真中 朋久


断片の置かれる場所

短歌は断片(ピース)である。一首として独立した存在であることは大切である。注釈なく「わかる」作品をつくる努力をすべきであろう。一首としての独立性が名歌の条件であるとも言える。
ただ、それは必須かというとそうでもない。その歌が生み出された時代であるとか初出時の文脈、歌集として定着された文脈というものが、好むと好まざるにかかわらず、必然的にまとわりつく。自立しがたい作品も、文脈の中で輝くことがあり、自立した作品が、文脈の中で語釈レベルの解釈とは別の意味を持つことがある。
評伝的鑑賞においては、さらに個人的な足跡を辿ることにもなるだろう。もっとも、作品の中にまったく実人生を反映させないという立場もある。ただそれはそれで「隠す」ことによって、かえってはっきりと、時代に対する抵抗のようなものが滲むことがあったりするから面白い。

時代背景や個人の年譜的なできごとにこだわりすぎて作品を見失うのはよくないが、作品について何か言うためには、「参照しない」ならばしないなりの、目配りというものが必要であろうと私は思う。

ところで、一首として独立していて、歌意がはっきりしているように見える歌にもいろいろある。
少し前になるが、本欄の姉妹編である「日々のクオリア」で、中津昌子さんが書いているのを読んで少し考え込んだ(http://www.sunagoya.com/tanka/?p=3480)。

・座席には互いに快適に坐ろうぜ詰め合って窮屈に坐ることはない/奥村晃作『男の眼』

について、中津さんは、まずこの歌の反マナーぶり?に驚く。しかるのちにこう書く。

———-引用ここから———-
しかしこの歌を読むと、そうか、こういう考え方だってあるよな、と思うと同時に、自分が詰めあって坐るべしと深く刷り込まれ、それを疑っていないことに気づく。
何の疑問も抱かずに、身を縮めている自分に気づく。
———-引用ここまで———-

「辛そうな人には席をかわってあげる」ということも前提として書き添えているけれど、過剰なマナー強制を内面化していることへの批判のようなものとして読んでゆく。そしてつぎのように結ぶ。

———-引用ここから———-
たぶん実際に電車のなかでこの歌のような態度をとるかどうかということではない。
一首のよさは、乱暴なことば遣いも交えて、言われるがままに小さく固まろうとする“常識人”の心を解放するところにある。
———-引用ここまで———-

なるほど、常識をゆさぶられるかもしれないが、常識的な立場からすれば、素直に(?)「反語」という解釈が出てきそうだ。揺さぶられない人は揺さぶられない。
マナー強制に反発しているのか。作中主体をマナー無視の輩として反語的にマナーを確認しているのか。あるいはまた……? 読者の側が何を考えているのかということが、読解に大きく影響しそうだ。

少し違うが似たようなことで、たとえば加藤治郎さんの近作にこういうのがある(「短歌往来」1月号)。

・きみらには瓦礫のなかのペコちゃん人形 学歴で歌を読むべし/加藤治郎

一首全体を読めば上句の「きみらには」あたりの突き放し方で、皮肉として言っていると読み取ることができるが、下句も相当に目立つのである。断片である一首の、さらに断片的な句が一人歩きしてしまうかもしれないと、読みながら危ぶんだことであったが、これは作者の責任というよりは、やはり読者のほうの問題なのだろう。じっくりと読むべきなのだ。

   *

短歌は断片(ピース)である。一人の歌人の仕事は数千首のピースによってかたちづくられる。一冊の歌集は数百のピースによって完成する。ジグソーパズルのようにぴったりと組み合わさるわけではなく、しかし配列し章立てた文脈のなかに置かれる。朗読のような場面であれば、作品朗読と、その前後や間にさしはさまれる語りが、ひとつのまとまりを構成する。
緊密でない一連も、作品が並んでいるということによって、ある世界が現出する。

さきごろ亡くなった河野裕子さんはこんなふうに語ったことがある(「(角川)短歌」2003年2月号「河野裕子語録」)。

———-引用ここから———-
いい歌ばかりを集めた歌集は退屈で面白くない。いい歌が隣のいい歌をつまらなく見せるという歌集特有の力学が働きます。いい歌の間にさりげない歌を息抜きのように置いてみる。すると歌が互いに引き立てあい、立上がってくるのです。
———-引用ここまで———-

連作を構成したり歌集を編集するときのアドヴァイスであるけれど、一つひとつのピースがどのように働くかということの示唆として読むこともできよう。良い歌は、その一首として良いのである。概ねそのとおりなのだが、前後に並ぶ作品によって、よりよく見えることも、つまらなく見えてしまうこともある。ひきたて役として置かれたさりげない作品が案外よく見えてくることがあったりする。そういうものなのだ。

するとどういうことが起こるのか。

寺尾登志子さんが、「短歌往来」9月号巻頭「今月の視点」に書いていることが面白かった。「現代詩手帖」6月号特集「短詩型新時代」のアンソロジー「ゼロ年代の短歌一〇〇選」(黒瀬珂瀾選)を刺激的と評価しながら、岡井隆作品(『二〇〇六年水無月のころ』所収)について「選んで欲しくなかった」と言うものである。

・老いは一つのアウシュヴィッツである故に逃れがたかりガスに死ぬまで/岡井 隆

理由づけについては同誌11月号で岩井謙一が指摘しているように、やや粗いところがあるが(岩井さんにも注文があるが、それは別のところで述べる)、「老い」とアウシュヴィッツを結び付けるのはいささか強引で、一首だけを提示されるとアウシュヴィッツのできごとに対する冒涜のように見えてしまうところもあるかもしれない。
じっくりと読めば、「老い」の否応なさであるとか、老人を排除するがごとき社会に対する暗い怨嗟なども感じ取れるだろうし、歌集の文脈をたどれば、それはよりはっきりとしたものとして感じられる。
だが、寺尾さんの言いたいのは、おそらく文章の末尾にある「アンソロジーが、言葉の意味と実体を希釈するシステムとなることは避けたい」ということなのだろう。岡井作品はその一例である。

河野語録を応用して考えれば、秀歌として集めて並べたアンソロジーなるものは、作品が相殺してつまらないものになってしまいがちになる。変化のある面白いアンソロジーにしようとすると、これはバラエティ重視になって、岡井作品のような刺激的なものが出てくるいっぽう、なんで(私の)こんなにつまらない作品が選ばれたのか?という声も出ることがある。「希釈する」とは、またちょっと違うこともいろいろと起こっているのではないか。

「アンソロジー」に何を期待するのか。ある時代の短歌を広く視野に入れるために代表的な作品が並んだもとして、あるいはまた作歌の参考のための秀歌集として、いろいろな目的で参照されるだろう。いずれにしても、集められた作品はそれはそれで一首独立のものとして鑑賞しつつ、その背後にある作品群への入口の、インデクスであると意識しておくことも重要だろう。

   *

短歌は断片(ピース)である。しかし、散文もまた断片化してしまうことがありがちなようである。
「短歌往来」12月号「評論月評」で、岩井謙一さんはこんなふうに書いている。

———-引用ここから———-
私が本欄を担当するに当たり、できるだけ反論をもらうように、過剰に攻撃的に書くことを心がけた。このように書くのもおかしな話であるが、沈黙の続く歌壇に不満がある以上、そのような異常な態度を取らざるを得なかった。しかし各論でいかに攻撃的な態度を取ろうが、それは不毛であった。
———-引用ここまで———-

活発に論じ合うことは良いことである。あえて挑発的に書くことはあるだろう。だが、各論はやはり各論なのであって、そこから大きなうねりを起こすことは難しそうだ。各論というのは「言葉尻」よりもう少し大きな問題であるけれど、ともかく部分的なところで熱をあげてしまうと、本筋が見失われてしまう。

岩井さんのこの文章は、このあと「生活者」の立場ということに移る。「短歌を表現方法として楽しみにする作者が大勢いる」ことは大切なことだ。岩井さんの言うように、その人たちにまで「表現の覚悟」などといって問い詰めるべきではないだろう。
しかし、そのことと、覚悟をきめてかからなければならないというのは別の問題である。生活者なら生活者なりに、生活を見つめ、そこに根ざした表現をどうやって生み出してゆくか。そのことは、生半可でもできるだろうけれど、奥は深いのである。深いところに入るためには、やはり覚悟のようなものが必要だろう。

岩井さんにはやはり、総論で語ってほしいし、じっくりと論を深めて欲しいと思うのだ。ハイスピードを追おうとしなくてもよいのではないか。そんなふうに思う。

私のことを書こう。

本欄でも、いくつかの論争にコメントを加えてきたが、私の書いていることに言及していただくときに、しばしば「真中は○○側の立場で」とされることに首を傾げてしまうことがあった。そんなにはっきりと、一方に加勢するようなことを言っただろうか。
ものごとには両面がある。加勢したいと思う側にも粗いところがあるし、結論に異議を唱えたくなる側も、理解できる部分がある。そのあたり読み解きながら、自問自答しながら書いていると長くなる。

長すぎて要約しにくいかもしれない。ああでもないこうでもないと書いているのは、批判を躊躇って生ぬるいことをしていると見えるかもしれない。批判を恐れているとも見えるかもしれない。

だが、もともとそんな簡単に白黒つけるようなものではないと思うのだ。自問自答しながら書くことによって核心に近づきたいと思うのである。

論争は目的か? 盛り上がることが目的なのだろうか? 言うべきことに口を噤んでいることを問題にするのであれば、それについて自分が口を開けばよいのである。必要なところでは論争すべきだが、それを目的としてしまうのは不毛であろう。

私は良い歌に出会いたいのだ。
歌をとおして、人々と、世界とつながりたいと思うのである。

そのためにも、ひとつひとつの断片を読み、断片の置かれた場を、じっくりと読んでゆきたいのである。

   *

本欄の私の担当はこれが最終。読んでくださったみなさんに御礼申し上げます。
次の筆者は、また違った観点で書いてくださるでしょう。