歌の楽しさや世界の広さを実感するのが、昨年末に刊行された、永井祐氏の最新歌集『広い世界と2や8や7』(左右社・2020・12)だと思う。この歌集では、主体が見る世界への視点の明確な視点の角度や歌の構造について、非常に興味深い傾向がみてとれる。
動詞の「ている」表現
この歌集の特徴のひとつが「ている」形の多さである。「ている」は大まかには動態の継続を表す。
閉店したペットショップを見つめてる青年サラリーマン まだ見てる
両手でスマホを操作している人がいる電車は半分ぐらい混んでる
今日の昼たまごサンドに入ってた殻を覚えているわたしたち
(太字は筆者)
1首目、3句目の「見つめてる」がこの歌の核である。「見つめてる」動作を継続しているという「青年サラリーマン」の動きを、主体は結句で再び確認し、「また見てる」とさらに継続していること(結果)を認識する視点がある。主体が見つめる対象と主体の相互の時間構造を描き、結果として主体の主観の提示がある。
2首目「電車」は、「両手でスマホを・・」継続してスマホ操作する人(対象)を内包しており、「半分ぐらい混んでる」として、混んでいる状態の継続を主体が主観する構成。1首目と構成は類似する。
3首目、トピックとして「たまごサンドに入ってた」=「卵サンドに殻がはいっていた」(製造時から継続して殻が混入し続けていた「ている」の過去形)、ことを、「今日の昼」から「わたしたち」という主体が「覚えている」(継続)ことを描いている。継続する時間の重層性と結果とが提示されている。
こちらはどうだろう、
パソコンをしている僕の目の前で君は旅行の支度をしてる
ドラッグストアで何かの旗がなびいてる 僕は昔を思い出してる
山手線でマスターキートン読んでいる乗っている座っている端の席
これらの歌は動作の時間継続の描写を並列させた構造である。
1首目、「パソコンをしている僕」と「旅行の支度をしてる」君の、同時間を描いてみせている。この同時間並列を描いた歌は、本歌集には非常に多く見いだされる。
5首目も典型的な作品。「読んでいる」「乗っている」「座っている」3句目から同時間の動作を並列させている。座ってコミックを読む動作がこんなにも豊かに、不思議な世界になる。
この「ている」表現は、枚挙にいとまがない。多くの歌がこの時間・継続についての方法を採用していることに注目したい。
大きな時間の中の小さな時間
「ている」表現は、時間の同時期継続・並列の表現だったが、もう一つ、「ている」表現を使いながも、大きな時間のなかに小さな時間が入り込んだ構造をとっている。
花火した話を人にしているとときどき誰とと聞く人がいる
午前中に雨 30分LINEする それでは令和でもよろしくね
サーティーワンは21時で閉まってる まだ動いてるエスカレーター
0時に降っている雪 iPhoneは片手でちょっと重いのだった
大晦日はまだ半日も残っていて英語の辞書をながめてすごす
これらの作品は、誰かと共通する時間の流れに、自分の関わる時間の単位が入り込んでいる構成をとった歌だ。
たとえば1首目、「花火した話を人にしている」という相互に関わり合って継続している時間に、「ときどき」という点で、入り込んでくる「誰と」と聞く人がいる、という描き方である。連続する時間(大)に、割り込んで聞く人の時間(小)がある。
2首目も「午前中に雨」という、大きな気象現象の時間の継続と、2句目「30分LINEする」という私的な時間の継続が置かれている。「それでは令和でも・・」は、「令和」という時代の、今はいつ終わるか分からない、大きな時間の継続を入れている。
5首目も同様に、「大晦日」の経過「半日も残っていて」が提示される。大晦日は、誰もが共通して意識しながら過ごす、公的な時間をもつ日だ。そこへ「英語の辞書をながめてすごす」というごく私的な時間を置くのである。
本歌集にある2つの時間表現は、前歌集『日本のなかで楽しく暮らす』の「月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね」も彷彿とさせる。しかし、「月を見つけて・・」の歌が、自己と他者が持つ内省的な部分の差異や、個々の存在自体を抽出したのに対して、本歌集は、前述した、「パソコンをしている僕の目の前で君は旅行の支度をしてる」に見えるように、自己と他者の持つ時間の並列と、それらがいずれも様々な人を包括する「世界」のなかで、内化に着想させたものということに注目したい。
さらに、一つ一つの歌に、物語的な予定調和は発生しない。
「子供のころよく遊んだ広場には今はすっかりビルが建って…いない。広場はそのままで別な子供が遊んでいる。わたしは喪失を心に折り畳んで大人になったという実感がない。マイナーチェンジを繰り返しつついつか一緒に地理になるのだろう。(p92)」
という一文からも明らかである。広場がつぶされて、ビルが建って、時間が経過したという流れはない。現実を物語化せず、ありのまま見つめる。オチは用意されないのである。「子供のころよく遊んだ広場には今はすっかりビルが建って…いない。広場はそのままで別な子供が遊んでいる」が、本歌集の核を成している。
本歌集は時間をどのように表すか、繰り返し提示されていく歌集である。より大きな公的・一般的な時間の流れ(広い世界)のなかで、その流れとはまったく違う別な流れを持ちながら、主体と他者・他者群の存在として流れていくささやかな時間を繰り返し確認する構成がある。
言い換えれば、自己と他者・他者群の存在自体について、世界と個とを相互に隔離しながら認識を深めていく、内省的な作品であるといえるだろう。それは、今・現在のコロナ禍のなかで、自己と他者とが交われない流動的な時間の中にあっては、各々の生をしっかりと確かめ寿ぐ、生というひとつの時間へのオードともいえる。