加藤 英彦


あたたかきかなこの世というは……

  中津昌子の第五歌集『むかれなかった林檎のために』(砂子屋書房)は、生命のおもさを静かにみつめた一冊としてわたしの記憶に残った。均整のとれた一首の構図の巧みさも印象ぶかい。あとがきによれば、本集から表記をふたたび現代仮名遣いに戻したのだという。歴史的仮名遣いのもつ豊かさに惹かれつつも、自らの「息づかいのこもる」一首を詠むために、現代仮名遣いの貧しさをもあえて引き受ける覚悟を明らかにしている。こうした表現者の自覚から生みだされる作品を味わえるのは、読者としてもうれしい。

  以下、やや作品鑑賞の域を越えてしまうかも知れないが、それぞれの一首が読者のなかにひらく空間をわたしなりに辿ってみたいと思う。

 

   釣り糸はしずかな力に張りながら水の内なるもの反りあがる

 

  どこかの湖水だろうか。釣り糸は垂らされた一点で水面と力の均衡を保っている。ぴんと張った糸の緊まりは、水のなかのある重量と引き合っているのだ。その力の均衡がやぶれた途端、飛沫をあげて反りあがるものがある。ひとつのいのちが姿をあらわす。

  おそらく、釣りの現場では一瞬のことなのだろう。それをあたかもスローカメラの映像のように、水の内圧をおしあげて一尾がゆっくりと浮上する。

  わたしは、ここから馬場あき子の次の一首を思い出す。

 

   昏れ落ちて秋水黒し父の(はり)もしは奈落を釣るにあらずや    『桜花伝承』

 

  ここで、釣りあげるのではないかと畏れたのは奈落のふかさである。わたしたちの生はいつも何か見えざる力と引き合っているのかもしれない。そう考えると、ぐいと引き寄せた糸の先に見えたものが巨き一尾であったことは、中津の一首において幸いである。そして、いちまいの水面にかくされた「水の内なるもの」という暗示のしかたが、わたしに馬場あき子の一首を呼びおこすのだ。あの湖底に暗く凝っていたのは、大きくしずかな不安のかたまりであったかも知れない。

 

   向かうべき的定かにてまひるまの弓は扇のごとくに開く

   出はじめた風に袴を吹かれつつ夕べあかるく弓をひくなり

   なにものかがふっと()りてくるまでをいっしんに引くゆうぐれの弓

 

  この集には、弓に関わる歌がいくつか収められている。今まで中津の歌集に弓が歌われていた記憶はないのだが、ここで弓弦をひき絞っているのは中津自身とみてよいだろう。作中主体が必ずしも作者本人とは限らないと考えているわたしなどには、的にむかう弓士を近くで見ている〈私〉とも読めるのだが、〈両足を大きくひらきもちあげる弓ゆうゆうと秋はふかまる〉、〈(うま)(ゆみ)はゆめゆめできぬものなれど馬上の風にあこがれやまぬ〉などといった作品から、ここは作者本人であると考えたい。いずれにしても、的までの距離に張りつめた微妙な空間のバランスをこわさぬように弓弦をひきしぼる。そのとき「ふっと()りてくる」ものとは、つがえた矢を放つ一瞬の気息なのだろう。

  そして、この「いっしんに引くゆうぐれの弓」にあらわれた時間と空間のしずかな調和点が、水面をはさんで釣り糸と魚が引きあう力の美しさをわたしに思い出させる。矢を放つ一瞬と水面の緊張をやぶって魚がすがたを現わす一瞬とが、わたしのなかで重なる。中津の作品には、そんな力学的な構図の均整美を感じさせるものが少なくない。

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   リンパ液が重たくたまるちちふさを日暮れの沼のように抱える

   肉体はこんな風に他人なのかむらさき色の線がひかれて

   はるさめがきらめくすじをひくまひる 長生きをせよと母に言わせる

   放射線当てたるところは汗の出ずさらりとつめたき右のちちふさ

   夕映えのつよすぎる部屋 肉体と私のあいだがゆるゆるとする

   にんげんはくらきものかな家々は軒をつらねて荒海に向く

   鈍き鯉体に飼えば朝ごとにひとつふたつと錠剤落とす

   沫雪のまだやまぬ窓 残されし乳房を蕾のようにも抱けり

 

  これらの作品は、集中にちらばって配されている。身体の異変がある通奏低音のように本集全体を覆っている、やがて〈私〉の体内に入り込んだ病魔は、今までひとつであると疑いもしなかった精神と身体との関係にも微妙な影を落とすのだ。

  二首目は、放射線の照射部位にむらさき色のペンで×印を付されたことを指している。肉体はすでに精神とはべつの身体器官であり、〈私〉は治療をうける身体をまるで友人の手術でも案じるように見つめている。それは、夕陽がはげしく射しこむ部屋で、「肉体と私のあいだがゆるゆるとする」という感覚のズレにも通じているだろう。かつて、〈両足を大きくひらきもちあげる弓ゆうゆうと秋はふかまる〉と歌った精神と身体との一致からはすでに遠い。

  汗のでない乳房を〈私〉は「日暮れの沼のように」抱えている。まるで、体内に一尾の「鈍き鯉」を飼ったような感覚なのだ。それは紛れもなく〈私〉の一部でありながら、知らぬ間に勝手に増殖をはじめた別の生命を思わせる。そんな体内の変化をみつめる中津の目が意外なほど冷静なのにわたしは驚かされる。

 

   右手置き左手を置きつつみ込むりんごが不安である筈はなく

   生も死もひとつのものにちがいなく草原なのかひかっているのは

   水にゆるびし昆布を重く引き上げる水を吸いたるものくらきかな

   風にもうかえされることなき体 風の体と押し合いながら

   生まれぬ方がよしとされたる生命の生後なければ死後もあらざり

 

  生も死もひとつらなりの始点と終点でありながら、それぞれが「ひとつのもの」であるにはちがいない。生とはすべてが夢であり、死はその夢からの覚醒にすぎないと言ったのは誰であったか。わたしは、こうした少しばかり気の利いた格言まがいをあまり信用していない。「生も死もひとつの」事実にちがいなく、生まれなかったものには「死後」もまた存在しないのだという中津の事実認識のほうが、わたしには親しく思われる。あるいは、自死した学生歌人・岸上大作に対して、「死者は死につづける権利しかもたない」と吐き捨てた長田弘のほうが、わたしには信頼できるのだ。

  四首目、五首目の歌は「化野」という一連にある。化野(あだしの)は鳥辺野、蓮台野とならぶ京都の三大風葬地であり、平安時代から野ざらしの無数の遺体を風葬により弔ったことで知られる。そのなかには水子供養もあったというから、五首目はそれを歌っているのだろう。だから、「生まれぬ方がよし」とは、現代の優性思想などではなく、飢饉や貧困から来る堕胎や間引きの結果として生を選ばれなかった魂たちがねむる場所である。これらの歌には、平安から鎌倉にいたる時代の極度な貧しさへの想像力が求められる。あちこちに死体がころがっている餓鬼地獄は当時の日常である。しかし、そうであってなお、「生後なければ死後もあらざり」という認識には、そんな当時の時代の宗教観に対置する現代の目を感じさせる。

  すこし角度をかえて、別の作品をみてみよう。

 

   影かもしれぬわたしよりのびこの影は日傘ゆたかにひろげて歩く

   向かい側の建物が迫っている窓の隅のところに青空たまる

   空ということばをわたしに教えたのは母だったろうあそこが空だ

   むかしへむかしへ戻りゆく母ひきもどすいっそうの舟わたしにあらず

   いつからを少女でなきか靴立ててうすくはりたる氷を毀す

 

  〈私〉は地上にのびた自分の影をみている。影はゆったりと日傘をひろげて歩いてゆくのだ。それは〈私〉という実在から伸びているはずなのに、まるで〈私〉からすっぽり抜けでたかのように歩いてゆく。〈私〉の身体から離れて落ちたいちまいの影  そこに、中津はもう一人の〈私〉を見ているのではないか。かつて、〈私〉の精神から身体が微妙にズレはじめたように、ここでは〈私〉の身体から離れて「影」がひとりで歩きはじめる。すこしずつ分裂する私  〈私〉という実在はいったい何であったのか。

  二首目は、林立するビル群が都会の空を限定してしまう。病室の窓からあおぐ空の狭さは、そのまま増殖をつづける都市の肥大化を象徴している。しだいに侵食されてゆく空の青が、都会の片隅にひっそりとたまっている。幼いころ、「空」という言葉を〈私〉に教えたのは母であった。

  しかし、「空」とはついに実体のない観念である。「あそこが空だ」と指さす空域は、地上のような具体をもたないただ茫漠とした抽象であり、壮大な虚である。確かに指さしているのに、なにも特定されることのない無限の空域。だから、空はわたしたちのいろいろな思いを呑みこむ大きな器たり得るのかも知れない。

  そして〈私〉は自らの少女期をふりかえる。いつから少女であることをやめたのか。それは〈私〉の意思のちからではなく、歳月の流れである。幼女期から少女へと月日がうごくように、いつか〈私〉も少女期の岸辺をはなれたのだ。やがて、壮年に至り老年をむかえる。そして行きつく先は死である。そんな歳月の酷薄さに対して、〈私〉は「うすくはりたる氷」を靴の踵で毀すのだ。

 

   ふっくらと胸のあたりに結び目を作りぬほどくためのスカーフ

   どこからも春はくしゃみの響きつつあたたかきかなこの世というは

 

  もっと整理して書こうと思いつつ、任意の作品についてただ思いつくままを記してしまった。わたしには、中津昌子はこの第五歌集でまた大きく羽ばたいたように思える。生や死をどのように引き受けるかという以上に、そうした歳月を生きる〈私〉という実在とは何であるのかといった大きな問いを抱え込んだように思うのだ。それは、わたしたち一人一人の問いでもある。

  スカーフの胸のあたりの結び目は、いずれほどくためのものである。そんな日常の所作にすら生の愛おしさはつまっているように思える。そして、あちこちから聞こえる春のくしゃみは、そこにこの世のあたたかな体温を感じさせる。読む者にさまざまな思いをひろげてくれる一冊である。