続・ウィルスと現代短歌

本コラムは毎月月末に書いて、一日に更新している。

一ヶ月前の五月一日の時点では収束の兆しも見えず、緊急事態宣言は全国的に延長しそうな雰囲気だった。ところが連休が明けてみれば意外にもピークアウトに転じ、五月二十六日には宣言も解除となった。

一ヶ月半。終わってみれば短かったような気もするし、途方もなく長かったような気もする。

何をしていたかと言えば、僕はただ自宅にこもっていた。
 
この身には濃厚接触者などをらず水仙を見て家に入らむか   中根 誠 (往)

ドラマティック『とはずがたり』を読みいたり不要不急の外出やめて   小西美根子 (壇)

籠りゐる日も歌はむか胸ぬちにモーツァルトの椋鳥を飼ふ   柴田典昭 (往)

硝子にてわづかにゆがむ庭をみる Covid-19をGoogleでみる   藪内亮輔 (壇)

残りわづかな消毒液を噴霧してドアノブ拭けば銀のかがやき   春日いづみ (往)
 
いわゆるステイホームの歌。藪内の作品は、子規の「ガラス窓に上野も見えて冬籠」などの病床詠を連想させる。ガラスの向こうに世界がありありと見える喜びを子規は詠んだのに対して、藪内は「わずかにゆがんで」見えると詠う。

この「ゆがみ」が意味するものを考えてみたい。
 
コンビニにあらずスーパーにもあらず遠き上毛(かみつけ)の実家にすがる   田村 元

上司との会議を終へて振り向けばホットケーキを妻が勧める

居酒屋に行けない日々はのつぺらぼう仕事に区切りがなかなか付かず

〈オンライン飲み〉に誘へば〈オンライン飲み〉の先約あると言ふ父

焼き鳥のテイクアウトを受け取りて店の奥へも会釈を返す
 
歌壇六月号の「セミハード」二十首から。緊急事態宣言下の生活を記録した貴重な作品である。

トイレットペーパー。オンライン会議。ホットケーキ。この時点ではトイレットペーパーが入手困難で、小麦粉はまだ店頭に並んでいたのだ。

著書『歌人の行きつけ』で知られる田村にとって、外食制限の辛さはどれほどのものだろう。「店の奥へも会釈を返す」からは、本当は中に入りたい、この焼き鳥で一杯やりながら語らいたい、そんな無念の気持ちが漂う。
 
知り人に会ひても会釈して離るいまは只管三密を避け   佐藤慶子 (角)

「三密」とは仏の身、口(く)、意のことであるはずなのに驚きて聴く   桑原正紀 (壇)

無くなった芝居の話はいつだって出来るけれども人に会いたい   吉田恭大 (壇)

春の選抜高校野球中止とはコロナウイルスが夢を奪いぬ   河田勝博 (壇)
 
「夢を奪う」に心をつかまれる。

そう、奪われたのだ、と思う。

個人的に不安が最も強かったのはむしろ始めのほう、二月上旬の頃だった。正しい情報を集めなければいけなかったからだ。一月の時点では「ヒトヒト感染の明らかな証拠はない」とさえ言われていた。

前回のコラムに書いたとおり、このウィルスは飛沫感染と接触感染に気をつければいいことがわかり、自分のやるべきことが見えてからは、だんだんと不安も和らいできた。しかし同時に、もっと漠然とした、気持ちの晴れなさも感じていた。

これは喪失感だったのだ。
 
人間に会へざりし日は花に会はん休耕田の自生の花に  宮原望子 (往)

陽の淡くさせる電車に下向いてくくく、くしゃみをがまんしており  鈴木陽美 (壇)

自粛疲れに街へ出でゆき鉄製のフライパン一つ買って来たりぬ  佐波洋子 (角)

咲き満つる桜花びら一陣の風に散りたり嚏(くしやみ)するごと  田宮朋子 (角)
 
まず、人と会う機会が奪われた。

自粛要請の掛け声のもとに、僕の場合、映画を観に行けなくなった。喫茶店で本を読むこともなくなった。
 
特養は面会謝絶義妹(いもうと)はこころ閉ざせり人来ぬ部屋に   髙安 勇 (角)

会うことのかなわぬ父母を想うとき曇り硝子に打ちつける雨   中沢直人 (角)

目に見えぬものに裂かれて老たちが終わりも見えずそれぞれひとり   鈴木英子 (往)

旧き日のスペイン風邪に逝きし親族三人の中のひとりわが祖(おや)   松井純代 (往)

スペインでおとうと死にき私には居らねど誰かのおとうと死にき   立花 開 (研)
 
離れた家族と会えず、ときにそのまま家族を喪う悲しみ。立花は想像の「おとうと」の死を、それも遠い国の死を詠う。まるで自分の身に起こった痛みのように。
 
謂われなくスペイン風邪と呼ばるれど百年を経て謂われのごとし   小塩卓哉 (角)

人間の作りしものにあらねども人が伝へきウイルスも神も   内藤 明 (往)

有意流手(ういるす)と書けば流るる無数の手浮かび来るがに人群(ひとむれ)の見ゆ   大塚寅彦 (往)
 
未曾有の危機への対応をめぐって、この国の特殊さも、グロテスクなまでにあらわとなった。いま、この状況を作り出しているのは誰だろう。ウィルスか、人間か、それとも神の見えざる手か。わからない。何もわからないままに、非日常は終わりを告げようとしている。
 
テレワーク始めたるらしおとなりの資生堂ビル日中鎮まる   倉石理恵 (往)

ふすまを開けてホットケーキを勧めおり電話会議を終えたる君に   鯨井可菜子 (研)

出歩き自粛テレワーク更にとああ又言ふ遣りたくとも出来ぬ人多からむ   大山敏夫 (往)

ひらがなは「あ」から習うのではなきことを子のオンライン授業に知りぬ   永田 紅 (往)

家庭科でマスクを作るという案を聞きながらノート点検終える   荻原 伸 (角)
 
仕事の歌と、教育現場の歌。テレワークもオンライン授業も、なんとかスタートすることができた。当然のことながら課題は山積みだろう。

奪われた、とは大げさな、あるいは贅沢な物言いなのかもしれない。

家族と会えない? タブレット端末で顔も見えるし、話もできるではないか。歌人と会えない? Zoomで歌会をすればいいではないか。

それは、たしかにそうだ。インターネットの恩恵を受けなかったと言えば嘘になる。それを「会った」と言うのであれば、東京に住む友人とひさしぶりに会えた。短歌研究では「在宅de LINE歌仙」と題して、SNSを活用した連歌の企画が掲載されている。

それでも。
 
一車輌すべてマスクをつけるひと異形のコロナ・ウイルスは来る   鵜飼康東 (現)

春となるうすい鏡にモミアゲはマスクの紐で跳ねあがりおり   相原かろ (研)

すかすかの昼の電車に距離をとりマスクのままの卯月の日差し   中川佐和子 (往)

危機感が薄い、と若い同僚が叱られてマスクを購いにゆく   齋藤芳生 (研)

マスクとり揃いて試食の稀な時を新型コロナウイルスが呉れる   蔵田道子 (往)

図書館で振り返られる マツキヨで偶然買いしブラックマスク   大平勇次 (壇)

とにもかくにも笑っていよう笑い筋(きん)縮まぬようにマスクの奥で   本土美紀江 (壇)

二箱のマスク届くと言ふ時の眉間の縦皺ややもゆるめり   石井幸子 (壇)

顔半分マスクで隠しお互ひに心つかめぬままに別れつ   三島和子 (壇)

手話のひとはマスクはできず 指を輪に動かしコロナウイルス示す   前田康子 (現)

マスクして観客並ぶを舞台より防毒マスクの俳優(わざをぎ)が見る   久我田鶴子 (角)

マスクして土手道ひとり歩みゆくこぶしを握り風に向かいて   水野昌雄 (往)
 
マスクは日常になった。試食、図書館、観劇。違和感があるのは、今のうちだけなのかもしれない。それが当たり前になれば、総合誌からもマスクの歌はなくなることだろう。

僕はニュースでどの地域にどれくらいの感染者が出ているのかをたしかめて、Youtubeの楽しそうな動画に切り替える。手つかずになっていた荻原さんの『リリカル・アンドロイド』や江戸さんの『空白』を、そろそろ読まなければ。

生活様式の変化、対人関係の変化。変わらないと言えば、たいして何も変わらない。

だがそれなら、僕はなぜ、こうして総合誌を隅から隅まで読んで、新型コロナウィルスの歌をあつめているのだろう。
 
出でず会はず話さずけふも過ぎゆくと夜の鏡に顔剃りてゐつ   蒔田さくら子 (壇)

休業の店の閉ざせるガラス戸に伸び放題のあたまは映る   島田幸典 (角)
 
たとえば、こんな歌はどうだろうか。「鏡」や「ガラス戸」に映る自分の姿。産毛、髪の毛。どちらも時間が経てば、勝手に伸びていくものだ。

ここで作者が見つめているのは、みずからの身体に起きた時間の変化である。
 
時さへも停(とどま)りがちの薔薇いろの闇にうかみてきゆる死の日は   吉田隼人 (壇)

マスクしてマスクはづして在る日々の白い春なり もうはなみづき   小島ゆかり (角)
 
客観的に自分を見ることで、時間の経過を教えられる。ということは、主観的にはそれがよくわからなくなっているのだ。

吉田の「薔薇いろの闇」や小島の「白い春」は、茫漠と広がる時間のイメージだろう。
 
飯を食ひそのまま床でうたたねをしてゐるうちに齢をとるかも   永田和宏 (角)

赤と白、ロゼのワインを飲みついで自粛の春がくらり傾く   飯沼鮎子 (壇)
 
歪んでしまったのは、奪われてしまったのは、時間の感覚ではないだろうか。

仕事が終われば家に帰って、食べることや飲むことくらいしか楽しみがない。正直なところ、楽しいのかどうかもあやしい。終わらない白昼夢のようなこの時間をやり過ごすために、漫然と食べ、アルコールを流し込んでいるだけなのではないか。

単調な時間。それ以上に問題なのは、誰もがまったく同じような生活を余儀なくされていることだ。
 
惨惨とふる牡丹雪そのなかに薄き花びら散り過ぎにけり  佐伯裕子

ときじくの木の実となりて雪は降り桜大樹をこなごなにする

街を斜めに降りしきる雪この街で生き残るには順番がある
 
角川短歌六月号の巻頭作品「ときじくの雪」二十八首から。「ときじく」は「非時」と書き、「季節を選ばない」というほどの意味になるようだ。

二〇二〇年三月二十九日。この日は南岸低気圧の影響で、桜の咲く東京に雪が降った。下句の「桜大樹をこなごなにする」からは、大きな時間の感覚、すなわち歴史が失われてしまったことへの作者の強い憤りが感じられる。

僕はここ数ヶ月で、時間の感覚とは、外部があって初めて生まれるのだと痛感した。自分と違う「時間」を生きている人々がいるからこそ、かけがえのない自分の時間を再認識することができる。

現状はどうか。先の見通しもなく、すべてが一様に流れる時間のなかでは、いきいきとした時間感覚など望みようがない。どこを流れているのかも、いつしか自分が流されていることさえも、わからなくなってしまうだろう。

生き残るには順番がある、と僕は佐伯の歌を読みつつ呟く。その意味もよく飲み込めないままに。
 
 
 
 
※短歌引用の出典は、角川短歌2020年6月号を「角」、短歌研究2020年6月号を「研」、歌壇2020年6月号を「壇」、短歌往来2020年6月号を「往」、現代短歌2020年7月号を「現」とそれぞれ省略しました。