土岐友浩


続・ウィルスと現代短歌

つい一ヶ月前、僕は「緊急事態宣言は全国的に延長されそうな見通しだ」と書いた。実際、五月に入って間もなく同月末までの延長が決定された。

一体いつまでこの異常な日常が続くのか。不安の晴れない日はなかったけれど、いざ連休が明けてみれば思いがけず、国内でのピークアウトの傾向がはっきりと目に見えはじめた。そしてそのまま、五月二十六日、緊急事態宣言は前倒しで解除されることになった。

およそ二ヶ月。長かったような気もするし、短かったような気もする。

何をしていたかと言えば、ただ自宅にこもっていた。
 
 
この身には濃厚接触者などをらず水仙を見て家に入らむか  中根 誠 (往)

ドラマティック『とはずがたり』を読みいたり不要不急の外出やめて  小西美根子 (壇)

籠りゐる日も歌はむか胸ぬちにモーツァルトの椋鳥を飼ふ  柴田典昭 (往)

硝子にてわづかにゆがむ庭をみる Covid-19をGoogleでみる  藪内亮輔 (壇)

残りわづかな消毒液を噴霧してドアノブ拭けば銀のかがやき  春日いづみ (往)
 
 
個人的にはCovid-19つまり新型コロナウィルス感染症に対する不安が最も強かったのは、始めのほう、二月くらいの頃だった。ウィルスの正体がわからず、情報を集めなければならなかったからだ。一月の時点では「ヒトヒト感染の明らかな証拠はない」とさえ言われていた。

そのうちに飛沫感染と接触感染に気をつければいいことがわかってきて、だんだんと、不安のいくらかは解消された。もちろん感染リスクが完全になくなったわけではないけれど、あとはインターネットで、現在どこにどれくらいの感染者が出ているかという情報だけをチェックして、自分にできることをすればいい、と思えるようになった。

 
それでも。

と、僕は自分の胸のうちにある違和感を拭うことができないでいる。

これはもっと漠然とした、不安とも呼べないような、もやもやとした感覚だ。
 
 
コンビニにあらずスーパーにもあらず遠き上毛(かみつけ)の実家にすがる  田村 元
上司との会議を終へて振り向けばホットケーキを妻が勧める
居酒屋に行けない日々はのつぺらぼう仕事に区切りがなかなか付かず
〈オンライン飲み〉に誘へば〈オンライン飲み〉の先約あると言ふ父
焼き鳥のテイクアウトを受け取りて店の奥へも会釈を返す
 
 
歌壇六月号の「セミハード」二十首から。

この四月五月の雰囲気を記録した貴重な作品となるのではないだろうか。トイレットペーパーが消えた街。オンライン会議。ホットケーキ。この歌が詠まれた時点では、まだ店頭に小麦粉が並んでいたのだ。

オンとオフの切り替えがなくなった「のっぺらぼう」のような毎日。五首目の「店の奥へも会釈を返す」からは、本当は店に入りたい、焼き鳥で一杯やりながら語らいたい、そんな無念の気持ちが漂う。
 
 
知り人に会ひても会釈して離るいまは只管三密を避け  佐藤慶子 (角)

「三密」とは仏の身、口(く)、意のことであるはずなのに驚きて聴く  桑原正紀 (壇)

無くなった芝居の話はいつだって出来るけれども人に会いたい  吉田恭大 (壇)

春の選抜高校野球中止とはコロナウイルスが夢を奪いぬ  河田勝博 (壇)
 
 
「夢を奪う」に心をつかまれる。

そう、奪われたのだ、と思う。

慣用句には違いない。だが、僕たちはやはり何かを奪われてしまったのだという確信は消えない。この感覚は、喪失感だったのだ。
 
 
人間に会へざりし日は花に会はん休耕田の自生の花に  宮原望子 (往)

陽の淡くさせる電車に下向いてくくく、くしゃみをがまんしており  鈴木陽美 (壇)

自粛疲れに街へ出でゆき鉄製のフライパン一つ買って来たりぬ  佐波洋子 (角)

咲き満つる桜花びら一陣の風に散りたり嚏(くしやみ)するごと  田宮朋子 (角)
 
 
ひとつには、人と会う機会が奪われた。短歌研究はいち早く「短歌、緊急事態宣言。」と銘打って各結社にアンケートを行っている。全国大会や歌会は軒並み中止になった。僕もこの二ヶ月のあいだ、仕事を除けば一度も他人と「会って」いない。
 
 
特養は面会謝絶義妹(いもうと)はこころ閉ざせり人来ぬ部屋に  髙安 勇 (角)

会うことのかなわぬ父母を想うとき曇り硝子に打ちつける雨  中沢直人 (角)

目に見えぬものに裂かれて老たちが終わりも見えずそれぞれひとり  鈴木英子 (往)

旧き日のスペイン風邪に逝きし親族三人の中のひとりわが祖(おや)  松井純代 (往)

スペインでおとうと死にき私には居らねど誰かのおとうと死にき  立花 開 (研)
 
 
家族と会えず、ときにそのまま家族を喪う悲しみは、言うに及ばない。最後に引いた立花の歌は不思議な一首だ。遠い国の、おそらく想像上の出来事が、まるで自分の身に起こったような痛みとして感じられる。
 
 
謂われなくスペイン風邪と呼ばるれど百年を経て謂われのごとし  小塩卓哉 (角)

人間の作りしものにあらねども人が伝へきウイルスも神も  内藤 明 (往)

有意流手(ういるす)と書けば流るる無数の手浮かび来るがに人群(ひとむれ)の見ゆ  大塚寅彦 (往)
 
 
僕たちから「それ」を奪っていったのは誰だろう。ウィルスか、人間か、それとも神の見えざる手か。わからない。何もわからないままに、日常は、いま、少しずつ戻り始めようとしている。
 
 
テレワーク始めたるらしおとなりの資生堂ビル日中鎮まる  倉石理恵 (往)

ふすまを開けてホットケーキを勧めおり電話会議を終えたる君に  鯨井可菜子 (研)

出歩き自粛テレワーク更にとああ又言ふ遣りたくとも出来ぬ人多からむ  大山敏夫 (往)

ひらがなは「あ」から習うのではなきことを子のオンライン授業に知りぬ  永田 紅 (往)

家庭科でマスクを作るという案を聞きながらノート点検終える  荻原 伸 (角)
 
 
仕事の歌と、教育現場の歌。テレワークもオンライン授業も、なんとかスタートすることができた。当然のことながら課題は山積みだろう。オンラインに置き換えられるものは、その方向で進んでいく。

 
奪われた、とは大げさな、あるいは贅沢な物言いなのかもしれない。

家族と会えない? タブレット端末で顔も見えるし、話もできるではないか。歌人と会えない? Zoomで歌会をすればいいではないか。

それは、たしかにそうだ。ネットの恩恵を受けなかったと言えば嘘になる。それを「会った」と言うのであれば、東京に住む友人とひさしぶりに会えたし、新しい出会いもあった。

 
それでも。
 
 
一車輌すべてマスクをつけるひと異形のコロナ・ウイルスは来る  鵜飼康東 (現)

春となるうすい鏡にモミアゲはマスクの紐で跳ねあがりおり  相原かろ (研)

すかすかの昼の電車に距離をとりマスクのままの卯月の日差し  中川佐和子 (往)

危機感が薄い、と若い同僚が叱られてマスクを購いにゆく  齋藤芳生 (研)

マスクとり揃いて試食の稀な時を新型コロナウイルスが呉れる  蔵田道子 (往)

図書館で振り返られる マツキヨで偶然買いしブラックマスク  大平勇次 (壇)

とにもかくにも笑っていよう笑い筋(きん)縮まぬようにマスクの奥で  本土美紀江 (壇)

二箱のマスク届くと言ふ時の眉間の縦皺ややもゆるめり  石井幸子 (壇)

顔半分マスクで隠しお互ひに心つかめぬままに別れつ  三島和子 (壇)

手話のひとはマスクはできず 指を輪に動かしコロナウイルス示す  前田康子 (現)

マスクして観客並ぶを舞台より防毒マスクの俳優(わざをぎ)が見る  久我田鶴子 (角)

マスクして土手道ひとり歩みゆくこぶしを握り風に向かいて  水野昌雄 (往)
 
 
総合誌にはマスクの歌が並んでいる。試食、図書館、観劇。違和感があるのは、今のうちだけなのかもしれない。みながマスクをつけ、多少の距離を意識しながらも、それなりのところに落ちつく日常。

僕は自宅のTVでYoutubeをなんとなく流し、手つかずだった歌集を読み始める。心配事はいくつかあるにせよ、変わらないと言えば、何も変わらない。

本コラムを書くために、前回、今回と僕は新型コロナウィルスを詠んだ歌をあつめた。生活様式の変化、対人関係の変化。様々な思いが読み取れる。さて、しかし。
 
 
出でず会はず話さずけふも過ぎゆくと夜の鏡に顔剃りてゐつ  蒔田さくら子 (壇)

休業の店の閉ざせるガラス戸に伸び放題のあたまは映る  島田幸典 (角)
 
 
たとえば、こんな歌はどうだろう。どちらも自粛生活の一場面を詠んだ歌だ。

「鏡」や「ガラス戸」に自分の姿が映っている。産毛の生えた顔。ずいぶんと伸びた髪。自分の身体に起きた客観的な変化を見つめている。
 
 
時さへも停(とどま)りがちの薔薇いろの闇にうかみてきゆる死の日は  吉田隼人 (壇)

マスクしてマスクはづして在る日々の白い春なり もうはなみづき  小島ゆかり (角)
 
 
客観的に見る自分の姿に、時間の経過を教えられる。

ということは主観的にはそれが、よくわからなくなっているのだ。吉田の「薔薇いろの闇」や小島の「白い春」は、茫漠と広がる時間のイメージだろう。
 
 
飯を食ひそのまま床でうたたねをしてゐるうちに齢をとるかも  永田和宏 (角)

赤と白、ロゼのワインを飲みついで自粛の春がくらり傾く  飯沼鮎子 (壇)
 
 
変わってしまったのは、奪われてしまったのは、時間の感覚そのものではないだろうか。

「不要不急の外出」を控えようという掛け声のもとに、僕の場合でいうと、映画を観に行けなくなった。喫茶店で過ごすこともなくなった。食べることや、飲むことくらいしか楽しみがない。正直なところ、楽しいのかどうかもあやしい。このもやもやとした終わらない白昼夢のような時間をやり過ごすために、飲んでいるだけなのではないか。

必要最小限の、単調な生活。それ以上に問題なのは、みながみな、まったく同じような生活を余儀なくされていることだ。

僕はこの二ヶ月で、自分の「時間」とは、外の世界があって初めて成立するのだと痛感した。自分と違う「時間」を生きている人々がいるからこそ、いきいきとした自分自身の時間のあり方を再認識することができる。

現状はどうだろう。先の見通しもなく、すべてが一様に流れる「時間」のなかでは、ただ流される以外の選択肢はない。どこを流れているのかも、いつしか自分が流されていることさえも、わからなくなってしまうだろう。
 
 
惨惨とふる牡丹雪そのなかに薄き花びら散り過ぎにけり  佐伯裕子

ときじくの木の実となりて雪は降り桜大樹をこなごなにする

街を斜めに降りしきる雪この街で生き残るには順番がある
 
 
角川短歌六月号の巻頭作品「ときじくの雪」二十八首から。「ときじく」は「非時」と書き、「季節を選ばない」というほどの意味になるようだ。

下句の「桜大樹をこなごなにする」からは、大きな時間の感覚、すなわち歴史が失われてしまったことへの作者の強い憤りが感じられる。

生き残るには順番がある、と僕はその意味もよく飲み込めないままにつぶやく。

順番。

失われたその感覚が戻ってくることはあるのだろうか。
 
 
 
※短歌引用の出典は、角川短歌2020年6月号を「角」、短歌研究2020年6月号を「研」、歌壇2020年6月号を「壇」、短歌往来2020年6月号を「往」、現代短歌2020年7月号を「現」とそれぞれ省略しました。