「わたし」という表象 山崎聡子歌集『青い舌』

山崎聡子さんの歌集『青い舌』(書肆侃侃房 2021.7)が刊行された。

母として、子として、「女性」の歩みゆく世界を投射する作品群だ。これから様々な歌人が主題を読み解いていくだろうから、ここでは一つずつの特徴を見ていきたい。

 

韻律について

 

子供らの熱をひざ上に乗せながら小さなカップケーキ分け合う

 

親であること泥のよう足首を掴んで熱いシャワーで洗う

 

手首に咲く紫陽花そこに血が通うこと確かめる陽のふきだまり

 

深爪をからだの先に引っかけて昼でも暗い坂のぼりきる

 

 

四首の特徴的な作品を挙げた。一首目は、下句「小さなカップケーキ分け合う」に注目したい。句跨りであると同時に、助詞がない。小さなカップケーキ「を」分け合うとしたいところだが、「を」は省かれていて、「カップケーキ分け合う」とする。五七五七七のリズム的にはピタリとはまって、かつ舌足らずな人物が語っているような印象も醸されている。

二首目は一首目と隣り合う作品。親としての主体を描いている。初句・二句目の「親であること泥のよう」の構成で助詞が省かれている。

親であること「は」泥のよう、あるいは親であること「が」泥のよう と主格の助詞があてはまるのだろうが、そうしないのは、初句・二句を韻律よく整理するためだけではなく、主体像を浮かび上がらせる役割もある。親という定義をイメージで描写したのちに、三句目以降は具体の描写が際立ってゆく構成だ。

三首目は全体的に定型がずれている。「紫陽花」と「ふきだまり」とイ行音で通底させていて、「血が通うこと確かめる」は助詞「を」を省いている。四首目も下句に特徴が出ている。「坂のぼりきる」、助詞「を」が省かれている。

定型のリズムを優先する部分もあれば、句跨りで意味を優先する部分もある。助詞を省く独特の韻律は、口語体であることはもちろん、描出されている主体の「独語」をさらに強く映すのに効果的である。

 

「わたし」の表象

 

水泳帽のなかの髪の毛わたしから引き剥がされるようにもつれる

 

蟻に水やさしくかけている秋の真顔がわたしに似ている子供

 

頼りなくてごめんねわたしオナモミをこんなにつけてごめんごめんね

 

ファスナーで胸元裂いてぐらぐらとわたしのなかの夕闇を出す

 

 

二つ目の特徴として、とりわけ「わたし」が頻出することを挙げたい。

従来、とりたてて「われ」と提示しない場合、描かれている視点は描き手のものと読むのが暗黙知としてあった。この歌集では「わたし」とあえて出して描いていて、私性の濃い短歌に多く触れてきた筆者には、「わたし」という確認がやや多いのではという印象も持つ。

一首の中の主体のありかを提示する方法としてとても分かりやすく、「わたし」という主体はとりわけ、主訴が強く、あらゆる部分で存在感を出している。

一首目、この作品の主語は「髪の毛」である。身体のみに着目し、「髪の毛」が「もつれる」という状態をどのように捉えているかを差し出している。このなかで、「わたし」は、主体ではなく、引き剥がされる「場所」である。

二首目は比較の歌。親子の関係性を見つめているが、似ているという「わたし」。実は他の語句でも置換可能である(その父や祖母、他比喩・見立てのもの)が、あえて、「わたし」に似ているとすることで、ほほえましさよりも気味の悪さ、なにかの深々とした不可視なものまでも感じさせる空気が漂う。しかもこの「子供」は蟻に水をかけているという無邪気で残酷な虐めのようなものの精神性まで、「わたし」と相似するものを「子供」に見出だしているようにも読めるのだ。

三首目は独白・口語体。「わたし」を外側から客観的に見ている。視点は「わたし」ではないところにあって、「オナモミ」をつけている「わたし」を見ている。主体にとって、オナモミが付いたことが「頼りなくて」罪悪感をもって謝罪しなければならないこと であるから、主体は表象された「わたし」に謝罪するのだ。主体の志向が示されている。

四首目は私性的な構成。「わたし」は変幻自在だ。三人称的でもあるし、従来の「われ」的でもある。広がりを出す上では有効な使いかただ。「出す」のは「夕闇」でなくてはいけなかった。たとえば「花束」や「月」だと、この歌の暗鬱さが剥がれてしまうからだ。「夕闇」という語句の必然は、主体像の表象に根拠をもっている。

 

多岐にわたる「わたし」の使いかたは、「わたし」の多面性を様々な方向から照射するとともに、作品の世界線を構築する重要な要素でもあった。三人称的な、客観的な「わたし」は、偶然、主体として描かれているにすぎず、そこに三人称の名を当てはめても違和感は少ないのではないか。助詞を省いた独語的な文体は、寂しげで、ときに残酷で、クールで、哀しいと読み手に思わせてゆく。

様々な角度から造形される「わたし」が、様々な文体、ディテールによって強化され、(それは名詞が醸すのではなく、先に述べた助詞の省略も含めて)ときに、とりたてて強めて描かれることで、親と子と血と時間といったもっと奥の主題を描出してゆくのだろう。