光森裕樹の第一歌集『鈴を産むひばり』には感心した。内容も体裁も、こだわりを感じさせる一冊である。
・鈴を産むひばりが逃げたとねえさんが云ふでもこれでいいよねと云ふ
巻頭の一首からして、なにか物語のような広がりがあって面白い。具体的にどう解釈するというのでもないけれど、少年期の終わりとか、なにかキラキラしたものの喪失感とかいったものが感じられる。
・友の名で予約したれば友の名を名告りてひとり座る長椅子
・半券を唇(くち)にはさみて暗闇を逃さぬための扉をひらく
酒席の予約か何か。幹事の名前で予約したときのちょっとした違和感のようなものはあるだろう。手持ち無沙汰のしばらく、それを思い返しこだわってしまう。自分とは何かというようなことも考えるかもしれない。「半券」は映画館。ポップコーンなどを抱えていて扉を開けようとするときなど、とっさに半券を咥えるというのはありそうだ。ちょっとした場面が切り取られた作品がなかなか良い。
・あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず
・ハーケンのごとく打たれし註釈を頼りにソースコードを辿りぬ
今ふうの題材。「Google Earth」はよく言及されるようだ。2首めのほうは、いくらか馴染みが薄いかもしれないが、他人の書いたソース(プログラム言語の記述)をたどるときの感じがよくわかる。書物の注釈に使われるダガー(剣記号=†)に通じるものとしてハーケン(岩登りで岩に打ち込む「楔」)を持ち出す。作者の詳しいプロフィールは知らないが、そういう仕事もしているのだろうと思って読む。
注釈行がところどころさしはさまれているのだけれど、これが怪しいことが少なくない。正しく注釈を入れたものの、その後の仕様変更などがあったときに、注釈の書き換えができていなかったりするから、頼り切ることもできないのだ。岩場をゆくときに他人の打ち込んだハーケンを信用するかどうか。
周囲の状況やそのもののぐらつきを確かめながら、さしあたり参考にして先へ進むほかはない……というのは、これはなかなか示唆的でもある。
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内容についてはまた触れる機会もあると思うが、体裁について書こうと思う。
歌集専門の出版社ではないところから出すと、野暮ったいものになってしまうことが少なくない。それは一つには低予算で出そうとするからであり、もう一方では豪華のものにしようとして、どこか過剰な感じを伴ってしまうこともある。費用のことは、如何ともしがたいこともあるが、書籍のかたちになったものには、おのずからいくつもの個性の複合体という様相を呈する。本を造るというのは、著者一人の仕事ではないとつくづく思うのだ。
近年省力化が進んでいるとはいえ、装丁、印刷や製本に、多くの人(やシステム)が介在する。そして編集者がうまくコーディネイトしたものは、手にとってみたときに、やはり訴えかけてくるものがあるのである。だから、歌集を手にしたとき、内容とは別に、どのこ出版社から出たものかはまず確認する。カバーをめくって本体表紙を見たり、本文用紙の手ざわりを確かめてみたり、別の本と活字を見比べてみたりする。これは良いと思えば装丁者を確認する。印刷と製本を担当した会社の名前を見て、なるほどと思ったりすることもある。
前置きが長くなったが、とにかくこれはなかなか洒落ている。渋い。「港の人」という出版社ははじめて見るが、奥付を見れば、活版印刷とオフセット印刷それぞれについての記載があり、活版は「内外文字印刷」、オフセットのほうは「創栄図書印刷」とある。両社とも、歌集の印刷ではおなじみである。だから印刷会社の経験に負うているだろうというのではない。そういった印刷会社に渡りをつけるセンスをもった出版社だったのだろうし、本人のコンセプトがはっきりしていたから編集者もそれに応えることができたのだろう。
ところで、本人は「活版」と書き(※1)、出版社などは「金属活字活版印刷」としている(※2)けれど、それはどうか?……と印刷面に手を触れながら思う。目次など一部は活版のようであるけれど、ひょっとして本文の大半はオフセットだったりしないか。用紙の違いや印刷機の状態によっても印象は違うから、素人がどうこう言えるものではないけれど、目次とその他の部分の手触りがちょっと違う。版元が言うとおり活版によるものなのだろうけれど、オフセット印刷がごく一部だとしたら、それはどこか?などいろいろ考えてしまう。
それにしても、活版信仰のようなものをあてにしてものを言うのはたいがいにしたほうがよいように思う。
活版ならばなんでも高級品かというと、そういうことでもない。活版時代の資産をデジタル化して、良いものをつくろうという人たちがいる。DTPの時代になっても、要は良い本をつくろうとしているかどうかということなのだ。不識書院の本を手がける精興社などが代表的だし、『鈴を産むひばり』の印刷にかかわっている創栄図書印刷も、活版時代からの伝統を意識しつつ良い仕事をしてきたところである。ついでに言えば、かつて「砂子屋書房の本は活字」であったけれど、いつの間にかオフセット印刷の歌集も出すようになってきた。活版印刷の火はどこかで守り続けて欲しいと思うけれど、なかなか難しい時代になってきたのだろう。
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「短歌」(中部短歌)の1月号「時評」で、菊池裕が「歌集の歌数と編集方法」と題して書いている。「歌集は、いったい何首くらいが適量なのだろうかと近頃思うようになった。できれば密度は濃くて、でも重くないほうがいい」といって、岡井隆『ネフスキイ』のや花山周子『屋上の人屋上の鳥』など、800首を越えるいくつかの歌集について書いている。
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黒瀬の『空庭』も五部構成で各章のコンセプトが明解で、長さを感じさせない作りになっている。(略)田中槐の『サンボリ酢ム』は、読み飛ばすことの爽快さが酩酊感を換気させ、連作の醍醐味がそこにあった。三者に共通しているのは、一頁五首組み。本を開けば、十首並んでいるわけである。つまり、一首から次の一首へと視線が移動させられることになる。即ち、視覚的にも行間を読み解くおもしろさがあるわけだ。これが一頁二首だと、そうはいかない。私は、今後、一頁五首の編み方が流行るのではないかとさえ秘かに想っている。
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ああ、そういう感じ方もあるのか……と思う。私などは、もうすこし一首ごとの滞空時間があるほうを好むが、次々読んでいってもらいたいという場面もあるだろう。菊池は「ますます連作意識、群作意識が高まる」という現状認識も書いているが、連作とか群作というのも、束にして速度をもって読むものだけなのかどうか。
一頁に二首組みの『鈴を産むひばり』を読みながら、菊池のこの文章を思い出したわけだが、これはもう歌集のコンセプトの違いであって、あいかわらず、あえて歌数を絞った、見開き4首程度の歌集も存在感をもつだろうと思うのである。
たしかに一度にたくさんの作品を見わたすことができることによって、連作意図などは見えやすいかもしれない。全歌集のようなものや、ペイパーバック(砂子屋書房の「現代歌人文庫」など)になったときに、ようやく気づくことはある。けれどそれはそれで、気づかなかったことに気づくということを、私は喜ぶ。
『鈴を産むひばり』の冒頭近くにある一首。
・さんびきの鰐を描きたす迷路図の中にいつぴき出口ににひき
現実に鰐のいる迷路に追い込まれるのは困るが、歌集には、やはりある程度迷路の楽しみが欲しいようにも思うのである。作者や編集者は俯瞰して、鰐のいる場所もわかっているけれど、はじめから俯瞰できる位置に読者を案内してしまっては、意味がないのではないか。
もちろん、それはそういう歌集のことなのである。見通しのきくところで走る姿そのもの美しさ、走ること自体の爽快さというようなものが中心となるものもあるだろうとは思うのだが。
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