土岐友浩


白き花、落ちたり

歌の好きな方だった、と思う。心から、そう思う。
 
その訃報を僕はTwitterのリツイートで知った。今年に入って歌誌「未来」に新作を発表され、五月号の編集後記には「検査結果は数値も良好です」と書かれていたので、快方に向かっておられるものとばかり想像していた。それだけに、突然という思いがある。
 
 
死がうしろ姿でそこにゐるむかう向きだつてことうしろ姿だ

ああこんなことつてあるか死はこちらむいててほしい阿婆世(あばな)といへど
 
 
しかし「未来」を読み返すと、岡井は自身の間近にありありと「死」の姿を見ていたのだと気づかされる。

上に引用したのは、「未来」六月号に掲載された「死について(続)」七首のうち、最後の二首。これ以降に詠まれた作品があるのかどうか現時点ではわからないけれど、少なくともいま僕たちが読むことのできる、最後の岡井の作品ということになる。

間近に見ながらも、ついにその「うしろ姿」しか捉えることのできなかった「死」。「阿婆世」とはなんだろう。当て字だろうか? その謎めいた言葉のたたずまいも含めて、岡井らしい絶唱だ。
 
 
フロイドの性欲説の肛門(アヌス)期(き)をここで便座につなぐなどてふ
 
 
一方で、四月号に載った「便座考」には、多くの人が面食らったのではないだろうか。食事中の方もいるかもしれないので引用は控えるけれど、もっと尾籠な歌もある。病み衰えた自分の、もっとも見せたくないはずのもの。それは精神分析学が、人間の最初の自己生成物として注目したものでもあった。

そのモチーフを、決して露悪的になることなく意欲的に言葉にしていく。そこにあるのは「表現」に対する強烈な矜持だろう。言葉もまた、人が最初期から生み出すもののひとつである。
 
 
訃報が飛び込んできた七月十一日のタイムラインでは、ぽつぽつと、雨が降りはじめるように、多くの歌人が追悼の言葉を口にしていった。

本当なら近しい人と集まって、それぞれの思い出を語り合いたかったことだろう。だが、このウィルス禍にあってはその場をもうけることさえ叶わない。結果として、と言うべきか、Twitterにはたくさんの言葉があふれ、それはそのまま、歌壇の枠組を越えて広がる岡井隆という歌人の存在感を示したようでもあった。

僕自身も、話したかった。ひとの話を聞きたくなった。真っ先に思ったことは、神楽岡歌会のみんなと会いたい、だった。以下、しばらく敬称をつけて「岡井さん」と呼ぶことにさせていただきたい。

実は岡井さんは、僕が卒業した愛知県立旭丘高校の大先輩である。そういうご縁はあったけれど、生前、お会いする機会は片手の指に数えるほどしかなかった。その貴重な機会のほとんどすべてが、神楽岡歌会だった。

神楽岡歌会とは、岡井さんが発起人となった「荒神橋歌会」「左岸の会」を継承して二〇〇五年に発足した京都の超結社の歌会である。関西で、鷗外の観潮楼歌会のような歌会をしたいと考えたのが始まりだったそうだ。

僕が神楽岡歌会にはじめて参加させてもらったのは、二〇〇九年三月。当時は島田幸典さんが司会をされていた。二十人ほどが参加する互選形式の歌会で、大辻隆弘さんも遠方から欠かさず参加されている。岡井さんはこの歌会に、ほぼ毎回FAXで歌を提出されていた。今風に言えば、リモートでの参加である。

毎月のように岡井さんの歌が読める歌会というのは、改めて思うに、幸福としか言いようがないものだった。何年かに一度、岡井さんが京都に来られたときは、歌会の他に、神楽岡歌会のメンバーの歌集を読み合う時間をもうけた。

僕の歌集についても評をしてくださったその言葉は、一生の思い出であり、宿題である。句またがりと作中の私性についてのコメントだった。このときのお話は、岡井さんがのちに「季刊文科」誌上で「句またがりと私性ばなれ」という一文にまとめられたので、よろしければご覧いただきたい。

ただ、このとき僕がいちばん記憶に残ったのは、拙作についての批評というより、岡井さんがなにげなく口にされた、「鷗外の時代は、句またがりではなく〈句またぎ〉と言ったのです」という一言だった。
 
句またがり、句またぎ。
 
どちらも同じと言えば同じようなものだけれど、「句またぎ」の響きに僕は心ひかれた。

現代短歌の用語として一般的に使われるのは「句またがり」のほうだけれど、「またがり」では、なんだか自然現象のようだ。「句またぎ」には、作者の意志を感じることができる。歌を詠むときは、そう、またごうと思ってまたぐのだ。

気のせいかもしれないが、僕はなんというか、詩の世界を切り拓こうとした鷗外ら先達の精神のあり方に触れることができた、と感じたのだった。
 
 
 
後年の岡井隆は、森鷗外への関心を強めていく。

二〇一六年に上梓された『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』は、その書名のとおり、鷗外の詩歌集『沙羅の木』を読み進めていく、その記録である。
 
 褐色(かちいろ)の根府川(ねぶがは)石に
 白き花はたと落ちたり、
 ありしとも青葉がくれに
 みえざりし、沙羅(さら)の木の花。
 
『沙羅の木』から、創作詩の巻頭作品。岡井は「象徴詩として、つまり、石や花やを寓意のあるものとして解いてみたが、もちろん、これを庭の景色をみつめて作った即興の詩として読むことも自由である。」と、「石」や「花」がなにかの象徴であることを仄めかした書き方をしている。

このたった四行の詩を「鷗外の一生を集約するものだ」と書いたのは、精神科医の中井久夫である(「病跡学と時代精神」一九七八年)。「病跡学と時代精神」は、「武」を奪われ「深い去勢感情が存在した」とされる江戸時代の武士の精神を、大石良雄と森鷗外を通して分析した論考だ。興味深かったので、その一部をここに紹介しておきたい。

観潮楼跡の「森鷗外記念館」の庭には、今でも沙羅の木が一本立っているという。

その意味で、これは岡井が書くように「庭の景色をみつめて作った」詩なのだが、中井は「悼みの詩、喪の詩である」と読んだ。中井によれば「褐色」は日本陸軍の制服のカーキ色を思わせ、「根府川石」は墓石に使われる石だとして、「寓意」あるいは「象徴」の内容により踏み込んでいき、一人の軍人の死のイメージを読み取る。
 
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第一、第三行末の「に」、一、二、三行末と四行前半のI音の押韻はよく響く効果的なものであるが、音楽的にもそれだけではない。「白き花はたと」「ありしとも青葉がくれに」に代表される頭韻alliterationはいずれも前行末尾を承けている。「石に」→「白き」「たり」→「あり」(しとも)。さらに暗く弛んだ、湿った音の奇数行と、明るく、張りつめて乾いた音の偶数行。これらの美は交錯して、日本詩の中で稀有な全き音楽性を持っている。彼は、それゆえにこそ詩集全体の題に同じ名を選んだのであろう。沙羅の木はわが国ではナツツバキであり、七月に咲く森の花である。(中井久夫「病跡学と時代精神」)
 
 
押韻、音の美の交錯、そして全き音楽性。

まるで岡井隆が「短詩型文学論」等で展開した韻律論の筆致と、そっくりではないだろうか。分析それ自体が、詩を読むよろこびと楽しみに満ちている。

ちなみに岡井隆は一九二八年生まれ、中井久夫は一九三四年生まれで、比較的世代は近い。岡井と中井は、それぞれの文章を読んでいたのか、どうか。僕が知るかぎり、直接の接点は少なそうだけれど、それだけに、二人の文章が鷗外の詩をめぐって響き合っているようで、深い感動を覚える。

沙羅の木とは、夏椿のことだ。上掲の論考で中井は、その一輪の落花から、鷗外が時代精神の死を見たのだろうと結論する。
 
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しかも夏椿は独立樹であり、樹林をなすことなく、多くの他種の樹々にまぎれてひっそり立っている。いっせいに花咲く樹でもなく、開花期に樹冠を仰ぎみてさえ、それと見分けがたい。ただ、一輪の落花をみて人ははじめて森に知られざりし沙羅の木の存在を知るのである。(中井久夫、同上)
 
 
岡井もまた、鷗外の詩に自身の姿を重ねていたはずだ。

花は落ちた。

その樹の大きさに、僕たちはようやく気づいたばかりだろう。
 
 
 
岡井隆『森鷗外の『沙羅の木』を読む日』(幻戯書房)
https://www.genki-shobou.co.jp/books/978-4-86488-101-2