ウイルスに蹂躙さるる春は悲しマスクしてシュークリーム買ひぬ 小島ゆかり (歌壇2020年5月号)
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理屈は、常に人間の味方だ。
このウィルスは基本的にヒトからヒトにうつる「飛沫感染」と、飛沫物のついたモノを介してうつる「接触感染」である。
したがって、飛沫を飛ばすヒトに近づかないようにすれば飛沫感染は防げるし、たとえ飛沫が付着したモノに触ったとしても、そのあと手洗いによる手指消毒を徹底すれば接触感染のリスクを大幅に減らすことができる。
吊革を握りてきたる手をあらふこんなことしかできぬ暗愚(おろか)さ 小池 光 (角川短歌2020年5月号、以下「角」と省略※)
握手して別れたいので済みません手を洗ふまで待つて下さい 風間博夫 (角)
今はもう使われてない鐘楼のように手ばかり洗っているよ 平岡直子 (研)
結句「暗愚さ」の一語から、僕は人智と人徳の限界に思いを馳せずにはいられない。それでも手を洗うことは、確実に安全をもたらすと言える、人間の知恵である。手を洗うのが正解だ。手を洗おう。
クルーズ船二月の孤絶の景となる捕らへられたる白鯨として 梅内美華子 (短歌往来2020年4月号)
一隻のクルーズ船の泊(は)ててより悪夢のごとし日々のニュースは 竹村紀年子 (研)
あの大型クルーズ船が横浜港に停泊したのが二月三日。乗船者の集団感染が報じられたあの日々から、まだ三ヶ月も経っていないことに驚く。
川野里子は短歌往来五月号で「船歌(バルカローレ)」三十三首を発表した。
発熱し白い巨船は浮かびをり埠頭にわづかな海を挟んで 川野里子
あの船と呼ぶときこの船おほいなるかたちあらはす日本といふ
〈汚れた道〉〈清潔な道〉たちまちに交じりあふとふ人界なれば
シウマイ弁当四千個のボリュームふつと消ゆあの船とこの国のあはひに
見捨つるやうに鷗飛び去り病む船と病みゆく孤島よりそひ残る
川野は「境界」を見つめ詠う。港と船のあいだに横たわる「わづかな海」という境界だ。
三首目、あの告発の衝撃を覚えている方も多いだろう。勇躍、クルーズ船に乗り込んだ岩田健太郎医師は、船内の「清潔(グリーン・ゾーン)」と「不潔(レッド・ゾーン)」とがまったく分けられておらず、指揮系統も定まっていないことをYoutubeで暴露した。
乗客の長期隔離を選んだ一方で、ぐずぐずと崩された内部の境界。その暗澹たる淵。川野はクルーズ船の顛末に、あてどなく浮かぶ「おほいなる船」日本の姿を見た。
クラスターつて果物の房をも言ふらしい熟れたぶだうの汁が飛び散る 黒木三千代 (研)
コロナウィルス威嚇するがに口あける画面を前に日々語る人 神谷佳子 (研)
まもなく屋形船、ライブハウス、医療機関や福祉施設でのクラスター発生が相次いで報告され、四月七日に発令された緊急事態宣言は、十六日には日本全土に拡大となった。
短歌総合誌でも、いよいよ新型コロナウィルスを詠んだ作品が増えてきた。
目から入るウイルスもある 闇に咲く桜のなかに目をひらきたり 吉川宏志 (研)
ガラス面にコロナウィルス生きている どこに帰るかとりあえず訊く 東 直子 (短歌往来2020年4月号)
ウィルスの性質が詠まれた歌。その正体をつかもうと、種々の情報が世界を飛び交っている。吉川と東の歌に共通するのは、肉眼では見えないものを見つめ、詠おうとする意志である。
雪のなき冬でありしがウィルスが飛びかひやまぬ春となりたり 林田恒浩 (研)
ウイルスを含んだ空の暗い雲降りこめられて雨の日ひとり 小川佳世子 (角)
心はづむ卯月の地球へ襲ひくる宙の悪魔のコロナウイルス 永平 綠 (研)
ウィルスは見えない。見えないから、どこにいるかわからない、どこにでもいる気がする。その不安は大いにわかる。しかし最初に述べたとおり、このウィルスは飛沫を介して感染するもので、空気中を漂うたぐいのウィルスではないことがわかっている。「悪魔」の形容はあやうい。
コロナウイルスといふ悪霊のごときもの蹤きくるやわれとわが門を入る 馬場あき子 (研)
「悪魔」にたとえるくらいなら、と僕は馬場の歌に立ち止まる。人間に取りつく「悪霊」のイメージは、たしかに案外このウィルスの実体に近いのかもしれない。ただし、消毒すれば退散する悪霊だ。
このウィルスは一部の感染者が重症化する一方で、多くの人間は感染しても無症状で経過するという二つの顔を併せ持つ。この厄介きわまりない性質から、自分もいつの間にかどこかで感染したのではないか、そして感染させるのではないかと人々を疑心暗鬼にさせる。
誰かわたしの喉の形をなでてゐる感じウイルスなどがざわめく 尾崎まゆみ (研)
潜伏期といふ無言が恐怖呼び戸棚の奥のマスクをさがす 栗木京子 (研)
予防に関して、大切なのは手洗いだと書いた。マスクを過信するべきではないと僕は考える。
それはさておき短歌に詠まれることが多いのは、手洗いよりも、圧倒的にマスクである。
マスクもて閉ぢたる表情、息遣ひ こころ見えがたくす新型ウイルス 蒔田さくら子 (短歌往来2020年4月号)
怪盗のごとくに黒きマスクして人は行き交ふ春の銀座を 小柳素子 (研)
黒ひげか黒マスクなのかわからざる男が駅の向こうから来る 中川佐和子 (研)
ウィルスを不安に思わない人はいない。その表情すら、マスクによって互いに覆い隠されてしまった。
地下にゐるのつぺらぼうが人間に変りつつあるエスカレーター 惟任將彦 (壇)
顔の下半分だけが平等に白く塗られてヒト科の新種 小佐野 彈 (研)
直接そう書かれてはいないものの、マスクをつけた顔を詠んだ二首。メディアでは早くも「ポスト・コロナ社会」が取り沙汰されつつある。人間が、これまでと同じ人間ではなくなってしまうのかもしれない。小佐野の「ヒト科の新種」という表現にはそんな変容の予感が反映されていそうだ。
不織布のマスクのなかに暖まり酸乳のようなにおいも嗅ぎぬ 浜名理香 (角)
花も木も雲もマスクをしておらずわれら均しく塗りつぶされて 松村正直 (研)
ふくらんだままのマスクが道にあり街にも口があることを知る 川島結佳子 (研)
薄羽のマスクこぞって飛び去りぬわれらが使い捨てにされおり 遠藤由季 (角)
マスクがないと泣いている君こんなにも生きているのが遠い日暮れに 佐伯裕子 (研)
不慣れな長時間のマスク着用。手に入らないマスク。生活は一変してしまった。川島の「街にも口がある」という見立ては、なにか人間の息苦しさを詠んだ歌のようにも思える。
富士山のきれいな朝にしろたえのマスクの人がつぎつぎに乗る 後藤由紀恵 (往)
気がつけば立春の朝、紅梅の花あふがむとマスクをはづす 小林幸子 (壇)
白加賀の耀い咲ける花のした感染よけのマスクを外す 金子正男 (研)
はなにらのさく土手をこえ多摩川のほとりにゆかんマスクはずしに 藤島秀憲 (研)
マスクを外して花を見る、という歌を僕は総合誌でたくさん読んだ。みな、息苦しさから束の間でも解放されたいのだろう。
さくらばな病のごとく咲き滿てり愛の犬なるわがまなかひに 水原紫苑 (研)
令和よ早く終れよ朝のモチノキの実がはろはろと風に零れる 林 和清 (研)
僕自身は花を見に行く心の余裕もなく、今年の桜も、穏やかな気持ちで眺めることはできなかった。花も自然も変わらない。なのにウィルスは人々の心のあり方を変え、自然詠を変えてしまった。
公共施設すべて休館の放送が朝の冷気を裂きて流れぬ 梶原房恵 (往)
謝恩会は中止となりぬ謝恩会係のわれら菓子を配りぬ 永田 紅 (研)
この春は短歌のあらゆるイベントが中止に追い込まれた。歌会や歌集批評会、短歌講座。NHK短歌の収録も見送られたそうだ。編集会議や全国大会の運営など、結社も頭を抱えている。
みやざきを遂に襲ひつひさかたの光冠(コロナ)といへるウイルスたちが 長嶺元久 (往)
疫病に人のかげなき奈良町の重い空気が肺に溜まりぬ 田中教子 (研)
人生のどこにもコロナというように開花日の雪降らす東京 俵 万智 (研)
街からは人影が消えた。
結局のところ感染者数を減らすには、人と人との接触を減らしていくしかない。そこで「不要不急の外出を控えよう」との呼びかけが始まった。だが「不要不急」の言葉が一人歩きするのは危険である。誰かと会うこと、集まることは要不要の問題ではない。「不要」や「不急」を理由にできないことが増えていく、そのストレスが人々の心を追いつめるのだ。
生活は、だいじょうぶかな砂にむしばまれるようなスケジュール帳 川谷ふじの (研)
注意して息を吸はずに吐くだけにしてゐる車中なぜか疲れつ 島崎榮一 (往)
五月まで続けているか関節でエレベーターのボタン押す所作 笹 公人 (研)
出歩かぬ高齢者にならぬやうにせむマスクを着けてズックを履きぬ 大山敏夫 (研)
わが柩搬ばむ一人先立たせバイラス満つる春をまだ死なず 藤井幸子 (研)
耐え忍ぶ生活。川谷作品の「生活は、」と初句の後ろに置かれた読点から、先の見えない暗さがにじむ。息を吸うことにも、ボタンひとつを押すことにも疲労感が伴う。
「自粛とわたしとどっちが大事?」(抱き寄せて)そんな質問をさせてごめんね 斉藤斎藤 (研)
見た目ではわからぬならば蓄縮(きつしく)の老人を今はとほまきにせよ 外塚 喬 (往)
見上ぐれば白木蓮はどの白も孤立を保ち蕾を掲ぐ 玉井清弘 (研)
僕は「理屈は、常に人間の味方だ」と書いた。反面で、その「理屈」こそが容赦のない分断を進めてもいる。ソーシャル・ディスタンスの概念が端的な象徴だろう。
斉藤作品はカッコ書きの「抱き寄せて」が気になる。気になってしまう。抱き寄せるなんて、いわゆる濃厚接触ではないのか。と、読者としての僕は、歌のなかでさえ感染リスクを考えずに読むことはできなくなっている。この歌は、まあ、たぶんそのあたりも作者の想定内なのだろうけれど。
突然の休校となり学校の全ての荷物子は背負って来つ 花山周子 (研)
「二週間たったら授業ができますか?」生徒に聞かれ蛾のように黙る 千葉 聡 (研)
マスクする子らもマスクをせぬ子らも名を呼ばるれば竹のごと立つ 本田一弘 (研)
然うかそれなら恩赦だ単位をくれてやる、われは醜悪な嚔しながら 棚木恒寿 (往)
教育への影響は特に甚大である。ここ数日で、にわかに九月始業の議論が持ち上がってきたものの、実際にこの数ヶ月の学習空白は、どうやって埋めるのか。現場の混乱は続いている。
この国にヒーローやリーダーは存在しない。多くの教員が、声を上げることなくただ黙々と職務を果たしてきた。よかれ悪しかれ、僕たちの社会はそうやって支えられてきたのだし、おそらくこれからもそうだろう。
三月のあはれあはゆき信薄き宰相がやすやすと「コロナ」語れる 押切寛子 (研)
いよよパンデミックな影響を及ぼすコロナはオリンピックも制す 佐久間裕子 (研)
死者の数一人増すたび前髪がひらりひらりと抜け落ちてゆく 道浦母都子 (研)
死者ゼロであったのならば後手後手の馬鹿な施策を笑ってりゃ済んだが 森本 平 (研)
その是非を論じるのは、僕の手に余る。いま、この時に考えるべきことでもない。感染症の拡大という非常時にあっては。いつか状況が変われば、優先順位も変わるだろう。
ひらくたび頁が濡れているような『コレラの時代の愛』という本 大森静佳 (研)
江戸の世のころりに虎狼狸の字を当てし人間といふ無力可笑しも 澤村斉美 (研)
口包帯(マスク)やら落とし紙やら買ひがたき浮世の久波也(くはや)えわらはず也 島田修三 (研)
こころもよ滅ぼすあはれ疫癘は養和二年に令和二年に 小谷陽子 (角)
歴史を紐解けば、苦難の道を歩んできたのは僕たちだけではなかったことを教えてくれる。
河野美砂子は短歌往来五月号に「三月 二〇二〇年」三十三首を発表した。
ふれないで、とながれる声にエスカレーター手すりが光りつつ降りてゆく 河野美砂子
一度だけ降つた今年の雪のこと誰も言はずただ手を洗ひ洗ふ
ひと一人も居ない客席 明るさに波立つてくる500のシートが
いのちといふ言葉ぐきぐきと三月は呼吸の仕方がむづかしくなる
花鎮めのやすらひ祭 幾億の花芽のなかであの舟を焼いた
見える/見えぬものの広がる三月が何回も来る生きてゐる間に
エスカレーターの手すり。三月以降、まざまざと変わってしまったその存在感。
早春の雪、無観客のコンサート・ホール。
それら光の流れに導かれるようにして、作者の思いは過去の三月に起こった災厄、地下鉄サリン事件や、東日本大震災の記憶をめぐっていく。
黒いマスクが似合ひさうなる啄木は「時代閉塞の現状」を書きし 米川千嘉子 (研)
あの春のマスクは十分足りてゐてうさぎのやうに孤独だつたと 大口玲子 (壇)
現代に啄木を重ねる米川作品。九年前の「あの春」を思う大口作品。
社会詠の意義とは社会問題を解決することではなく、自分たちが直面しているものを記録し、歴史のなかに位置づけるところにあるのかもしれない。
疫病も神かと問へば春こだま道祖神(くなど)の石を撫でて過ぐるも 喜多弘樹 (研)
臘梅の花を照らせる光見ついまだ知らざる光の感情 伊藤一彦 (研)
ウイルスは聖火のごとく手から手へ運ばれてぼくらすべてを照らす 高島 裕 (壇)
パンデミックが戦争のような不幸と違う点があるとすれば、それは見方によってはどこまでもひとつの自然現象だということだ。
人智の及ばないものへの畏れ。それはときに、光となって僕たちに降りそそぐ。
まじないの「微分積分タンゼント」唱えてコロナ鎮まるを待つ 菅原恵子 (壇)
鳥の神さかなの神の慕わしくアマビエの絵を鬼門に貼りぬ 富田睦子 (研)
薬師如来の梵字記しし紙マスク日に二百枚つくれり僧侶ら 前田康子 (研)
相手が大いなる自然ならば、残された道は「祈る」ことしかないのだろうか。
桜越し薄々光る満月よ明日から渡航制限となる カン・ハンナ (研)
華の国に教へ子達を持つ君にこのウィルス禍収束はいつ 御供平佶 (研)
アメリカの銃砲店の銃売れ尽くすコロナ禍くれば町は荒れむと 森山晴美 (研)
問題は、もちろん日本国内にとどまらない。隣国は、世界はどうなるのか、等しく深刻な局面を迎えている。
話がすぐ大きくなってしまうのは僕の書き手としての悪い癖だけれど、自然詠、社会詠、そういったカテゴリーを超えていく今回のウィルスを前に、短歌は、どう応えていけるのだろう。
うばたまの情報といふウィルスの広がる早しウィルスよりも 香川ヒサ (研)
疫病の蔓延とともに人々は物語に侵されていった 佐佐木定綱 (研)
人類はウイルスにより滅びるといふ恐怖により人類は滅ぶか 花山多佳子 (研)
塚本邦雄はこの国への愛憎をこめて「あぢさゐに腐臭ただよひ 日本はかならず日本人がほろぼす」という作品を残したが、まさか現代短歌が全人類の行く末を案じなければならなくなるとは思いもよらなかった。
花よいかに世はなりゆかむコロナとふ花裂くならむ中国の春 櫟原 聰 (研)
ウイルスの旅にも終はりはあるはずよ にほんすみれが小さくつぶやく 竹安隆代 (往)
やがて誰も居なくなるのか三月のこのリビングをひざしが悼む 荻原裕幸 (研)
ひとあまた病む日々なれど生命居住可能惑星(ハビタブル・プラネット)なお優しきひびき 佐藤弓生 (研)
感染終息に希望を託す竹安作品。人間の絶滅エンドを詠んだ荻原作品。そして人類移住エンドの可能性を示した佐藤作品。
ウィルスよりも早く、人から人へと伝わるものがある。
それが言葉だ。
したしたと列島侵すコロナウィルスの正しく恐れるといふ恐れ方 植松法子 (壇)
ウイルスを「正しく怖れよ」の名言は瓢簞鯰の問ひのごとしも 中野昭子 (研)
学者も、政治家も、アナウンサーも異口同音に呼びかける、あの「正しく怖れましょう」という言葉。東日本大震災のときにも聞いた。放射線を正しく怖れましょう、と。
この言い回しの元をたどれば、寺田寅彦の随筆に由来するという。「小爆発二件」と題された、八十五年も前の文章だ。浅間山の噴火について書かれた原文の「正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」が、知らず知らずのうちに、この国が未知の危機に瀕したとき掲げられるスローガンとなった。
寺田はまさしく「理屈」を味方につけよう、と伝えるつもりでこの一文を書いたはずだ。ところが現代ではパニックを抑制し、人々の内面を統制する目的に転用されている。
グローバリズムが感染拡大を招いたことは否定できない。しかしネットワークの発達によって、あらゆる言葉が世界に共有されるようになった。そのことに僕は希望を見出したい。残念ながら、ウィルスに人間の言葉は通じない。けれど僕たちは、言葉で、言葉を武器に、これから長い戦いを挑んでいくことになるだろう。
僕たちの言葉は、正しく脅威に立ち向かうことができるだろうか。
※短歌引用の出典は、角川短歌2020年5月号を「角」、短歌研究2020年5月号を「研」、歌壇2020年5月号を「壇」、短歌往来2020年5月号を「往」とそれぞれ省略しました。