昨年11月、ほぼ同時に島田修三氏の歌集『露台亭夜曲』(角川書店)と『秋隣小曲集』(砂子屋書房)が刊行された。いずれも編年体で、『露台亭夜曲』は2013年~2016年の歌489首を、『秋隣小曲集』は、2017年~2020年までの歌493首を収める。
合計すれば実に1000首近い収録歌数だが、刊行するにあたって島田氏は「類相歌、小異歌がむやみに多いのである。(中略)第八歌集、第九歌集とともにおおよそ半数の歌を、えいやっ、という気合とともに捨てた」(『露台亭夜曲』あとがき)という。装幀も倉本修氏が共通に担当している。
2つの歌集から見えるもの
『露台亭夜曲』には、こんな歌がある。
つれあひにアアとかウウとか応じつつ鯖の味噌煮を啖らふたまゆら
学長は強権ふるへと強ふるこゑ天降りくるなり、ありがたいねえ
白くほそき更科蕎麦を洗ひつつどうやら俺は哀しいらしい
主体は「俺」である。社会的地位の高い在職中らしい主体は、日常をシニカルに、かつ自嘲ぎみに送る「俺」であり、ときに過ぎ去ったあれこれを反芻しては懐かしむ「俺」である。『露台亭夜曲』ではそんな「俺」像が鮮やかに立ち上がる。
アイレーのマフラーを巻き大寒の街ゆきゆけば風あたらしき
ジリオラ・チンクエッティの「雨」に濡れ昔男の見る冬しぐれ
マリアンネ・ゼーゲブレヒトのごとき娘の太き指もてスマホ繰るかなや
固有名詞も多い。読み手はそれらを辿ってエスプリの効いた「俺」像を、各人のなかに再現し、構築してゆく。読み手にもわかりやすく立ち現れやすい、ひとつの主体がこの『露台亭夜曲』の特徴であろう。これまで刊行されたいずれの歌集においても、シニカルだが軽快、しかしどこかで硬派な香りもする「俺」像が、島田氏の作品群に明確に通底してきた像だ。こうした「島田節」を楽しみに待っていた読者の期待を今回も裏切らない、それがこの『露台亭夜曲』だろう。
『秋隣小曲集』はどうか。
わがめぐり誰も正しくなけなしの落とし所は掌にあり 冷た
四十年を小さき鉢に生き継げる皐月つつじに水呑ます俺は
卓上になんとなく在るニベアもていたづく諸手を憐れむ俺は
静かな自然詠や細部の描出が多い。「可愛く」思われるものが頻出する。ニベア、皐月つつじ。寂しみ、小さな日々にあるおかしみ、悲しみといった感じを歌から受ける。それは長い間連れ添った奥様を亡くされたことが背景として強く存在するからだろう。そして島田氏ご自身も病を得ていたからかもしれない。なにか弱さのある「俺」、つつじをかわいがる「俺」、『露台亭夜曲』での「俺」は、『秋隣小曲集』では影をひそめている。
妻と在りし日の集合住宅に聞こえざりし水のしたたり声のくぐもり
残念な人といふ者かならず居て俺も然うかと秋めけば悲傷す
空心菜のみづみづしきを鉄鍋にざざざつと炒め哀しく啖らふも
ピーラーもて鯵三枚におろさむと気負へる俺ぞ亡き人は見よ
三首目、「悲傷」という言葉が『秋隣小曲集』には、ぴったりくる。最愛の妻との永訣の日々、独居で料理に気負う。そんな姿を妻に見せたい。しかし妻はいない。率直な心情が実に率直に語られる。「俺」像は明らかに変容している。
自分を見る自分 四人称の視点
くっきりと「俺」像が立ち上がるこの二つの歌集は、もちろん〈私性〉の約束が作者と読者の間で約定することが前提だ。主体の形象は明確で、読者は「俺」という像を追いやすい。ひとつの歌集はインテリで自嘲する「俺」が、もう一つの歌集では妻を亡くし、自らも慣れない独居をして病にも陥る気弱な「俺」が、それぞれ明瞭に立ち上がる。なかで、島田氏の表現の注目する部分といえば、自分を見る自分、「四人称」ともいうべき客観的視点の存在だろう。さきほど見てきた歌を挙げれば、
白くほそき更科蕎麦を洗ひつつどうやら俺は哀しいらしい 『露台亭夜曲』
蕎麦を茹でて洗っている「俺」、これを別な位置から、もう一人の「俺」が見ている。この歌でいえば、「哀しいらしい」と蕎麦を洗う「俺」像を評価する「俺」の下句の部分である。
学長は強権ふるへと強ふるこゑ天降りくるなり ありがたいねえ 『露台亭夜曲』
四句目までは、学長である「俺」の状況だが、結句の「ありがたいねえ」は、そうした「俺」を、離れた場所から傍観者のように見つめている「俺」が感じている心情である。
ピーラーもて鯵三枚におろさむと気負へる俺ぞ亡き人は見よ 『秋隣小曲集』
『秋隣小曲集』にも、四人称的視点を持つ歌はある。たとえば、例歌のように鯵をおろしている「俺」を、「気負っているな俺は」と評価し、さらに亡き細君に「亡き人は見よ」と声をかけるのが、四人称的視点の「俺」などは四人称的である。
しかし、この『秋隣小曲集』では 数の上からいえば四人称的視点は鳴りを潜めている。(それは同時に島田氏の歌らしさの喪失でもあるともいえるのだが)題材とする対象が、『露台亭夜曲』で描かれた、公人としての「俺」—-大学の学長であったり、中高年期のあれこれにそろそろ飽いた・公人としての「俺」像の提示の多さからするとごく少ない。
『秋隣小曲集』では、家族的・私人的トピックが多く含まれている。私人としての場面描写においては、あるいは挽歌では、シニカルに自分や周囲を評価をしたり、「行動評価」を四人称視点で行う必要がないのであって、題材の選択が四人称視点の顕在性を担保しているようにも考えられる。
主体像をどう構築するか
島田氏特有の四人称的視点が、私人的なトピック事由ではないところから生まれてくることを考えるとき、自分を見る自分というのは、強い主体像を支援するために有効な方法であるとも言え、たとえば「私性」に約定された作風でなくとも、主体像の強化の方法としては非常に汎用的である。島田修三氏の二つの歌集は、「私性」に約定されたオーソドックスな歌集でありながら、表現の根源について、多くの示唆を与えてくれる歌集である。
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