空白の向こうに

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 平成が終わった。昭和から平成、そうして令和へと、何の区切りがあるわけではない。それでもこの三十年を振り返ると、これまでにないスピードを伴う変化が浮かんでくる。(中略)凄まじいネット文化やIT革命の洪水に遭い、立ち尽くすばかりの私でも、時代の空気はしだいに身に滲んできていた。何に心を動かされ、何を美しいと感じるのか。知らず知らずに、かつての自分の感受性が変容しているのである。
 平成の終わりにかけて、これまでと異なる感受性によって、これまでとは違う短歌が作られている。従来と同じ主題や意味をうたいながら、何かがちがう。うすうすと惹かれはするのだが、はっきりした正体が摑めない。若い作者の歌集を読んで感じる違和感、その正体は何なのだろうか。
(佐伯裕子「空洞の美 ―平成の歌集から」)「日本現代詩歌研究」第14号
 
 
 
いまから三十年前、ひとつの対立があった。

ニューウェーブと小池光の対立である。

その座談会を、僕は書肆侃侃房のムック「現代短歌のニューウェーブとは何か?」で読むことができた。初出は短歌研究一九九一年十一月号。荻原裕幸が朝日新聞に発表した歌論「現代短歌のニューウェーブ」を受けてのものだ。

小池のニューウェーブ批判を一言でまとめるなら、「人間」の不在、となるだろう。短歌に自分を重ね、なぜ生きるのかと自分自身に問うようになぜ短歌なのかを問い続け、短歌とともに「人生」を歩ませること。

座談会のなかで、小池は短歌というジャンルの本質を「受けて返す」ことだと定義した。「何かを受けて返しているというか、その返すという所で成り立ってきた、ある詩の形だというふうに、僕は短歌を思っているわけ。」

その発言に荻原は「受けて返すということは、言ってみたらコミュニケーションの問題だと思うのですが」と反論を試みたが、小池が問題としているのは、作者と読者のコミュニケーションというより、「受けて返す」行為を担う、主体の存在そのものだろう。つまりは「人間」だ。加藤治郎、穂村弘、ニューウェーブ作品の内部には「人間」がいたのかどうか。

「これだとジャンルは終わりだと。短歌というのは、無になると思うと。」と小池は前衛短歌以降の潮流に一貫して懐疑的だった。「受けて返す」べき「人間」が存在しない短歌。このとき小池が議論の土台に提出したのが、小笠原賢二の評論「同義反復という徒労」である。

小池の要約を借りれば、「岡井、塚本から若手歌人まで、現在の短歌が外側から見ると一様にのっぺりした、出口のない同義反復に陥っている」という批判だ。
 
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「いまや時空意識は溶解し、前も後もないのっぺらぼう状態の中に我々は住む。そんな中では、メリハリのある明確な世界像を持つことが、殊の外難しくなっているように思われる。」

「現代歌人たちは、のっぺらぼうに広がる時空を前に、辛うじて定型によって自らに根拠を与え続けざるを得ない。その空しさに日々耐え、充足させようのない渇きをとりあえず満たすために強迫的に歌わざるを得ない。」

「日本近代この方の文学が自己主張型、凸型の自意識を追求し続けたとすれば、ここにあるのは自己消去型、凹型の意識である。言い換えればこれは、農耕型とも遊牧型とも違った、正真正銘の “宇宙遊泳型” の感性になるだろう。」
(小笠原賢二「同義反復という徒労」)「現代短歌のニューウェーブとは何か?」より引用
 
 
「のっぺらぼうに広がる時空」と言われて僕は、あれのことか、と今年のあの春を思い出さざるを得ない。

本コラムの第六回「続・ウィルスと現代短歌」に書いたとおり、緊急事態宣言を境に、僕たちの時間感覚は完全に機能停止した。まだ、十分に回復したとは言えない。

先月公開された映画「滑走路」を観たときも、そう感じた。ややネタバレになるけれど、この映画には「時間」に関してある仕掛けが施されている。中盤あたりでそれが明らかになるのだが、時間の感覚を失ってしまった観客の側からすれば、物語の中で時間が隔たっていようと前後していようと、そこに何の意味も見出すことができないのだ。

中国で原因不明の肺炎が流行しているというニュースを耳にしてから、もうすぐ一年が過ぎる。

この原稿を書いている十一月二十九日時点で、日本国内の犠牲者は二一二三人、世界では一四五万人にのぼる。

当初の予定では、今年の月のコラムは二〇二〇年に刊行された歌集を読みながら、リアリティの変化について考えるつもりだった。けれど、その目論見は早々に潰えてしまった。

ウィルスをなんとか気にすることなく作品を鑑賞し、歌会で議論することができるようになったのは、僕の個人的な感覚だが、本当につい最近のことだ。

ようやくまっさらな気持ちで短歌を読めるようになりつつあるいま、本来であれば四月か五月のタイミングで紹介したかった、佐伯裕子の評論の話をしておきたい。日本現代詩歌文学館が発行する「日本現代詩歌研究」の第十四号に書かれた「空洞の美」という文章だ。

冒頭で引用したように、佐伯もまた近年の「若い作者」の歌集にはこれまでにない感性の変化が認められると、二冊の歌集を例に挙げている。

ひとつは小佐野彈の『メタリック』だ。佐伯は「『メタリック』の一連の中心部には、空気の希薄な空洞が感じられる」と言う。
 
ママレモン香る朝焼け性別は柑橘類としておく いまは   小佐野 彈
 
佐伯は前川佐美雄や春日井建の歌を引き、彼らの作品には「男性中心のアララギの写生派」や、「性差を定める常識や倫理観」に対する強い抵抗があったと指摘した。

小佐野の「性別は柑橘類としておく」からは、そのような抵抗を読み取ることができない。肉感を持たない主体は、あたかも「境界」が存在しないかのように「何気なく」束縛をすり抜けていく。

もう一冊は大森静佳の『てのひらを燃やす』である。
 
背景にやがてなりたしこの街をあなたと長く長く歩いて   大森静佳
 
小佐野と同様、大森の歌も、読んで「実在する具体的なイメージ」が結ばれない。「細部」が書かれていないからだ。

「強力な一つの力が人々を支配する構造が、平成に入ってふいに崩れてしまった」時代。短歌は細かな事実を積み重ねることでリアリティが生まれる詩型だと思われていた。事実という中心がなければ、実体は抜け落ちてしまう。「事実の細部、中核の部分を抜かして、いかに深みのある歌にするか」。

佐伯は虚空を振り仰ぎつつ、こう書きとめる。
 
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リアルな細部をうたうのでもなく、新鮮な比喩を用いるのでもなく、歌の中心にほかっと洞が空いている。それをふっと美しいと感じるときがある。平成の末に至ってからの感想だ。そうあってはいけないと思っていた空洞が、美しいと感じられるのである。その空洞が、ただの洞ではないからだろう。言葉が縁取る心もとない空気。もの悲しく、美しい何ものかが感受できる歌。縁取られた、寄る辺ない洞なのである。
(佐伯裕子、同上)
 
 
小佐野や大森の歌に見出された「空洞の美」。佐伯の評論の後半では、森岡貞香と齋藤史がそれぞれの母を詠った作品が、昭和、平成の変遷とともに論じられる。短歌にとどまらず、「空洞」をキーワードに天皇からアイドルまでを読み解く、その射程の広さ。「日本現代詩歌研究」は現代詩歌文学館のページから注文できるので興味があればぜひご一読をお願いしたい。
 
 
三十年前、小池や小笠原は歌に「人間」がいなくなったことを批判した。内に空洞を抱えて歌をつくり続ける徒労を嘆いた。

しかしその営為は無意味ではなかった。歌人がその空洞と対峙し、空洞に「美」を発見するまでに、三十年の時が必要だったのだ。
 
 
 
江戸さんの歌がすごいことになっている、と思ったのはいつ頃くらいからだろう。
 
おくそくで幹をゆらしているのだろう葉擦れ、クレイジー、空はしずかで   江戸 雪
 
二年ほど前、京都で歌会をしたとき、僕はこんな歌を読んだ。なんというか、一読してすごい歌だと思い、読み返してもそのすごさは、ちっとも褪せていかない。

批評は難しい歌だ。

まず、主体の立ち位置がよくわからない。樹に感情移入した一首のようだが、「幹をゆらす」のは誰なのか。樹のなかで、意識が分裂しているようにも見える。樹が揺れているとしても「空はしずかで」とあるから、風は吹いているのかいないのか、はっきりしない。なにより「葉擦れ、クレイジー」の転調に、びっくりしない読者はいないだろう。

僕の感じる「すごさ」の正体をなんとか言葉で説明できないかと思ったのだけれど、やはり「わからない」が出発点では、どうにもうまくいかないようだ。

もう少し、別の角度から読み直してみよう。

この歌は江戸さんの新しい歌集『空白』に収録されている。
 
秋天にナナカマドの実のひとつからまたひとつ湧き風に揺れいる   江戸 雪

群れている実はときとしてひずみつつ憎みあいつつ空へと向かう
 
歌集は、この二首から始まる。ナナカマドは秋に赤い実をひとかたまりにつける。擬人化と言っていいのか、人間の「群れ」に見立てて風に揺れる実の印象が詠まれる。
 
 
「生きていると理不尽なことがたくさんある。すべてが理不尽なことだと言ってもいいかもしれない。努力は報われないことも多いし、出かけようと楽しみにしている日はだいたい雨だ。それでも私は希望を取り戻そうとそれに立ち向かう。怒って行動することが生きていることだと思い、報われるまでそれを続けようとする。」
 
 
あとがきには、こんな一節がある。

憎しみや怒り。一冊に通底するのは、ふつうネガティヴなものと思われがちな感情だ。
 
ばらがきれいばらがきれいと言うひとよそれが嘘なら君を信じる

みとめあうなどいいながら火を燃やすわれわれゆえに消なば消ぬべき
 
反面、世間には「薔薇が綺麗」や「認め合う」などポジティヴな言葉が流通している。そうした通念を押しのけるように、作者は言葉の奥に潜む感情へと踏み入っていく。
 
竹林を横にずらせば見えてくる怒りや過去やあふれる水や
 
直感的に「葉擦れ、クレイジー」と近いものを感じた歌だ。「怒りや過去やあふれる水や」の畳み掛けもすごいけれど、「竹林を横にずらせば」がすごい。竹林は、そう簡単にずらせるものではないからだ。

葉を揺らす一本の「樹」。わさわさとした「竹林」。その向こうにある、いわく言いがたいもの。
 
拐われるこころはついに分からずに海が啼くことおもえり夜半に

花びらが花びらささえハクレンよ抱くべき腕にひとはかえらぬ

ぽぽんぽぽん呼べば帰ってくるのなら喉がまぶしい沼になるまで
 
歌集には、いわゆる拉致事件の歌も多い。〈碧空をうけいれてきただけなのに異形のひととしてそこにいる〉と詠んだ『Door』の頃から、江戸がずっと追い続けているテーマである。大きな大きな理不尽を前にして、彼らは、作者は、何を考えてきたのか。
 
どんな夜もまぶたは自分で閉じるのだわずかの本当を水にうつして

待っていることが清らかだと言うなスズカケの葉が突っ伏している
 
先に引いたあとがきには「怒って行動することが生きていることだ」と書かれていた。悲しくてやりきれない現状に、なんとかやり過ごそうと考える人は多いだろう。黙って受け入れようと苦しんでいる人も。あるいは、なかばあきらめてしまった方もいるかもしれない。

作者はそれを否定するわけではない。「怒ろう」「行動しよう」と呼びかけもしない。

それでも「まぶたは自分で閉じるのだ」の歌に僕は、僕自身の主体性を手放してはいけない、と教えられるような気がした。
 
鳥の声するどく祈りをつらぬいて駱駝の葬りに花はいらない

どっちみち流す涙は空(そら)だからあざやかに飛べさようなら鳥
 
どんな理不尽も自分のものとする、主体的に引き受ける。

そのために作者は「怒る」のだ。

歌集を手にしてから半年。

こんなシンプルなことに気づくまでに、恐ろしく時間がかかってしまった。歌集のもうひとつのテーマは「死」という理不尽だけれど、これを論じるには、さらなる時間が必要だろう。
 
 
本を閉じて僕は表紙に書かれた「空白」の一語を見つめなおす。装画の真ん中に穿たれた、菱形の空白。まるで一枚の窓のようでもある。

いまの僕には、その向こうにあるものが、まだ、なにも見えない。
 
 
存在はあるのにいなくなる、そこに、百合が自転車になるまで、そこに   江戸 雪