ウはウィルスのウ?

詠うか、詠わないか。

いかに詠うか。あるいは、いかに詠わないか。
 
 
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「みんなが詠うものを敢えて詠わないというのも一つの姿勢だが、我々すべてに何らかの不如意を強いるこのコロナ禍が、歌にいっさい何の影も落としていないとしたら、それはまたあまりにも生活実感からかけ離れたものであるとも言わざるを得ない。」
 
 
永田和宏は「短歌研究詠草」の選歌感想で、こう述べる。永田が七月号で特選に選んだのは、フランス・リヨン在住の石田郁男の〈湾曲した滑り台のようなこの時はどこのくぼ地へ着地するのか〉など五首の作品。「湾曲した滑り台」の比喩が、「当事者のリアリティが十分に発揮された表現である」と高く評価された。

歪んだ時間の感覚。先の見通せない不安。前回のコラムに書いた状況は、海外においても同様だ。六月に刊行された短歌総合誌にも、もちろんウィルス関連の歌が並んでいる。
 
弥生より卯月はさらにみじかくてかがよふ花の散らふもはやし   児玉喜子

打ちはらうべき幻影の見えぬまま風に吹かれて歩むほかなし   藤井 治
 
歌壇七月号の作品から。

児玉、藤井の一連には、ウィルスのウの字も出てこない。出てこないのだが、「卯月はさらにみじかくて」や「歩むほかなし」は、ウィルスによる環境や心境の変化なくして詠まれることはなかった感慨だろう。

同号では「新型コロナウイルスで大変なことになってしまった今年の春を残しておきたい」と、十六人の歌人による特集「二〇二〇年の春を詠む」が組まれ、北海道から東京、大阪、福岡まで、全国から作品が寄せられた。
 
ひと気なき国会通りを明るます公会堂の上の満月   加古 陽

丸の内一丁倫敦ひた歩くマネキンたちのささやきのなか

背後から押す風ゆるく生ぬるく昔の人の匂いを運ぶ
 
特集の「夜歩く」と題された連作から。作者の加古は東京の新聞記者である。併録のエッセイによると、加古は仕事帰りに内幸町から東京駅までを歩く習慣があるのだという。日比谷、有楽町の人通りは緊急事態宣言を境に途絶え、マネキンがショーウィンドウに立っている。

二首目の「丸の内一丁倫敦」は、赤レンガのモダンなビル街を指す古い通称である。戦後の高度経済成長を経て「倫敦」の雰囲気は消えてしまったが、加古は夜に沈んだ街の空気に、ありし日の風景を重ね合わせる。

マネキンは寒空の下に何をささやいているのか。「昔の人」とは誰なのか。はっきりとはわからない。そこにあるのは、気配だけだ。加古は社会の変化を直接詠むのではなく、夜の東京を歩くことで、闇のなかに浮かび上がる「何か」を感じ取ろうとしている。

気配を描く、といえば短歌研究七月号に掲載された平井弘の連作「通つたところ」三十首も忘れがたい。
 
通つたところは覚えてゐるものだよ危ないはうへむかつてゐる   平井 弘

蟹くひざるつてのは弱いはうが喰はれつぱなしつてことだものね

近くにゐるそれだけのことだからひとりづつにならいつでもなれる

同じくらゐの力のところへまちがつてももちこまないでおきな

見てゐないみてゐないばあなんだおまへだけ見えてなかつたつてこと
 
不穏で不吉な、一首全体が丸ごと「何か」の比喩であるかのような気配。

一首目、強いて句の切れ目を探せば「通つた/ところは覚えて/ゐるものだよ/危ないはうへ/むかつてゐる」の48676となるだろうか。指折り数えてみればたしかに三十一音ではあるけれど、初句も結句も字足らずで、七五調のもたらす心地よさとはまったく無縁な韻律である。

平井の文体は、戦争を暗示的に描くための方法なのだと長らく言われてきた。二首目の「蟹くひざる」。「喰はれつぱなし」の一語から僕たちは、弱者の宿命を想像する。自然の摂理をいつしか離れて、喰われる蟹とは、喰う猿とは、いったい誰のことかと思いを馳せずにはいられない。

三首目、四首目の「ひとりづつ」や「もちこまない」に、思わず僕は身構える。これはウィルスの話ではないか。ウィルスのウの字は出てこないけれど、平井弘がコロナを詠んでいるぞ、と。

しかし。

ここに書かれていることは、あまりにも抽象的で、あまりにもつかみどころがない。

「近くにゐる」とは、人のことか、それともウィルスのことなのか。「同じくらいの力」とはなんだろう。「争い」のことだろうか。

一向に「読めた」という手応えがやってこない。「見てゐないみてゐないばあ」。力んで読もうとすればするほど、作品の声は遠く、手の中をすり抜けていくようだ。
 
新しい挨拶は「ホイップ!」「ホイップ!」この星さいきん太陽変えた?   雪舟えま

夏になったら使いたい石けんがあるただでさえ泡立たしい夏に

黄色い絵を買いにゆこうよ菜の花が光背だった春をしのんで

食べおえた皿しばし眺める 去年みんなで会っておいてよかった

この部屋のものにもう干渉はできぬと説明を受く星去る日
 
同じく短歌研究七月号には、雪舟えまの連作「地球をはみ出そう」三十首も載っている。

ここにもウィルスはウの字も出てこない。けれど、コロナのコの字ならありそうだ。たぶん。きっと。

一首目の「太陽変えた?」がそれである。

コロナの語源は「冠」で、太陽冠をも意味する。コロナと言えば陽光のイメージだったのに、世界的で真っ先に疫病を思い浮かべる名前となってしまった。

言葉が変われば、世界も変わる。二首目の「ただでさえ泡立たしい夏」は、感染予防のため石鹸を使う機会が増えたと解釈してみたい。もちろん正しくは「あわただしい」なのだけれど、「あわだたしい?」「あわただしい?」と一瞬わからなくなる経験は誰にもあるだろう。言い間違えたままの世界は、にぎやかで、とてもまぶしい。

雪舟らしい、テンション高めの日常。そのなかで、ふいに出くわす「春をしのんで」や「去年みんなで会っておいてよかった」などのフレーズ。

ああ、この人たちは。

この人たちは僕たちの悲惨極まりないこの世界と無関係な住人ではなく、地球のどこかで、ひょっとしたら意外と近くで、同じように暮らしているのだと気づかされる。
 
 
永田の言葉を繰り返すまでもなく、僕たちは当面のあいだ、宇宙船に乗って地球を脱出しないかぎり、それを詠むか、あえて詠まないかという選択から逃れることはできない。

読者の側はどうだろうか。何度か参加したオンライン歌会では、作品が「これはコロナの歌かどうか」で議論にならなかったことは一度もない。たとえば「遠くに行きたい」と詠んだとしよう。これまでなら単なる現実逃避願望と受け取られるところを、読者は、どこにも逃げ場のない自分の状況と重ねてしまうのだ。好むと好まざるとに関わらず。

二〇一三年ごろ、井上法子の歌に出てくる「火」が原発の「火」なのかどうか、論争になったことがある。僕はまったくそうは読まないのだけれど、その理由を考えれば、たまたま自分が地震からも原発事故からも遠かっただけのことなのだと、いまにして思う。
 
枝先をすこしかすめてドアは閉じエレベーターに散る小手毬よ   山階 基

ヨーグルトふた口で飽き宙をみる いま蝶々が壊れるところ   武田穂佳
 
短歌研究七月号から、若い世代の作品を見てみよう。

山階の連作「せーので」と武田の「煙の生活」から、それぞれ一首目を引いた。小手毬や蝶々は、いずれも春の季語。花は「散り」、蝶は「壊れる」。小さなものが静かに崩壊する、ささやかな不安の投影である。
 
疫病のふちどる暮らしいつ死ぬかわからないのはいつもでしたが   山階 基

汗だくでなお焼き肉に向かうようウイルスの風の中レジを打つ   武田穂佳
 
生活を丁寧に描写しながら、その生活を侵す「疫病」や「ウィルス」の存在を書きとめる。山階は「死」の予感を、武田は吹き出る「汗」をにじませながら。

永田和宏は歌壇七月号のインタビューで「自分にとっての人というのがどういうものであるかがこれからかなり大きなテーマになって出てくるような気がします」と述べた。

短歌研究七月号は「短歌、新生活様式、ビフォー・アンド・アフター」と銘打って、編集長の國兼秀二氏がFAXやインターネットを介した歌会の取り組みを紹介している。國兼氏は前回言及した「在宅 de LINE歌仙」にみずから参加するなど、新しい場の創出に意欲的だ。

テクノロジーを活用し、短歌の関係を見直すことは、つまり人と人との関わり方を考えることに等しい。仕事や教育、エンターテインメント、文化芸術がそうであるように、オンラインに置き換えられるものは、少しずつその方向で進んでいくのだろう。

一方で、オフラインの交流を模索する動きもある。吉田恭大はいわゆる「新しい生活様式」に即した歌会を工夫し、実践を始めている。フェイスガードを注文し、消毒液を準備して、机を離す。お菓子は配らない。

「実際の運用よりも、何となく再開していいかな、という楽観的な雰囲気になったり、逆に、開催しているグループに対して批判的な目が向けられたり、という世間の目のほうがしんどいな、と思います。」とは、試行錯誤しながらなんとか歌人の日常を取り戻そうとする吉田の実感として、重く受けとめたい。
 
ハッカ油を手首に垂らす花曇り会わないことはあなたを守る   山階 基

よくなるのを黙って待ってくれているホールケーキのような友人   武田穂佳
 
「会わないことはあなたを守る」。

「黙って待ってくれている」。

この静かなたたずまい、淡々としたつぶやきに、僕は現代の若者のリアルな関係性を見る気がする。

みながみな、という話をするつもりは毛頭ない。バイアスかもしれない。思い込みかもしれない。けれど、表面的にはお互い距離を取りながら、相手を静かに思いやる。そんな「思い」のあり方は、僕がウィルス禍に見つけることができた数少ない希望のひとつである。
 
 
 
 
吉田恭大「新しい歌会様式/構想編」
https://note.com/nanka_daya/n/nec34e8e12043

吉田恭大「新しい歌会様式/ガイドライン編」
https://note.com/nanka_daya/n/nc0bddd5c815d