加藤 英彦


夢のつづりかた  ~新装版『高瀬一誌全歌集』にふれて

 今月、『高瀬一誌全歌集』が六花書林から刊行された。二〇〇五年十二月に編まれた『高瀬一誌全歌集』(短歌人会)の新装版である。高瀬さんが亡くなったのは二〇〇一年五月だから、あれからもう十四年七ヶ月、前の全歌集出版から数えてもすでに十年の歳月が過ぎたのだ。早い、とおもう。二〇〇一年五月十二日永眠、告別式は三日後の十五日に池袋の祥雲寺で行われた。

 そこにはわたしもいた。わたしにとって、通夜と告別式双方に足をはこんだ人は、高瀬さんとその三年後に亡くなった文芸評論家の小笠原賢二氏だけである。通夜には多くの弔問客が駆けつけたが、清めの席でたまたま隣あった辰巳泰子さんと茶碗酒を酌んで、ずっと高瀬さんの話をしながら泣いた。そして、静かに柩にねむる高瀬さんにお別れをした。

 翌日の告別式は、次年度事業の補助金のヒヤリングを受けるために、昼過ぎまでわたしは都庁の一室にいた。高瀬さんにお別れをするために、補助金の交渉に時間を費やすつもりなどなく、早々に切り上げて退出したのを覚えている。すでにだいぶん時間を経過しており、山手線の車中で喪服に着替え、池袋からタクシーに乗った。それから斎場のなかを走って着いたときは、丁度出棺を了えて火葬場に発つためのバスがうごき始めたところであった。間に合った、と思った。斎場の隅で手をあわせてバスを見送ったのが、わたしの告別式の記憶である。

 北鎌倉の墓所(円覚寺)を訪ねたのは、あれから何年後であったか。小雨ふる躑躅の咲く季節であったと思う。仏花を手向け、途中で求めた四合瓶の酒を墓石にそそいで無沙汰をわびた。怠惰なわたしは、そののちの墓参をしていない。

 わたしも高瀬さんには一方ならずお世話になったひとりだが、高瀬一誌は所属誌のだれかれを問わず、じつに多くの方たちの面倒をみていたので、これ以上ここで個人的な話をするつもりはない。ただ、高瀬さんに誘われて入った「十月会」は、在籍中とても多くを学ばせていただいたのだが、高瀬さんの逝去を期に退会した。不満があったわけでは全くない。高瀬一誌不在の会にのこる理由を見いだせない……というのが正直な気持ちであった。

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   のけぞるかたちの木一本ぞいま月光はほしいままなる

   魚一匹火だるまとなる火だるまとなす女ありたり

   うどん屋の饂飩の文字が混沌の文字になるまでを酔う

 

 作品のはなしをしよう。これは、第一歌集『喝采』(短歌新聞社)の巻頭におかれた三首である。このぶっきらぼうが高瀬調である。必要なこと以外は語らないので、一見不親切なのだが、じつは歌の味わいやひろがりはそこから生まれてくる。必要以上を語らないのだから、破調は必然である。多くは字足らずで、その不全感が読者の想像力を刺戟する。

 一首目。「のけぞるかたちの木」とは何か。実景であったかどうかは問題でない。「のけぞるかたち」の樹木はそのまま男を暗示する。月光をほしいままに浴びて樹の身体が反っているのだ。それは性愛の暗喩だろう。二首目の「火だるま」となる魚と女の関係も同じである。それらは、意味以前の男女の関係性を彷彿させる。三首目は、酩酊した目にうどん屋の「饂飩」が「混沌」と見えたのだが、そのことを歌いたいのではない。あからさまな人間の生そのものが「混沌」なのだ。佐藤佐太郎の「電車にて酒店加六に行きしかどそれより後は泥のごとしも」の「泥」にも通じるものがあるかも知れない。生の混沌、それは人間の本然である。

 基本的に、わたしは作品の背後にひとりの実人生を重ねて読むことをしないので、そうした人生の具体を強いて来ない高瀬短歌はわたしにとって読みやすい。しかし、作者が求めてもいないのに、読者であるわたしは作品の背後にどうしても高瀬一誌というひとりの男を見てしまうこのパラドクスはどうしたらよいだろう。黒縁めがねの奥からこちらの内蔵まで見られてしまうような高瀬一誌の目、うつむき加減に煙草を燻らせながら徳利をかたむける高瀬一誌の風貌、髪をかき上げながらふっとひと言で本質をいい切るしずかな断言、そして「あはは」と笑うときのあの屈託のなさと豪放磊落さ。わたしは結社に属していないので、高瀬さんとはもっぱら歌壇上でのおつき合いだったが、この人はどこか深くて大きな壺を体内に温めているのだという印象が濃い。だから、高瀬短歌を読むとき、人間高瀬一誌(あの黒縁めがねとしずかなだみ声)はわたしのなかでは作品とセットである。

 

   魚屋の魚が笑うかな声もたぬものは今日みな笑うかな

   所在なげにいれば蟷螂の喧嘩を見にゆかんという

 

 一首目は『喝采』から、二首目は第二歌集『レセプション』(短歌新聞社)からの引用である。「笑う」は高瀬の短歌によく出てくるが、人は笑っている顔が一番かなしいのかも知れない。作品では、魚屋にならぶ魚が小さな口をあけて笑っている。そして「声もたぬもの」たちはみな笑うのだという。この一首の眼目は下句にある。声をもたぬものたちの笑い、それは生きることのかなしみ以外の何ものでもないだろう。

 二首目もそうだ。鎌首をもたげた蟷螂の争いをふと目にした妻が、傍らにきて高瀬を誘ったのだ。日々のとるに足りない些事も「蟷螂の喧嘩を見にゆかん」という小さな場面の転換で空気がうごく。蟷螂同士の喧嘩はだれも傷つかない、平穏な日常のささやかな風景である。きっと、高瀬は妻の誘いに応じてほうと腰をあげたにちがいない。いつも多忙を極めていた高瀬がふっと息をぬくひとときがそこにある。

 

   神経のいちばんほそいところここかもしれぬトマトで冷やす

   もの忘れした顔はすこしずつジラフに近しと奥さんがいう

   雨傘がどんどん海へつづくのが鬱のごとしいや祭りのごとし

 

 この三首は、第三歌集『スミレ幼稚園』(短歌新聞社)にある。「神経のいちばんほそいところ」がどこなのか分からないが、そこにそっとトマトをあてるのだ。平板な連想かも知れないが、わたしはふと、微熱の梶井基次郎がつねにレモンを握っていたことを思いだす。あのレモンの冷えとこのトマトの冷たさは同じだろうか。あるいは、熱のぬけない梶井が仔猫の肉球をまぶたの上に乗せて、その冷たさを愛したことを思いだす。おそらく、高瀬のトマトもそんな自然の冷たさであったろう。その冷たさで「神経のいちばんほそいところ」を癒やすのだ。

 二首目の、少しずつジラフに近づいてゆく顔もまたいい。もちろん、「奥さん」とは三井ゆきさんだが、存在の孤独を象徴するようなジラフの影を高瀬の横顔にみたのだろう。妻は言う、ではなく「奥さんがいう」というあたりもいかにも高瀬調である。

 三首目がどういう情景から導かれたのかは分からないが、まるで世界の終末をみるような一首である。この「雨傘」はすべて黒でなければならないとわたしは思うのだが、その光景はまるで「鬱」の葬列のようであり、いや「祭り」のようであるという。この「鬱」と「祭り」は反意語ではなく同義語である。つまり、海へとつづく壮大な「鬱」の行列は、あれは精神の祭りなのだと見ている。人はみな心のどこかに鬱の傘をひらくのであり、その幾万もの花のような「鬱」がしずかに海へと向かうのだ。この海はこれから迎えるべき死ではなく、還るべき母の胎内を思わせる。

 

   つぶしたいものがあるのかバスは一回あとずさりをする

   そこから生まれたごとし赤ん坊広口の壜めざさんとす

   表を上にして入れて下さい眼のない自動販売機なれば

 

 この三首は、第四歌集『火ダルマ』(砂子屋書房)から引いた。『火ダルマ』は高瀬さんの死後に「短歌人」の総力で纏められた一冊である。第三歌集以降の「各雑誌に発表されたものを総てそのまま収録した」と中地俊夫さんの解説にある。選歌をしていないから、作品数は七百十余首と多い。作品は年代順、発表順に並べたもので、発刊までの手配はすべて当時「短歌人」の編集人であった小池光さんがあたられた。

 一首目。狭い道路であったのか、曲がるときにバスは一回ハンドルを切り返しただけなのだろう。しかし、見方のよっては、なにか「つぶしたいものがあるのか」と思わなくはない。普通はそうは思わないが、高瀬一誌にはそう感じられた。絶対にあり得ないが、絶対に絶対にあり得ないわけではないと思わせるところが、高瀬さんの目のおもしろさである。その日、運転手は何かこころに面白からざることがあって、道にころがる空の段ボール箱か、2リットルの空のペットボトルかを、巨大な車体で圧し潰そうとしたのではないか。乗客には狭い道幅を曲がるためとみせかけて、職場のあるいは家庭の憂さをはらすために、自らのハンドルさばきを駆使して目的を完遂したのではないか。目的物は完全に圧しつぶされて、運転手はにまりと嗤う。その数分のできごとの背景には、運転手にしか分からない物語があったにちがいない。そう、絶対に絶対にあり得ないわけではない、と思わせるところが高瀬一誌である。

 二首目もそうだ。一心に「広口の壜」にいざり寄る赤ん坊は、まるで生まれでた口へと戻ろうとしているかのようだ。赤ん坊にとって広口のむこうは母の胎内である。ふと社会にこぼれでてしまった失敗に気づき、一生懸命に子宮へ子宮へと還ろうとするさまはどこか滑稽であり、どこかかなしい。今ならまだ間に合う、と赤ん坊は小さなあたまで思ったかもしれない。

 そして、三首目の自動販売機には目も口もない。「表を上にして入れて下さい」とは紙幣の投入口に貼られているのだろう。千円札を逆に入れた途端、喉につまってげっと吐きだすのだが、自販機には目がないので涙もでない。そう思うと、「表を上にして入れて下さい」とは彼の悲痛な懇願である。どこか前掲の「声もたぬものは今日みな笑うかな」と似たものを感じさせる。それは自らの意思を表明できないもの、一方的に受容することしかできないものの悲哀だろう。あるいは、そこに患者として入院していた高瀬一誌の共感装置が働いたのだろうか(いや、結構おもしろがっていただけかも知れない)。

 

   ひそやかな風も凪ぎゆくゆふぐれの海はやさしき表情をする

   疲れやすきこころを(ささ)へしつとりと霧の街より濡れて帰りき

   途方もなく夢ある童話つづりたくこの夜心に組みたててゐし

   失つた風景のなかに夏があるあなたが振れる手のしろさなり

   うつむきの姿いつから身につくか灰色の世代とわれら呼ばれて

 

 一、二首目は、歌誌「をだまき」(1950~1951年)から、三首目は「をだまき」の合同歌集『飛天』(1951年)、四首目は歌誌「短歌人」(1953年)、そして五首目は『新歌人会年刊歌集』(1955年版)から引いた。いずれも「初期歌篇」として全歌集に収められた二十代前半から半ばの青年期の作品群である。初期の高瀬作品は、定型で旧かなであった。この抒情性豊かな青年の目と感性の屈折をわたしは眩しく思う。その後、「途方もなく夢ある童話」は綴れたか。あるいは、それは形をかえて後年の高瀬の人生の一部を形成したのではないか。より強かで腰のある〈途方のない夢〉を生きたのではないか。

 高瀬一誌は人をまとめ、場をまとめる名人であった。与えられた状況にひとつの方向性を見いだし、集団を牽引していく力に長けていた。高瀬さんの目はやさしいと多くの人たちがいう。その目はどこか人生の観察者のようなところがあった。そして、あの黒ぶち眼鏡の奥にゆれる孤独もまた多くの人たちが見ていただろう。おそらく、それを誰よりも身近に知っていたのは、妻である三井ゆきさんだったにちがいない。

 

   太陽のひかりあびてもわたくしは まだくらやみに立ちつくすなり

 

 これは、歌集『火ダルマ』掉尾の一首である。太陽のひかりを浴びても、なお暗闇に立ち尽くしているという感覚、これはおそらく逆説ではない。このとき、高瀬一誌は本当にこころの暗闇に立っていたのだ。今度ばかりは高瀬の力をもってしても勝てないかもしれない病魔のまえに、しっかりと両脚をつけて立ちつくす。ただ、この暗闇はまったく出口のない闇ではない。「まだくらやみに立ちつくすなり」だから、いずれは光の射すところへと出ていく可能性を予見させる闇である。この「まだ」に、わたしは高瀬さんのかすかな生への意志のうごきを感じる。

 周囲に心配をかけまいと入院先をだれにも明かさなかったのは、高瀬一誌の気遣いでもあり、美学でもあったろう。二〇〇一年五月十二日、午後九時十一分。闘病のはてに高瀬さんは七十一歳の生涯を閉じた。あの立ち尽くした暗闇にひかりが戻ることはなかった。

 年が明けたら、また北鎌倉の高瀬さんの墓を訪ねようと思う。その後の報告もふくめて、長年の無沙汰を詫びて来ようと思う。

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 一年間担当させていただいた砂子屋書房の月のコラム「うたの雫、詩のしずく」も、今月が最終回となる。振り返れば、歌や詩よりも死にかかわることにより多く筆をはこんできたように思う。小高賢、小野興二郎、冨士田元彦、佐佐木由幾、岡部桂一郎、高瀬一誌さんをはじめ、東日本大震災の数多くの死者たちに至るまで、なにか鎮魂にあけ暮れた一年だったような気がする。気ままな筆はこびにお付き合いくださった読者の皆さまには心から御礼申し上げます。また、この貴重な場を与えてくださった砂子屋書房の田村雅之さんに、そしてこのサイトを実務面で支えてくれた砂子屋書房の高橋典子さんにも、心より感謝申し上げます。

 本当にありがとうございました。