中津昌子氏の第6歌集『記憶の椅子』(2021.1 角川書店)は、読み手にイメージ豊かな像が立ち上がる歌集である。
テクストを読み進めてゆくと、ひとつひとつの言葉が持つ「幅」の大小を存分に生かした構成に気付く。たとえば、一首や連作に据えられたモチーフのひとつをとっても、そのモチーフにまつわる共有できそうな鍵をあらかじめ用意しておいて、読み手の安定した解釈を獲得させるようにアジャストされていることである。それは読み手にとって至極安定した、しかし読みの方向性をかっきりと決められる行為ではなかっただろうか?
この項では中津氏の表現の深度について考えてみたい。
歌集は4章に分かれており、最初の2章は、主体の認知のありようが日常のモチーフをかりて丁寧に示されていく。
もうそこまで青い闇が来ているのに風景を太く橋が横切る
この歌は、空間を題材にしている。巻初にある「聖護院通り」という連作のなかのひとつで、タイトルの「聖護院通り」という空間の持つ聖性や古都らしさを通底させている。さらにこの一首に行きつくときに、「もうそこまで」という時間と「青い闇」が提示されるときにはじめて、「聖護院通り」が薄暮の時間を迎えていることを読み手は想起させられるのである。
上句は、それでも単純なイメージだが、下句は、「橋」の存在が生き物のように喚起されていく。結句末の「横切る」が決定的なのである。風景のなかに橋があるのなら、橋があることを提示して終わってもよいのに、だ。
ここでは、「橋」は「太く」(性質)「横切る」(動態)として、「橋」のありようをさらに主体が認識していることになっている。これによって、今しも「青い闇」が来ようとしている空間は、「橋」が突如として太く横切ることで、中断される景となる。それはまるで現実が突きつけられる景と似ている。
さらに同様な歌を見てみたい。
水音がずうっとついてくるような南禅寺辺り手はつながねど
これは4句目の「南禅寺辺り」がやはり空間イメージを指示するものになっている。そこを知る人は具体的に、知らない人も静かな都市空間が想起される。「南禅寺通り」にかかる上句の「水音が~ような」までの比喩は、細く長く途切れがたい思念を示している。結句の「手をつながねど」は逆接を置くことで、ストイックな距離を示す。惹かれていく思念と「手」の示す距離が、相互の関係を彷彿とさせる。
かなしみの噴き出すような白躑躅 口は結んでいなければならぬ
時間からはぐれてしまったように咲く木槿がしろく風になびける
上と同じ構造を持つ歌である。いずれも上句で比喩で対象の植物を修飾して主観として表し、下句でさらにその次の動態を描きこむことで、主体の認識と像を明らかに浮かび上がらせている。たとえば、「白躑躅」は主体のかなしみを投影して咲いたものとして存在しているのであり、下句は主体の内省を軸にしている。前の2章はこの構造によって主体のありかを徐々に象ってゆく。
Ⅲ、Ⅳ章は、身近な人々が描かれる仕様でもある。前の歌集『むかれなかった林檎のために』では、主体自らの病と、母君の衰えの具体が描かれていたが、後半の2章でもそうした人々のその後が描かれている。ここでの空間は、街路や比喩によって決定づけられたモチーフの広さは持っていない。目の前の限定された空間が提示される。
鴨鍋の湯気の向こうに見えている父は喉まで釦をとめて
ひ孫抱く父はこの世の何もかも忘れたような顔に笑えり
ここで描かれる「父」は「鴨鍋の湯気の向こう」という限定された空間にいる。父君の人物像の造形が、その次に来る。「喉まで釦をとめて」。きっちりとした着こなし方が、父君の気性のありかを言わず語る。2首目、「父」は主体の目の前にいる。「この世」、現世に違いないが、主体の見ている視野のなかにいるのである。茫漠とした表情を比喩したところの「顔」が印象的だ。父君は、主体の前に存在する。
戻りくればいない気がする夕の陽がベンチの母にあかるすぎれば
タオルケットが母の形に盛り上がるうすくらやみをふたたび閉ざす
母君の造形はさらに深さがある。「夕の陽」と「ベンチの母」の関係性「あかるすぎれば」は、単に「明るい」のではなく、母君の人物像を鋭く暗示する。2首目も同様である。夕陽でさえ明るすぎる母君は、「タオルケット」の下にいるのだろうか?現実ともいえるし、そうでないともいえるだろう。「うすくらやみ」という空間の中にいる母は「ふたたび閉ざす」、薄暮の中に常にいるような母、それは本当の明度ではなく、母君の状態を暗示しているのだろう。
身近な人々が茫漠とした、自ら閉じたような空間にいる。それは異世界のようだが、主体はそこへ往還しては父母君の世界と外界とを繋いでいる。
母の時間を吸うだけ吸いて伸びきりし手足をほどく夕風のなか
こちらは主体像が明確に示されている。4句目の「手足」に掛かる語句の濃度が強い。異世界を渡ってきた人のように、解放される感じがある。
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空間の描き分けをこれまで見てきた。主体のいる街路、そして訪れる父母のいる空間。それぞれに特徴を持つ空間を主体は往還している。どちらが主体の居るべき場所なのか、むしろ両方を往還することで主体の生は深さを増して動かなくなっている。
中津氏の目指す文体というのが、単に世界をそのまま描写して歌にするのではなくて、(たとえば家族の歌もそのまま描写して家族詠にするのではなくて)
自己を含む世界を描くときに、なにをモチーフとして借り、空間の広さを提示し、読み手に想起させるかという軸が予め決定しているのであり、だからこそ、そこに主体の複層的な心情も描くことが可能になっている。今溢れる、即席な・単純なつくりの歌に一線を画して、中津氏の歌集は読み手を深い世界にいざない得る歌集なのだ。重量と沈殿とのなかに椅子が埋まっているような歌集として読んだ。