真中 朋久


「わかる」ということ

大松達知が「コスモス」10月号の「展望」欄に「わからない、ということ」という文章を書いている。※1
直接には、「短歌研究」7月号の「批評について思うこと」という特集の中にある、吉川宏志「〈わからない〉を超える」という文章に対して書かれたものであり、さらに吉川の文章は、「短歌現代」4月号の来嶋靖生「『命』を韻律にのせる」を例にあげて論じているものである。
本欄でも、少しだけ触れた(※2)が「短歌研究」の批評を主題にした特集は6月号に続くものであり、それに触れて書いた人も何人かあった。すこし前の青磁社時評の川本千栄が口火を切った「批評」の在り方についてのあれこれの応答も、私としては何か消化不良な感じがするが、「批評」はどうあるべきかということについて、しばしば議論になることがあるようだ。

   *

広げると収拾がつかなくなるので、とりあえず吉川と大松の論をたどってみようと思う。

吉川はどういうことを言っているかといえば、本人が一文で要約している。

——引用ここから——
短歌の批評において「わからない』「理解できない」という言葉を性急に使わないほうがいいのではないか。
——引用ここまで——

わからない歌はある。けれど、いきなり「わからない」とは言わず一歩踏み込んで考えてみる。そのうえで少しわかるのか、わかってしまってつまらないのか、そういうことを論じ合うことが大事だということである。「『私は、この歌はよくわからないけれど、このように読んでみました。あなたはどのように読みますか。』という問いかけが存在していること。それが〈開かれた批評〉というものではなかろうか」と結ぶ。

それに対して、大松はこう書く。

——引用ここから——
しかし、実際には〈深くて難解でわからない〉のではなく、〈語彙文法面の配慮不足でわからない〉歌が多すぎると思う。読者に確実に言葉を手渡そうとするよりも、整理未然の言葉の断片を提示したとしか思えない不全な歌が多いのだ。その破片を拡大して深読みするよりも、「わからないなあ」と態度を保留することが作品に対して真摯なのではないか。〈吉川はそういう状況を踏まえた上で、敢えて言っているように思えるが。〉
——引用ここまで——

なるほど両面あるだろうなあと思う。

一歩踏み込めば、あるいはちょっとした推敲のポイントを示唆するようにいくつかの解釈を検討しながら読むような批評であれば、ぐんぐん立ちあがってゆく歌が、「わからない」と拒絶されることで失われてしまう場面。逆に単なる推敲不足をことさらに妙味として持ち上げたり、素材あるいは主題を過剰に読みとることで作品と作者をスポイルしてしまったり。
この応答について言えば、(大松も押えているように)吉川は「敢えて」言っているのであり、また「性急に」という前提で言っているのであって、具体的な批評の場面では、これはやはり両面が必要なのだ。

吉川と同じ結社に属しているから、吉川に加勢するために出てきたわけではないのだが、もうすこし具体的な場面について書いておこう。
歌会の場などでは、吉川が良いという作品を、私が「無理では?」といったり、私が肯定する作品の欠点を吉川が突いたり……ということがよくある。互いに攻守変えながら両面をやっているのだ。足りないところを突いてくれたり埋めてくれたりすると思えば、思い切ったことが言える。「わからないなあ」と言いきったうえで「吉川さんどうです?」と振ることもできるし、欠点がいろいろあっても、思い切って「迎えた」批評をすることもできるのだ。
これが、批評の「しんがり」を一人で対応しなければならないような場面(教室、ゲストで招かれた歌会など)になると、とても緊張する。活字の批評でも、基本的には両面を押えなければならないだろう。

このあたりは、一般論であるが、大松の苛立ちは、その次の部分のほうにあるのだろう。

——引用ここから——
ある狭い枠組みの中だけでの作品生産・享受システムはまだ残っているだろう。しかし同時に、結社での言葉の修練をしない層が多く台頭している。彼らは、散文に還元すれば興味深い内容を生み出している。知的に武装する。しかし、まだ表現面での鍛錬が行き届かないうちから、ひとりひとりが「作者」として尊重されすぎているようだ。集団的な裸の王様状態に陥っている可能性もある。
だから、きちんと「わからない」と言うことは不可欠なのだ。こちらから不完全な表現に擦り寄ってゆくのは良いことではない。
——引用ここまで——

さあどうだろう。若い作者に迎合する批評もあるだろうなあ、とあれこれ思い浮かべるが、大松が名指しの批判をしていないので、私も漠然と思い浮かべるのみである。
これはこれで望ましくないことであるけれど、ひょっとすると、既成の枠組みの中のベテランが「わからない」と言ってしまうことが、彼らを「裸の王様」の集団に向かわせてしまうということもあるかもしれない。
まず「わからないなあ」と言うにしても、やはりそれに続けて、どこが問題なのか。作者またはその周囲が「散文に還元」して言うことなどに耳を傾けて、具体的に技術批評を加えてゆくことではないか。とりあえずは「わかろうとする姿勢」で臨むことではないか。

いずれにしても、じっくりと読んでゆかなければならないのだと思う。大松が、石川美南の書いていること(「短歌研究」7月号の上述の特集)に触れて、笹井宏之の作品「とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務」について、これなどは「『無理』であろう。こちらから暗号を解読するように理解を進める価値があるほどの歌とは思えない」というのは、私にはやはりちょっと性急なように思う。
解釈は分かれるだろう。それはそれとして、私などはこの作品から、寒夜に佇む若い公務員(あるいはそれを見ている誰か)の痛みのようなものは、ごく自然に伝わってくる。それで完全にわかったとは思えないが、わかり得る作品ではないのか。

大松はこう書く。

——引用ここから——
短歌はもっと肩肘張らず、一読してわかるかどうか、知の前に情で把握する面が大きいのではないか。だから、わかるように作られていなくてはならないと思う。
——引用ここまで——

「知」よりも「情」か。それぞれどう定義するかにもよるが、「知」とは解釈であるとすれば、笹井の歌は、その面では困難があるかもしれない。「わかる」とはどういうことかといえば、解釈可能とは、またちょっと別なことで、それを大松は「情で把握する」というのだろうけれど。

   *

斉藤斎藤が、「歌壇」9月号の時評でこんなことを書いている。

——引用ここから——
〈私〉の感情や出来事が、読者から見てありふれすぎたり激しすぎたりし「リアルではない」場合、作者はもはや近代のように「事実ですから」とは開き直れない。かくして、リアルではない現実が、歌から排除されてゆく。作者は、読者から見える〈私〉を鏡に見ながら、じぶんの顔にできるだけナチュラルな化粧をほどこす。(略)平均値からほどよくずれたリアルな〈私〉が大量生産されてゆく。
——引用ここまで——

前衛短歌以前と、前衛、そしてそれ以後の「私」について、最近のは「短歌の〈私〉は風通しのあまりよくない場所に押し込められているように思う」と言う。斉藤斎藤らしい文体(?)で、いくらか論旨をたどりにくいが、この部分については作歌と批評の現場で、ありがちなことであり、そういうことが多いと言われればそうかもしれない。

世代が違ったり、置かれた環境が違うと知らないことが多い。完全にはわからない。我々にとっては高齢者の昔の生活の、あるいは戦争体験の実相がわからない。高度成長期~バブル期に働いてきた者には、いまの若いひとたちの労働環境がわからない。
高齢者の経験については、それを表現するための典型(ステレオタイプ)がいくつもできあがっていて、ちょっとした修練があれば「わかる」作品になるかもしれない。典型からちょっとずつずらして「新鮮な」作品が生み出されるかもしれない。しかしそれとて読者にとっての「リアル」に押し込められたものだとすれば、真実をどこかで取り逃がしていることになる。
若い人の現実のほうといえば、これは理解される典型すら模索中であるだろう。眼前の現実を「散文に還元」しても「うそだろ!」と言われてしまうこともあるらしい。「わかるように作られていなくてはならない」は大事だが、そのことのためにどこか切り縮めて表現するならば、ずいぶん狭い世界になってしまうだろう。そもそも本人にもいわく言い難い感情というものがあって、なんでもかんでも「わかるように」と言われれば、それは「作品をつくるな」ということに等しい……とまで言うと、これはまた話がそれるかもしれないが。

他者を完全にわかることはできない。他者なのだから。とはいえ、同じ人間として、全くわからないはずはない。そういうところに橋をかけてゆくのが、読むということだろうと思うのだ。

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※1 ここで読ませていただいた。
http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-ddb1.html
※2 出発点にする~批評について
https://www.sunagoya.com/jihyo/?p=221