身銭を切る痛覚について  

 

『現代短歌』三月号の特集「分断は越えられるか」は、わたしたちに問いかけてくれる意義あるテーマだった。七年目の三月十一日を迎える福島の地でひらかれたパネルディスカッション「分断をどう越えるか~福島と短歌~」(パネリスト斎藤芳生・高木佳子・本田一弘 司会大田美和)を芯に、大田美和の基調講演「分断と文学の可能性」記録、佐藤通雅評論「リセットということ」を加え、さらに沖縄から屋良健一郎評論「分断をもたらすもの~沖縄の現在~」、 またフェミニズムをテーマに瀬戸夏子評論「非連続の連帯へ」、貧困をテーマに山田航評論「「貧困の抒情」のために」という、大型企画である。

 

「分断」は、ことあたらしい問題ではない。戦争だって、相手側の戦力に分断の切れ目を入れた方が勝ちで、計略の一つである。分断するには人間の欲と弱みにつけこむ。もう、わかりきった話で、古来どれくらい繰り返されてきたかわからないこの分断策が、昨今は権力と資金を持つ側によって、弱者の連帯の切り崩しと無力化に、あまりにも露骨につかわれている。

 

「分断は越えられるか」とは無力化される側からの問いかけであって、言い換えれば、遠い未来を見通しつつ、どれくらい人間の欲と弱みにつけこまれないで堪えられるか、ということなのだ。分断を仕掛けられる側の内なる欲と弱みを問うという、人間的かつ文学的なテーマである。

 

しかし、全体を見わたしたところ、多く社会学的な発想に重心が傾き、文学的発想に乏しい。大田美和評論に教えられて、東大教師たちの高校生向け講義録『分断された時代を生きる』をネットでさらっと眺めたけれど、ここに現れるキーワードが手際よくアレンジされて供されているというふうに見える。

 

文学的発想とは、どういうことか。それは「身銭を切る」ということだ。

 

 

個人的に、という言葉をキーで打って、どうしても気が重くなる。わたしは、自分のくわしいプロフィールのうちわけや、人生における体験の話を、短歌とかかわる場でするのが、嫌だ。(略)けれど、ここで、この問題について、わたしは身銭を切ろうと思う。                      瀬戸夏子「非連続の連帯へ」

 

昨今の比較的若い世代以下では、瀬戸夏子と同じように短歌という場で「身銭を切」りたくないと考えるひとたちが多いように思う。「私性」嫌忌、私小説嫌い。

だが、文学というもの、芸術というものは、おのれ一個の現実体験のまっただなかから生まれてくるものである。特殊の井戸を掘って、普遍に通じていく。それを、文学的発想という。社会学によるアプローチとは違って、おのが羽根を一枚ずつ抜く痛覚のまぼろしがどこかに残った言葉の織物、それが文学というものだ。

 

別に直接体験として告白しなくても身銭の切り方はいろいろあるだろう。「身銭を切る」ことを厭う感覚の蔓延について考えさせられるが、ともかく、このたびの瀬戸夏子の文章は「身銭を切」ってくれたおかげでよくわかった。
そういう流れで、山田航の「「貧困の抒情」のために」を読むと、これもよくわかる。それと屋良健一郎、この世代の評論は、佐藤通雅や大田美和の世代のものに比べて共通して焦点がずいぶん近いことも特徴である。この二つの世代のアトモスフィアにもまた「分断」があるのだ。

 

わたしは大きく括って、佐藤や大田の世代のもつアトモスフィアを生きてきたので、そこから瀬戸や山田や屋良の「扉をたたいて」みたいと思う。

 

「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい    俵万智

 

この歌に、瀬戸は「それまでの俵万智らしからぬ、思い切った啖呵」「余裕のなさ、を強く押し込んだ強引さ」を感じ、惹かれるという。それから、「女によるミソジニーの群像を書ききった桐野夏生の小説『グロテスク』の帯に「勝ちたい、勝ちたい」と印字されていたことが忘れられない」という。

 

わたし個人について言えば、勝負事に無関心、勝ってもあまりうれしいと思わないタイプで、ちょっと唖然とするような俵万智の歌だが、しかし、瀬戸が「勝ちたい、勝ちたい」という強迫観念に近いものを感じてしまうという、そういう感覚は理解できる。

 

「グローバルな競争の激化によって、コストパフォーマンスの低いものはすべて役に立たないものだとする考え方がこの社会を覆った結果、歴史的に俯瞰する視点を持つ余裕がなくなっているためでもあるでしょう」という大田美和の整理のとおりで、勝ち組だの負け犬だの、一九九〇年代以降にこんな見方はいっそう露骨になった。

 

しかしながら、そもそもフェミニズムという思潮そのものが、明治以降、身分制度の枠をとっぱらって、近代資本主義体制導入ののちの自由競争社会にはいって生まれたものである。女も自分の能力で勝ち上がりたいという、そういう上昇志向・権力志向を最初から帯びている思潮である。そういう側面については、ことに第二波フェミニズムにおいては、批判的反省的にとらえる思想的な営みが模索され、少しずつ蓄積されてきている。

 

だが、このことをもって瀬戸夏子に「勝ち負けの問題じゃない」などと説得したいのではない。そうではなくて、こんな話をしてみたい。

 

 

 十八世紀、身分差別のあった江戸時代の大阪に、町人たちが学びへの意欲やみがた く学者と連携して創建した懐徳堂という学問所があった。そろばんや道徳のような実用向きではない。「自然・人間・社会認識を包括する知識の体系」(子安宣邦)すなわち人間とは何かということを探求する学びが、そこにはあった。農民も、町人も、士族も、学びたいものなら誰であろうが、学ぶことのできる場であった。
 伊藤仁斎は、京都堀川に古義堂を開設すると同時に、「同志会」という自主学習組織を作った。「聖人の道への志を同じくするものが相集い、励まし合い、学問に努める組織」(同前)である。そこでは、仁斎も一人の同志であった。先達ではあるが、師匠でも教師でもない。
 その同志会規則の最後にはつぎのように記すという。
「一切世俗の利害、人家の短長、および富貴利達、飲味服章の語、最も当に誡しむべし」。

                          (「八雁」創刊の辞より)

 

 

身分制度は「分断」の制度化である。儒教の浸透によって、性差にはさらにひどい「分断」があった。山田航は「歌集を自費出版するだけの貯金のないことが「貧乏」であり、短歌との接点がそもそも得られないのが「貧困」だ」というけれど、町人階級ではよほど上流でなければ和歌との接点は得られなかっただろう。身分制のもとでは文化資産に最初から隔離された層がある。女は、そこからさらに隔離される。

 

それでも、人間の能力というものは、いつでも、どこでも機会さえあれば芽生えるものだし、ひとたび芽生えたら力強い。文化資産がなければ、自分たちで養おうじゃないか、場所を作ろう、先生を呼んで来よう。勉強しよう。

 

読み書き算盤を超えた「「自然・人間・社会認識を包括する知識の体系」(子安宣邦)すなわち人間とは何かということを探求する学び」は、当時にあっては上流階級の専有物であった。それを学びたいという動機には、上昇志向も混在・潜在していたはずである。

 

だからこそ、古義堂の自主学習組織「同志会」は、学問が上昇志向・権力志向のための手段になってはならないということを自覚していた。どんな人でもそこに参入できるが、世俗の利害を言ってはならない。家柄も関係ない。とりわけ富貴利達に関心が走ったり、うまい食事や良い着物を着ることに関心が走ってはならない。「人間とは何かということを探究する学び」にいちずになって、おのれの精神世界を覚醒させ、成長させること。そこに歓びを見る。

 

日本における近代精神の目ざめである。わたしは、この懐徳堂と古義堂の話が大好きだ。たしかに、女性の権利獲得運動も必要だし、現代における貧困の問題も大切だ。だが、わたしたちは文学をやっている。一個の身銭を切って、その痛覚をたよりに、フェミニズムのことも、貧困のことも、福島のひどい政治のサボタージュのことも、あのことも、このことも、そこから発想しつつ言葉の織物にしていきたいものではないか。