8月の短歌イベントは少ない。
夏休みがあり帰省したりそれを迎えたりという人が多いこと、結社の全国大会が8月に開催されることが大きな理由だろう。
結社の全国大会自体が大きなイベントであるからそこに向けて集中しているとも言える。
とはいえ、ここ数年、結社の全国大会が8月を避けるようになってきた。
私の所属している「まひる野」も来年から5月開催に決まった。
「まひる野」の場合、かつては運営委員に学校関係者の割合が高く休みがとりやすかったことから8月に開催されていたと聞く。学校関係者の割合は相変わらず高いのだが、2泊3日だった大会が1泊2日になり普通の土日でも開催可能であることからそれならば気候のいいときに開催しようとなったのだった。
友人たちに聞くと全国大会は「コスモス」は5月に、「塔」は6月に、「かりん」「短歌人」は7月に「未来」は9月に開催されている。いつのまにか8月の開催のほうが少数派になっていた。それはそうだ。とにかく尋常ではない暑さである。
短歌の世界はなんだかんだ言って高齢者が中心だ。私だって父母が40℃の暑さのなか出かけようとしたら止めるかもしれない。
イベントが少ないと言っても、松村正直さんが「戦争と短歌」をテーマにした恒例のオンラインイベントを開いたり、村上きわみ歌集『とてもしずかな心臓ひとつ』に関するトークイベントが新宿紀伊国屋書店で開催されたり、札幌では文学フリマが開かれたりとイベントがなかったわけではない。
だが、せっかくなので今月はひとつのテーマを挙げて考えてみようと思う。
批評・歌集評はどのようにあるべきなのか
短歌はひとりで続けていくのが難しい文学である。ほとんどの人が結社や同人誌を通して、あるいはその他の方法で歌の仲間と出会い、互いに読み合い、相互批評をして研鑽する。短歌の読者や評者はかならずしも実作者に限らないが、実作者は必ず短歌の読者であり評者である。
① 実作者≒読者(批評者)であることの意味
岡井隆『いまはじめる人のための短歌入門』のなかに短歌の初心者、あるいは初心者でなくてもなかなか上達しない人にむけてこのように述べている部分がある。
結果として、わたしは、(ずい分とぶっきらぼうな言い方になりますが)わたしの接してきた初心の人たちは、わたしほど、短歌がすきではないらしい、と分かって来ました。
それでは、なぜ、短歌が大好きではないのか。他人の作品をよんだり、近代短歌史上の先人たちの歌をよんだり、現代の評判歌集をよんだりして、その味を、舌鼓をうつようにして賞味することがないようであります。それでは、短歌が好きになれるわけがありません。(岡井隆『いまはじめる人のための短歌入門』)
また、島田修三『短歌入門』にも以下のような部分がある。
短歌の良き作者であるためには、同時に短歌の良き読者であることが望ましいのです。(中略)具体的には、まず他人の作品を読みまくるということです。それも新聞の記事のように読み流すのではなく、一首一首の前にしばらく立ちどまってください。(島田修三『短歌入門』)
同様の文章はいくらでも見つかるだろう。
短歌が好きで、自分で作るだけではなく他者の作品を読み、味わうこと。飽きることなく詠み続け読み続け、批評をしていくこと。
そこに理由などなく、そうせざるを得ない人びと。
逆にいえば、そういう人でなければ何十年も短歌を作り続けることなどできないだろう。短歌は実作することと批評することとが表裏一体になっている文学なのだ。
短歌の批評は、多くは一首評から始まるだろう。その最も一般的な場は歌会であり、結社誌などの前号評である。
次に歌集一冊に対しての歌集評がある。歌集評の場としては結社誌などのほかに短歌総合誌からの依頼、また、歌集批評会のパネリストなどが一般的だ。
もう少し範囲を広げてテーマを据えての評論やシンポジウムへの引用の中で批評をしたり、複数の歌集を取り上げた歌人論などもあるだろう。ここは少し目的が違うので今回は歌集評までを範囲に短歌の批評について整理してみたい。
② 一首単位・歌会での批評(相互評)
批評とは「物事の善悪・是非・美醜などを評価し論じること。長所・短所などを指摘して価値を決めること。批判。(精選版 日本国語大辞典)」であるが、「難陳」という似た言葉がある。
尾崎左永子『現代短歌入門』にこのような記述がある。
明治時代、樋口一葉は中島歌子の門下として、和歌の修業に励み、歌門をひらくのを理想としていたが、彼女の日記にはたびたび速詠、難陳ということばが出てくる。「速詠」は早詠みの練習であり、「難陳」とは、一首の歌を「論難し、陳弁する」ことで、お互いに難点を批判し、それをうけて又自分の方法論を主張するのである。いわば「批評」の練習である。(尾崎左永子『現代短歌入門』)
ここでは「批評」と「難陳」は同じ意味で扱われているが、「難陳」という言葉は「難陳歌合」から意味がより分かりやすい。歌合の時に、「難」は相手側の歌を論破すること、「陳」はその相手の論難に対して反撃し、自分側の歌を優位にすること。つまり歌会における批評とはその歌の欠点を指摘することから始まっている。
これは、純粋な読者として読んで楽しむこととは大きな隔たりがある。それが目的なのだろうが、常に自作や自身の短歌観を背負っての発言になるからだ。よほどの恥知らずでなければ自作を棚に上げて他人の作品の欠点をあげつらうことは難しい。
難陳は旧派の方法であり、今は欠点を指摘することではなく長所を見出す批評が一般的だ。だが、そうであっても自作を背負って、あるいは自身の短歌観を背負って、莫大な過去の作品群と比較して価値をはかるという心理的な緊張は変わらない。
もちろん、批評は作者のために行われるものだ。
だが、私自身、歌会などで自作に対してされた指摘で記憶に残るのは、たとえば、中3句は5音厳守で、とか、上の句下の句どちらかに具体を、とか、どうもしっくりこなかったら上下をひっくり返してみるといい、などの技術面か、あるいは心の中に「落ちてくる」ものを捕まえるんだよ、とか、日本刀のように研ぎ澄まされた美しい歌を作っても意味がないよ、などの短歌の在り方についてである。
一首一首については正直「この歌うまく伝わらなかったなあ、作り直すか」「この歌すごく褒められたなあ、自選に入れるか」くらいにしか覚えていない。
歌会で大切なのは一首を仕上げることではなく、人の歌に自分が何を思ったかであり、自分や誰かがどのような発言をしたか、である。
では、一首ずつの相互評ではなく歌集評ではどうであろうか。
③ 歌集評
窪田空穂は窪田空穂全集8巻「歌論歌話」のなかでこのように言っている。
以前はそれほどにも思はなかつたが、近頃になつて、他人の抒情詩の集に対して、自分の感想をいふといふことは、なかなか容易なことではないといふことを経験してゐる私は、ことにそのこと(注・『濁れる川』について数氏から批評の言葉をもらったことについて)を嬉しく感じた。(『窪田空穂全集』8巻「歌論歌話」)
一首評に比べて、一冊を読み批評することは「なかなか容易なことではない」。
この文章は自著『濁れる川』について書かれていて、『濁れる川』への反応を紹介するとともに、補足を加えたり、疑問への返信をしたり、批評を受け入れて指摘を感謝したり、やわらかく反論をしたりしている。
弟子たちに求められての自註なのだろうが、労力に感謝する一方で、やはりひとこと言いたい気持ちに空穂でもなったんだな、という気がする。
歌一首と歌集ではやはり違ってくるようだ。そりゃそうだ。推敲の余地のある初出とは違い歌集にいれた歌はそれが完成形である。そこにあるのは作者と読者の一対一の勝負のようなものだ。
そこに加える批評はおのずから心構えが変わってくるだろう。
空穂は前出の言葉に続いて以下のようにも言っている。
批評といふことは畢竟、批評の対象となつているものを通して、評者自身を語るに過ぎないものだ、といふことは私も前々から思つてゐた。又、それより外に出来ないもので、それで結構だとも思つてゐた。(『窪田空穂全集』8巻「歌論歌話」)
このことは、例えば読書会などで5首選10首選などを持ちよるときに強く思い出す。誰がどの歌を選ぶかに個性が出て面白いのだ。選歌はそれ自体がひとつの創作行為であるとすら思う。
それは、ともすれば、人の歌集を持論の材料に堕としてしまう危うさをはらむ。私はそれは、歌集評ではなく、評論の領域であろうと思う。
かつて、武川忠一(先月相対的な若い世代が「タケカワ」と読むのをまた聞いてそれはこの1年で3人目であるが、正しくは「ムカワ チュウイチ」である。)が「複眼」ということを言った。
篠弘『残すべき歌論』は53人の歌論を篠の視点でまとめて紹介する一冊で武川も取り上げられている。武川の「複眼」はかなりややこしいのだが『残すべき歌論』は冒頭におおまかな流れを記した「概説」があり、そこによくまとめられている。
(武川は)とかく短歌が私性にもたれかかることを問題視して、むしろ「遂に〈私性〉から離れ得ないという、本質を再確認すべきであろう」と言い切っている。「すぐれた作品には、自己そのものには埋没しない、もう一人の眼があり、それが作品を統御しながら、しかもその自己のなかの〈他者〉は、全き自己に合一して表出されている。この発想の緊張関係が「調べ」であり、緊張関係をうしなうとき、短歌は、たちまち〈私〉そのものへもたれかかる」として、自己の内側に、もう一人の複眼の自己を置くことの必然性と、一人の自己に統御するために強烈な調べが必要であることを述べている。篠弘『残すべき歌論』)
これを私は、
短歌のなかの〈私〉というものはどんなに消そうとしても消えず、油断するとべったりと表れてくる。意識して自分の中にもうひとつの客観的・超越的な目を存在させ、その目をもって歌を作る。そのとき〈私〉は溶けるがそれは〈調べ〉として現れてくる。
というような意味で受け取った。消そうと努力してどうしても残るものが個性とでもいえばいいだろうか。
批評もおそらくそうで、可能な限り客観的に読み、論理的に納得させる努力をすることは作者と作品への最低限の礼儀だ。しかしそこにはどうしても書き手が反映されてくる。読む方として、そこがまた面白い。そんなものであろうと思う。
では納得させるとはどうすることだろうか。
吉田彌壽夫『現代短歌・作家と文体』の中の一節
近代批評というものは、自然科学におけると同様、豊富な資料を駆使した正確な立論の上にはじめて構築されるものであって、この努力を怠ったならば、歌壇は評論の面においても、他のジャンルからとりのこされることは必定である。(吉田彌壽夫『現代短歌・作家と文体』)
はその面で参考になる。
批評には説得力が必要で、その理屈づけのために情報があるということだ。
情報とはなんだろうか。
自然科学における実験やデータと同様に歌集評では作者の情報はひとつの資料に成り得るだろう。
作者と共通点の多い読者、たとえば同世代、同業者、同郷などであればそうでない読者より理解が早いし、共感も深い。同一結社であったり実際に面識があったりする場合もそうだろう。最初から作者へのチューニングが合っているのだ。
現実を根拠に短歌を深読みするのは歌人論の領域だろうが、歌集評においても特に新人の歌集の場合しばしば期待されるし、そうして書かれた評は実際に歌集の読みを深めることも多い。
だが、それはあくまで背景であり、もっとも重要な資料は引用歌一首一首への読みであり、その読みというのは書き手の培ってきた知識体系とともに、自作や短歌観を背負った経験のなかから生まれる。
批評はまず、作者とその一首、あるいは一冊に向いている。しかし、それは同時に評者の短歌を太らせ、また第二の読者の理解を深める。あるいは、先に第二の読者への提示なり紹介なりがあって、作者に還っていく場合もあるかもしれない。いずれにしてもこの三者の緊張関係が短歌の世界であろうし、あってほしい。
3行まとめ
・短歌は実作するとともに読み批評する文芸である。
・他者の歌を批評することは自分の歌と短歌観をはぐくみ、批評は自己を反映する。
・実作とともに批評もまたなるべく客観的な内なる目を育まなければいけない。
