田中槐


読み直されるべき『林檎貫通式』

いきなり訂正からで恐縮だが、先月追記に書いた「ホンアミレーベル」について、最新は飯田彩乃の『リヴァーサイド』で、これが十二冊目に当たるということらしい。大変失礼いたしました。ただ、本阿弥書店のサイトでホンアミレーベルを検索しても出てこないし、いったいホンアミレーベルがどういったレーベルなのかは、あいかわらずわからないままだ。

 

さて、錦見映理子が第34回太宰治賞を受賞した『リトルガールズ』の単行本化に続けるように、昨年末に『めくるめく短歌たち』(書肆侃侃房)を刊行した。これは「NHK短歌」で2013〜17年に連載されていた「えりこ日記」を中心にまとめられたもので、巻末には穂村弘との特別対談を収録している。

連載時も興味深く読んでいたのだが、あらためて主に2000年前後の話題が多いことに注目したい。錦見自身が短歌をはじめたころでもあり、ある意味、インターネットというものが短歌の世界と濃密にかかわりはじめた時代であった。本のなかに出てくる「チャット(チャットルーム)」「掲示板」「ブログ」「ユーストリーム」「ツイッター」など、懐かしいネット用語から最新のものまで、短歌とネットの親和性を思い起こさせる。

その話はまたあらためて書くとして、この本のもっとも重要と思われる飯田有子『林檎貫通式』の問題に触れたい。

 

『めくるめく短歌たち』では、「女子だけが集められた日」と題された文章のなかで、こんなふうに語られる。

『林檎貫通式』をいま読み直してみると、従来の性別に対する意識を書き換えるような歌が多いことに気づく。フェミニズム的な歌の系譜の最先端に置くべきなのかもしれない。(p59)

この歌集には男女が特定しきれないカップルや男の子みたいに立ち小便する女の子など、ジェンダーが未分化な人々が出てきて、自由な気分になる。くっきり分けて把握できると思い込んでいることが疑わしくなる。(p60)

「NHK短歌」連載時にはここまでだった指摘が、本書では、同人誌「66」での座談会の該当部分を続けて収録することで、さらにこの歌集のフェミニズム要素を突き詰めている。続くその「貫かれたフェミニズム思想」をまるごと引用したいくらいなのだが、順を追って読んでいきたい。

まず、錦見は、

穂村弘さんがこの歌集(『林檎貫通式』:筆者注)が出る前年の秋に「たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になでまわす顔」を「現代短歌秋の饗宴シンポジウム」でとりあげて以後、この文体を短歌として許容できるか、といった話題になっていた(p61)

と指摘する。わたしにも記憶がある。このころから、ネット上でも総合誌等の時評や『林檎貫通式』の歌集批評会でも、とにかくこの歌をどう読むか、これは短歌なのか、といった議論があちこちでさかんに行われていたものだ。

二〇〇二年の角川「短歌」の年鑑に穂村さんが書かれた「酸欠世界」という評論の冒頭に「枝毛姉さん」の歌を引いて「異常なまでの他者の希求が感じられる」「世界が酸欠状態にあるから、歌が喘いでいる」と書いている。最後には「雪まみれ〜」の歌(雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ:筆者注)を引いて「決定的に〈酸素〉が足りない世界で生きてゆくために、人間は機械に〈進化〉したのだろうか」と書いている。「『絶対泣かない機械となりぬ』からは、もはやある安らかさに似たものが感じられる」「永遠に自らの心に苦しまない、という絶望的な安らかさである」と結論づけている。/この結論部分にはなんとなく違和感があった。でも『林檎貫通式』を当時の私はうまく読み切れず、違和感の有り処がはっきり摑めなかった。(p62)

このように、錦見は穂村の解読に対する違和感を感じていたと表明する。当時はまだその違和感は違和感にとどまっていたわけだが、十年以上たって「NHK短歌」に「女子だけが集められた日」という前出のエッセイを書くことによって、「この歌集がフェミニズムの思想に貫かれた一冊であることが明確に立ち上がってきた」のだと語る。

この「雪まみれの〜」の歌にうたわれている「きみ」の性別は、従来の視点から読めば(作者は女性だから)「男」だと読んでしまう。しかしフェミニズム的な視点から読めば、この「きみ」は明らかに女性(作者と同性)に見えてくる。ほかにも「この歌集に出てくる二人組の性別の特定し難さ」にも意味があると錦見はいう。

…これらの歌に出てくる二人は男女の恋人同士というよりきょうだいや同性同士のような、性別不明な感じがする。(中略)二人があまり上下にならないから。向き合っていたり、並列で寝ていたり、同じ服を着たり。対等な関係性をつくっている。男女的なパワーバランスの悪さが感じられない。ジェンダーレスのユートピアみたいなものを作り上げようとする意識が強かったのではないか。(p64)

さらにこの先が重要なのだが、「そのことと、定型からの逸脱と、口語による非常に先鋭化された文体というのは、セットとして考えるべきだったんじゃないか」ということに気づくわけだ。

「定型からの逸脱」や「口語による非常に先鋭化された文体」というのは、「たすけて枝毛ねえさん〜」を代表とする飯田有子の歌に対する、穂村弘の読解によって話題となったタームである。当時、そのことばかりに論争は終始していた。そこに重大な見落としがあったことを、錦見は指摘している。

 

『めくるめく短歌たち』で注目すべき点は、まさにこの箇所だと思うのだが、それを補強するかのごとく、巻末の穂村弘との対談でもこのことに触れている。そこで穂村弘は飯田有子について

…歌集をまとめるというときに、初期や中期の作品は全部カットされていて、限定された世界を作っていた。そのときに彼女(飯田有子:筆者注)の決意を読み取るべきだったんだろうけど、僕もそこまでキャッチできなかった。(中略)今だったら誰でもそう読むと思うんだけど。僕も自分の関心に従って「枝毛姉さん」に言及したことが、結果的に評価をブレさせてしまった。(p161)

このように素直に当時の自らの認識の甘さを認めている。時代が変わったということでもあるだろうが、錦見のこういった指摘がなければ、あるいは穂村自身も気づかないままに過ぎてしまった可能性さえある。飯田有子はすでに短歌をやめてしまっている。

いまだに「枝毛姉さん」の歌を正しく(?)解読できているひとはいないような気がするものの、『林檎貫通式』はあらためて、まさにフェミニズムの視点から読み直されなくてはならない歌集なのだろう。座談会で穂村弘が「早かったんだよね」とひとことで答えているように、この歌集が早すぎたのであれば、平成が終わろうとしている今こそ再評価されうる可能性を思う。そしてそれは「貫かれたフェミニズム思想」の後半で錦見が触れているように、瀬戸夏子の第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』との共通項を見出すことによって、姿をより鮮明にするのかもしれない。