知覚と認知 横山未来子歌集『とく来りませ』

横山未来子さんの歌集『とく来りませ』(砂子屋書房・2021.4)は、知覚の歌集である。日常にある対象を見つめるとき、作者の感性がとくに活かされる。取り立てて際立ったものを対象として描くのではなく、ていねいに身の周りの対象を感じとって描くスタイルである。いくつかの特徴をあげながら、この歌集を読み解いてみたい。

嗅覚

まず、多く表れるのは「にほひ」「香り」といった嗅覚に由来する歌だ。

 

水に触るるごとくかをりにふれて見る薄日のなかの梔子の白

 

濃き影は蔭にうすまりさまざまの枯葉のにほひ充ち始めたり

 

掃かれたるのちものこれる檜葉の香のさみどりの血のごときを嗅ぎつ

 

たまさかに隣りあひたる犬とわれ枯葉のにほひ吸ひつつゆけり

 

日の昏れに花舗をいでたり足もとの冬の菫のにほひ分けつつ

 

生きものの匂ひ濃き昼の木に添へり憂ふることのあらぬ日のごと

 

匂いは、つねに生命とともにある。一首目、「梔子の白」のかおりが描かれる。香りに「ふれて見る」という三句目は、嗅覚を表現したものでありながら、「ふれて」(触覚)「見る」(視覚)も同時に働いているのだ。深い梔子の香りは「見る」ほどの香りであり、この場合の香りは、主体がその深い香りにどのようにアクセスしたのかという動態が示されている。

二首目と四首目は、「枯葉のにほひ」が印象的だ。枯葉は樹から離れ、既に枯死しているはずなのに、それはそれで匂いをもつ、「充ち始めたり」という。まさに存在自体が充溢している匂いであるのだ。

五首目の「冬の菫のにほひ」、花舗には依らない自然物としての「冬の菫」は希少な存在である。切り取られた花舗の花、そして地に生え、冬の厳しさに耐えている菫は、それぞれ匂いが違う。生命がそれぞれに自らの匂いを持っている。

六首目、「生きものの匂ひ」=生命に充ち溢れた木に「添う」ということをする、主体はどう接近するか。「憂ふることのあらぬ日のごとく」にである。心には濁りがない者のように。生命の充溢した木に近づくことは、清冽でなくてはならないといった姿がある。

 

視覚

本歌集中、「見る」という感覚もより際立つ表現である。

 

毛羽だちて雪うかびゐる空間を地にとどまれるわれは見てをり

 

春の雪のひとつひとつに遮られ木は見えがたし午後の窓より

 

退りゆく風景のなか讃美歌をうたふ人びとの口のかたち見つ

 

くろずみつつ朽ちゆく蘭をかたどりしガレの器を見たしとおもひぬ

 

のどを塞ぐかなしみはなく冬枯れの野茨の実を見つつ歩める

 

「見る」ということが一つの作品のなかでどのように使われているか。

一首目、雪がうかぶような「空間」を、地に居る「われ」が見る。消えゆく雪という存在とこの地平に存在する主体の対比がある。「地にとどまれる」という把握は宗教的なものも感じさせる表現である。
三首目、焦点を絞って「讃美歌をうたふ人びと」ではなく、それらの人の「口のかたち」を見ている。「口」という部分は何をうたっているのかを知らない。発する声によってその声をことばにかたち作る。

五首目、それほどのかなしみを持ち合わせてはいないときに、鋭い棘のある「野茨の実」を見るのである。ここにも対比がある。反対に、二首目、四首目のように見えないことをいう作品もある。春の雪に遮られる「木」、目の前にはない「朽ちゆく蘭をかたどりし」ガレの器を見たいと思うという。

これらの「見る」歌から読み取れることは、日常に何気なく見ることではなく、主体にとって特異な状態を取っている事象(負のイメージを持つ)を見ることであり、あるいは、見えないそれらを待ちのぞむことである。自らを律するような厳しさを持つ「見る」という動作は、主体の内面が何を欲しているのかを暗示している。

 

聴覚

三つ目の知覚は「聴覚」についてである。

 

老い人がをさなきものに教へゐる草の名きこゆ塀をへだてて

 

時の間のまぼろしのごとをさなごの性をわかたぬこゑひびくなり

 

かすかなる音を聞きたり紙にあたり折りかへさるる穂先の跡に

 

重りゆく一樹をおもひ明けがたに降りはじめたる雨の音聴く

 

手をしばし止めゐたるとき卵白の気泡消えゆく音をききたり

 

聴覚の表現では、微細なものの音を捉える表現が際立つ。

一首目、幼子に教えている「草の名」、「をさなごのこゑ」穂先の「かすかなる音」明け方に降る「雨の音」、「卵白の気泡」の消滅音など、注意を向けてはじめてきこえてくるような音である。主体は、しかし、注意をむけていなくても「きこゆ」きこえるし、「聴く」それを意図して聞いてはいないが捉えている。感覚の鋭敏さと繊細さが際立つのである。

ここまで三つの感覚を見てきたが、一般に、対象の描き方、あるいは描写の深さというのは私たちが「見る」ことによって成り立ちやすい。写生は「見る」ことによって成立するし、喩も、別な対象を読み手に提示して「見させる」ことから始まるのだ。

しかし、本歌集では、感覚はつねに独立しており、主体の感覚を、読み手が再び辿るという構成をとっている。一つずつの作品に描かれた感覚は微細なものである。微細を感じさせる表現を積み上げてゆくことによって、主体像が繊細な像として読み手の中へ成立してくる。それは、作り手が読み手側の認知システムを使っているからで、微細なものから目を上げたとき、世界が異なったように見えるのは、認知のシステムが作り手のものをなぞっているからだ。

横山氏の読む対象は、決して特異なものではない。むしろ、ありふれた知覚を、「見る」「聞く」など、ありふれた動態によって表現するとき、そこに至るまでの描写が異界めいてくるまで、言葉を磨くことが肝要であると改めて考えさせられる。