中の七首である。初出は「未来」(2012年10~12月号)誌上。バタフライナイフは、その後ダガーナイフとともに連続通り魔殺人事件の凶器として耳目を集めた刃物である。これらは虚構ではあるが、2008年6月の秋葉原無差別殺傷事件(凶器はダガーナイフ)以降に続発した一連の通り魔殺人を想起させる。「ひだり手にスポーツ新聞」を持っているのは、そこに凶器を隠しているからなのか。上記は「バタフライナイフをもっていそうなヤツ」にフラグを立てているのだから、いわば“通り魔予備軍”を標的にしているようにもみえる。いずれにしても、法の秩序の枠外での凶行を予感させる。口語で語られていることが、より不安感やスピード感を増幅する。

  さて、一首目は少年期の回想だろうか。「虹の彼方」にみえるのは「乳ふさ」のような白雲であり、風車の向こうがわにその柔らかな広がりは仰ぐことができた。爽やかな微風をはこぶ美しい光景である。二首目では、一転して「乳輪のごとき血痕」が階段に残されている。犯罪の痕跡を暗示する描写である。「乳ふさ」のような白雲は「乳輪のごとき血痕」へと変化し、それはあたかも犯行の序章と終章のような舞台の暗転を思わせる。そして、スポーツ新聞を片手に「俺」はバタフライナイフの所持者を探索するのだ。動機はなんであれ、「(もっていそうな」数人にあたりをつけるのだから、これは無差別殺戮にちかい。

  六首目の綿棒の歌も、「かたいぞなもし」という今ではほとんど使われることのない方言を挿入することで、微妙な身体的違和感を表出している。本来、問いかけの方言である「ぞなもし」は、一首のなかで反復されることで、他者不在の呪文(独語)のような印象へと転化する。おそらく、「雪の夕闇」にいるのは〈私〉ひとりである。「ぞなもし」という異物をノイズのように混入させることで、身体的な違和感は心理的なざらつき感へと変化し、次第に周囲との不協和音を生む不気味さにつながってゆく。この細い綿棒すら〈私〉には優しくないのだ。増幅された孤絶感はやがて凶行への発火点となってゆく、そんな印象をわたしに抱かせる。

  そして、路上に転がるのは切除された「アンパンマンの頭部」である。深沢七郎の『風流夢譚』の一場面すら彷彿させるのは、アンパンマンの首から血が流れていないからだろうか。あるいは、中学校の正門に切断した児童の頭部をおいた酒鬼薔薇聖斗事件(1997年/神戸連続児童殺傷事件)が意識下にあったかも知れない。

  そもそも、なぜこの一連は「ともだち」というタイトルなのか。ここには他者が登場していない。「ともだちのだあれもいない会はてて……」は、むかしの同窓会か何かだろう。「バタフライナイフをもっていそうな」数人は存在未確認の敵対者であり、朝の路上に転がっているのは「アンパンマンの頭部」である。徹底して他者不在の空間に、なぜ「ともだち」というタイトルがつけられたのか。あるいは、1999年以降に週刊漫画誌に連載されていた浦沢直樹の「20世紀少年」も影を落としているのかも知れない。あれは世間を震撼させたオウム真理教の犯罪を伏線に感じさせるが、「ともだち」というタームで洗脳された新興宗教の教団が、次第に勢力を拡大しつつ、多くの市民を襲って新たな世界制覇をもくろむ本格科学冒険漫画である。

  思えば、わたしたちの世界は了解不能な多くの因子に満ちている。やはり、「ともだち」は三首目の「俺」の内部にだけ存在する〈架空の他者〉ではないだろうか、とわたしは思い直している。酒鬼薔薇聖斗と名のる〈透明なボク〉が、殺した児童の生首を学校の正門におき、〈ボクの作品〉と称してながめ続けたように、それは「俺」の所有物として存在する架空の「ともだち」なのではないか、という気がわたしにはする。

  もちろん、以上はわたしの勝手な想像であって、加藤はこの一連で無差別殺戮を復元しようとしたのではない。ただ、現代という時代がコミュニケーション不全ののっぺりとした関係性のなかで、誰にもこころを開かない匿名性を生きていることに加藤は気づいている。〈閉ざされた自己〉のなかに完結することは、ときに自らの狂気をもやすやすと正当化してしまう。あの無差別殺戮の加害者たちの背後には、程度の差こそあれ、多くの加害予備軍がふつうの日常を暮らしているのだ。実行犯には至らない彼らとの境界は見定めがたい。それは電車のなかや、公園のベンチやデパートの店舗や、外見はどこにでもいる普通の人たちである。そして、わたしたちが彼らの外部にいるのだという保障もまったくない。加藤が描こうとしたのは、そんな人間の内面の不可視性であったように思う。それは、どこか〈現代〉という時代の混迷を象徴しているようにわたしには思われる。

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   ぺらぺらの紙ミサイルが飛んでくる弥生ニッポン花には早く

   一日艦長はチンパンジーなりちょうかいはゆく日本海まで

   ひらがなは和紙のようなりいかりつつこんごうはゆく日本海まで

   紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とすのどかな午後にわれは働く

 

  一方で、加藤の第八歌集『しんきろう』にはこんな作品がある。初出は「短歌研究」(2009年5月号)である。この年の二月、北朝鮮がテポドン2号改良型の発射準備を進めていると報道された。ミサイルは日本上空を通過するものの、その一部が日本に落下する危険性もあっため、翌月、浜田防衛相は破壊措置命令を発して、弾道ミサイル迎撃能力をもつ護衛艦「こんごう」と「ちょうかい」を日本海に配備している。実際にテポドン2号が発射されたのは四月五日であるから、作品が「短歌研究」誌上に発表された時期から考えても、四首目は発射される前の報道状況から仮構した作品と知れる。

  紙ミサイルを水鉄砲で撃ち落とす  ここで飛来するのは「ぺらぺらの紙ミサイル」であり、それを迎え撃つ護衛艦「ちょうかい」には一日艦長のチンパンジーが乗っている。国際的な緊張関係を脱臼して、子供たちのあそびか遊園地のアトラクションのように描くのは、緊迫するメディア報道を聞きつつも、「のどかな午後にわれは働く」という現実をわたしたちが生きているからだ。まるで、戸外に吹きあれる嵐をよそに防音サッシの内側で安穏とお茶を飲んでいる、そんなリアリティのない薄気味悪さに加藤は気づいている。

  それは、外交レベルの緊張関係が、日常生活ではお茶の間のニュース程度でしかない現実認識の落差だろう。日本の護衛艦配備に北朝鮮が「衛星を迎撃したら軍事的報復をする」と表明した緊張感はここにはない。あるのは、他国の挑発行為を他人事のようにながめる国内の無風状態である。もちろん「紙ミサイル」は都市を破壊することも人を殺すこともない。迎撃する「水鉄砲」も同じであり、それらはどこまで行っても血の流れることのない戦争である。

  血の流れない戦争などあるはずもない。それはそのまま現実感のうすい〈わたしたちの日常〉の比喩だろう。加藤は、「ぺらぺらの紙」のミサイルや「一日艦長」のチンパンジーを描くことで、北朝鮮の威嚇など所詮ポーズに過ぎないし、日本の護衛艦配備もどうせ政治的な配慮からくる壮大な茶番に過ぎないと嘆じているのではない。「弥生ニッポン花には早く」と当事者意識のうすい日本の国民性を揶揄しているわけでもない。ただ、「のどかな午後にわれは働く」という現実をどうしようもなく生きてしまっているわたしたちを自覚するところからしか、全ては始まらないのだと言っているようにわたしには映る。それは、加藤なりの危機意識のあらわれだろう。

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  短歌という定型詩になにが語れるか、言葉は無力であるのかないのか  といった大きな議論は今はおくとして、たとえば、無差別殺傷事件や国際的な緊張関係(まだ他にいくらでもある)に対して三面記事的な、あるいはワイドショー的な興味しか示せない〈私〉とはいったい何なのか。わたしたちのこころが悪に寄り添うことは絶対にないのか。「時代」と向きあうとはどういうことなのか、いずれもとてもむずかしい。それならいっそ、ささやかな日常の小窓からみえる草花を歌い、家族を歌い、恋人を歌っているほうが楽ではないか。いや、そうではない。日常の小窓からしか歌えないことをわたしはちっとも恥ずかしいとは思わないが、そこからみえる「時代」に自覚的であることが、そこから見えるこころの内景から目をそむけないことが、この詩型を紡いでいくものの役割なのだとどこかで感じている。役割などという大業なもの言いはなんとも恥ずかしいけれども、そう思うのだ。

  加藤治郎の「俺を無害と思うなよ、今」という自己規定や、「のどかな午後にわれは働く」という現実認識は、そうした意味で、どうしようもなくひとつの時代を生きてしまう〈私〉の内面へ内面へと降りていく作業だったのではないか。こころの内側によどむアンビバレンスを自らに抱えこもうとする営為だったのではないかと思えるのだ。