「未来」11月号の大田美和さんの評論「短歌は詩であり芸術でであるという当たり前の事実について」は迫力があった。一首も作品を引用せず文章がつづく。ただ、「当たり前の事実」というけれど、「芸術」というのもいろいろな受け取り方があるから「当たり前」と言われてもさらっと斜め読みしただけで納得できるものではない。
私なりに要約を試みる。こういうことだろうか。
前半は現状について問題提起している。いまの短歌は「父子相伝の厳しい修行を経て初めて免許皆伝されるような」伝統芸能ではなく、しかも西欧でpoetが「難しい韻律を操る魔術師としての能力」を持つ者として尊敬されているのとも違う。何か中途半端でありながら、あたかも「伝統芸能」のように扱われて、しかも「部外者には短歌の十全な鑑賞は不可能だという言説がいまだにまかり通っている」。このあたりは、たいしたことをやっていないのに奥義化、神秘化しているということだろうか。そういう風潮のなかで宗匠面をしている者がいる……という批判であるかもしれない。加えて、「短歌にだけ目を向け、とりわけ自分の流派の短歌だけを学ぼうとするのは、信じがたい」と続く。もっと俳句や現代詩にも関心を持つべきであり、「垣根を取り払うべきだ」という。
後半は提案である。
—–引用ここから—–
歌人は何をめざすべきなのか。それは短歌の達人になることではなく、日本語の達人になることである。ひいては言葉の達人になることだと思う。言葉の音楽性、曖昧さ、多重性を隅々まで味わい尽くせる人であると同時に、ひとを酔わせ、驚愕させ、笑わせ、涙を流させる言葉を発することのできる人である。
—–引用ここまで—–
まず、こんなふうに書いている。歌人のほとんどは日本人であるから日本語のことしか考えない。短歌のことしか考えない。だが短歌は言葉であり、日本語は言語のひとつなのである。広い射程をもって、ものを考えないといけない。ここで「ひと」というのは、歌人だけを対象としてはならない。
—–引用ここから—–
歌人が韻文を操れるということは、日本語の韻文の魅力を伝え、日本語の韻文のアクセシビリティ(使いやすさ)を、それを知らない人々に伝える力を持っているということである。
—–引用ここまで—–
こんなふうにも書く。短歌を知らない人に「短歌でこんなこともできるのか」と思わせることができるかどうか。いままでにない方法論の導入であるかもしれない。これまでもしばしばそういう「エポック・メーカー」が現れたけれど、排除されたり無視されたりして多くは消えていった。「わからないものをわかろうとする努力もしないで、自分の美意識に合わないからといって排除する人々」ばかりでは、それはつきあっていられないだろう。
最後の部分で、自身の課題としてこんなふうに書いている。
—–引用ここから—–
百五十年後の人たちから見たときに、私たちが今生産しているテクストは、どのように見えるのだろうかということがとても気になる。たとえば、十年以上毎年三万人が自殺しているという日本の現実が、現在の文学テクストにどのくらい刻印されているのかということをよく考えるようになった。もちろん、すべての文学テクストが同程度に政治的に参与する必要はない。とはいえ、優れたリテラシーの持ち主であれば、「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」といった藤原定家の『明月記』にさえ時代を読み取ることは可能である。未来の読者から、「弱者に対して何てこの時代の人々は残酷だったのだろう。人々の絶望の影が、詩人のテクストにすら読み取れないとは」と嘆かれることを私は怖れる。
—–引用ここまで—–
このあたりまで読んで、ああそういうことか……と思う。「芸術」というのは、通俗を脱した崇高な精神性をもったもとか、現実世界に背を向けたものを言っているのではない。西欧のアートが、手仕事の技術という意味をもっているのに近く、「日本語の達人」になること。そのことによって、日本語を使う人、使おうとしている読者、あるいは未知の読者ともつながってゆこうということであろう。
社会詠云々ということを踏み絵のように言うひとがいて辟易するが、現実世界の中にあって言葉を発しているということは、その時代、場所に生きていることの刻印があるべきだというのはそのとおり。まったく同意する。
—–引用ここから—–
現実を変える力になるという保証はない。詩の言葉を読んで血の涙を流すのは同時代の人ではなく、遠い未来の人かもしれない。それでも、私はそのようなテクストでありたい。
—–引用ここまで—–
私には、とりあえず十年後の自分が読むであろうということが、いわばある種の「第三者の審級」のようなものとしてあるような気がしているが、遠い未来の読者を想定するということは、とても大切なことではないかと思う。眼前の読者は大切だし、あれこれの批評も気になるのが人情というものだけれど、そういうことに一喜一憂していてはならないのだ。
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大田論文に「弱者」が出てきたので、最近感じていることを少し書いておく。「弱者」というニュアンスには変遷がある。今その歴史を詳しく追うことは棚上げにするが、1960年代から70年代にかけての差別に対する闘争は、憲法その他の平等原則を根拠に、自らが弱者であるということを公言しつつ(ある場合には、党派的に弱者を担ぎ上げるようなこともあっただろう)補償的サービスを獲得してゆくという戦術をとることが少なくなかった。
その動きはやがて行政に飲み込まれてゆき、公式文書などでさかんにバリア・フリーとか「弱者」と言う言葉が使われ始める。それ以前にも「やっかみ」であったり、もともとあった差別が陰湿なかたちで噴出すような物言いというのはあったが、言葉がひとりあるきをはじめると、その言葉に対する拒否感のようなものも出てくる。
・自転車は弱者かすこし言はせて貰ふよろよろと輪がななめに危(あやふ)/岡井隆『神の仕事場』
自動車に対して「交通弱者」などというけれど、ふらふらと歩行者の中に割り込んでくる自転車は危なっかしい。90年代の前半はまだ「弱者」という言葉には信頼があり、特定の有様に対して「弱者か」と言っている。
・自らのことを弱者と呼ぶひとのためらいもなく弱者と呼びぬ/松村正直『やさしい鮫』
・偽装鬱、偽装弱者に偽装呆け楽をするには体力がいる/三田村正彦『エンドロール』
・強者(つはもの)をののしるゆゑに快楽あり多数派弱者から支持を得て/ 同
これが近年の状況なのか。役所や学校にクレームを寄せる人が、自分のことを「弱者」だと規定して、あれこれ言いつのる。「弱者」だと言えば要求がまかりとおると思っているようなところがある。
そしてまた、そういった「弱者」が偽装であったりする。つるしあげの熱狂に走るのは報道か。健全な批判というよりも足をひっぱりあうばかり。
・小説を読みつつ思ふこの著者も弱者の側に立ちて書くらし/重田裕子『木洩れ日の下』
かように「弱者」という言葉をめぐる混乱があるから「弱者の立場に立つ」が、うさんくさいものに見えてしまう。それ自体は「判官びいき」の言葉があるとおり、基本的なパターンであるだろうけれど、「弱者」的な設定を見るだけで陳腐に思えてしまうということか。
こういった作品は、弱者に対して残酷か。冷淡だろうか。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。
それぞれの作品の、いくらか作中〈私〉の俯瞰的位置取りが気になるところもあるが、「弱者」という言葉の虐使への憤はよくわかる。僭称や偽装もあるだろう。ただ、誰かが偽装することによって本当の弱者の身動きがとれなくなるということはあり、「弱者」という言葉をあげつらうことによって、自らを「弱者」と思わざるを得ない人を追い詰めてしまうこともあるかもしれない。
もっとも、むしろ冷淡と見える作品にこそ「絶望の影」が刻印されているのかもしれないとも言える。逆説的ではあるけれど、そんな時代にわれわれは生きているのである。
社会全体のモラルが怪しくなってきているところでは、やはり「遠い未来の読者」を意識するなどしながら、自分自身しっかり立たせなければならないように思うのだ。ひとつひとつの作品は、題材や現実のさまざまな場面に応じて露悪的であったり逆説的な表現をとることもあるだろうが、通用している倫理にとらわれるのではなく、しかしやはり生きるうえでの筋のようなものを、どこかに一本通しておきたいと思う。