当事者性とインターセクショナリティ

「現代思想」(青土社)2022年5月号の特集「インターセクショナリティ 複雑な〈生〉の現実をとらえる思想」を興味深く読んだ。前年にパトリシア・ヒル・コリンズ&スルマ・ビルゲ『インターセクショナリティ』(小原理乃訳、下地ローレンス吉孝監訳、人文書院・2021年11月)の翻訳刊行があり、それを受けての企画であるように思うが、短歌は元より文芸全般に関わる人にもぜひ一読を薦めたい特集である。

交差性と訳されるインターセクショナリティ(intersectionality)とは、そもそも何であるか。前出の『インターセクショナリティ』の冒頭部には次のように記されている。

 

 インターセクショナリティとは、交差する権力関係が、様々な社会にまたがる社会的関係や個人の日常的経験にどのように影響を及ぼすのかについて検討する概念である。分析ツールとしてのインターセクショナリティは、とりわけ人種、階級、セクシュアリティ、ネイション、アビリティ、エスニシティ、そして年齢など数々のカテゴリーを、相互に関係し、形成し合っているものとして捉える。インターセクショナリティとは、世界や人々、そして人間経験における複雑さを理解し、説明する方法である。
(P.H.コリンズ&S.ビルゲ/小原理乃訳、下地ローレンス吉孝監訳『インターセクショナリティ』人文書院・2021年11月、原著2020年[第2版])

 

また、「現代思想」特集中の文章で森山至貴は、「多様性は人々のあいだの違いを認めようといった方法を含意としてもつ以前に、端的に事実である」、「ダイバーシティ(多様性)が方針であるだけでなく事実も指すものであるように、インターセクショナリティ(交差性)も方針であるだけでなく何らかの事実を指す言葉であるはずである」とした上で、インターセクショナリティの概念を次のように説明し直している。具体的な事例を各々で想起しつつ読みたい文章なので、少し長くなるが以下に引用する。

 

 事実と、事実に対する方針のふたつに大別できるインターセクショナリティに関して、事実に対する方針におけるその「対し方」は限定的なものであることもダイバーシティ概念との対比でさらに指摘することができる。ダイバーシティは「現に人々は多様である」という事実であり、他方「そのように認識すべき」「そのことに着目すべきである」という方針でもある。さらに、特定の組織や集団を「そのようにするべき」という方針としての意味を持たせることも可能である。社会全体であればすでにそこに存在する人々は多様なのだが、特定の組織や集団の内部が均一で同じような属性の者ばかりということはありうる。この場合、その状況の是正という「そのようにするべき」型の方針は十分にありうる。他方、インターセクショナリティを「そのようにすべき」という方針として理解することはできない。「わが社のインターセクショナリティを推進する」ことはできないか、むしろ推進するべきではない。たとえば健常者優位の社内風土と男性優位の社内風土をより相互依存的にすることは、目指されないし、目指すまでもなくおそらくすでにそうだからである。逆に、二つの社内風土を分離することが目指されているわけでも、もちろんない(分離しているのであれば健常者優位、男性優位であってよいわけがない)。
(森山至貴「「今度はインターセクショナリティが流行ってるんだって?」」[*1]「現代思想」2022年5月号)

 

換言すれば、個々人がどのような「事実」に身を置いているか、複合的なそれらを解きほぐしてしまうのではなくそういう「事実」として向き合うための認識の実践がインターセクショナリティということになるだろう。

翻って、短歌という詩型は単に文学的表現やジャンルの一形態であるだけでなく、それこそ「特定の組織や集団」として、〈場〉としての機能を発揮していることは、〈歌壇〉という言い回しひとつとって見ても明らかだろう。この短歌という〈場〉は、同じ詩型の共有する者同士として以上の同質性を参与者に要求、強制することがある。選歌や添削、あるいは歌会や誌面上での作品鑑賞が、〈読み〉と〈詠み〉の技術的精練や継承として作用する一方で、何らかの正典や正統とされるものに基づいた価値を新規参入者に植えつけ、矯正=強制する側面も有している。さらに、評論やアンソロジーで作品が繰り返し取り上げられることによって作品が〈場〉に迎え入れられる一方で、同時に〈場〉に迎えられないことや既存の〈場〉への批判を行うことが、〈場〉における内-外の構造がより強化されている点も見逃せない。

加えて、短歌で用いられる〈私〉はともすれば個々人における「事実」の複合性を抹消してしまうことがある。たとえば恋愛を題材とした歌について、その歌の主体である〈私〉がシスジェンダーかつヘテロセクシャルであるかのように読まれがちなのは、マジョリティ的なものの無徴化として顕現するし、他方、性的マイノリティであるという〈私〉の「事実」が背景にあるならそれを歌の中に提示しなければ通じない等という言説がまかり通るとすれば、それはマジョリティ側からマイノリティ側に対する有徴化の強要にほかならない。4月の当コラムで私は、「詩客」時評における大松達知の山下翔作品の読みに疑問をつけたが、楠誓英も「現代短歌」2022年9月号の時評で「読みにひそむ「偏見」に自覚的であり、大松がとても誠実な歌人であることは間違いない。同時に、大松の読みの狭量さにも驚いた」、「「性的指向」や「プライベート」を明らかにしなければ評価されないとは滑稽である。そもそも、「深い森」そのままを差し出すのが文学ではないだろうか。「深い森」そのままを差し出して、評価される時代が来て欲しいと切に願う」と批判的に言及している。適切に読まれることと評価されることは必ずしもイコールではないが、短歌という定型を通じて発現する言葉の背後で、書くことと伝わることの共犯関係がいかに多数派的なものとして形成されているかについて、私たちはもう一度立ち止まって考えてみる必要があるだろう。

 

 

「現代短歌」2022年5月号の特集「アイヌと短歌」で、バチェラー八重子(1884-1962)の歌集『若き同族ウタリに』(竹柏会・1931年4月)が誌上復刻されている。同誌掲載の評論「歴史の闇をこえて生きつづける民族のうた バチラー八重子論」[*2]で天草季紅は、同書に寄せられた新村出、佐佐木信綱、金田一京助の三名による序文が「八重子の短歌を日本の和歌に連なるものとして歓迎している」のに対し、八重子自身は「日本語に不特手な自分が、アイヌ語のわからなくなったアイヌの若者たちに、思いを伝えやすい詩型として短歌を選んだ」のであり、和人の学者たちによる無理解と「皇国の欲望」によって、歌集出版という作品の受容=需要の在り方が最初から歪められたものであった点を指摘する。詳細は天草の論考を参照して欲しいが、アイヌ語研究の権威が語注と訳文を付しているのだからと信用しては読めないという歴史的事実に、思わず息が苦しくなる。

 

モシリコロ カムイパセトノ コオリパカン ウタラパピリカ プリネグスネナ
mosir(i) kor(o)
kamuy pase tono
ko・oripak・an
utar(a)pa pir(i)ka
puri ne kusu ne na
[大地の神、尊い方をわれら敬う人々(の長)よ良い行いをしましょう]
(バチェラー八重子『若き同族ウタリに』、および天草季紅による訳とローマ字転記)

 

同化教育によりアイヌ語を解さなくなってしまった「若きウタリ」に語りかける歌が目立つ一方で、同書からは、キリスト教(聖公会)を受容し、宣教師の養女となり、自身も聖公会の伝道に務めた八重子の境遇の特異性も読み取れる。一冊の歌集の中で、アイヌの神や英雄とともにキリスト教的な「天つ神」が登場するのは興味深い。短歌の中でアイヌ語を語り継ぐことと、キリスト者のアイヌとして教えを伝えることが、八重子の中でどのように交差し、重なりあっていたのだろうか。

 

たゞひとつ ウタリをかす をしへも いまつたへる ひともなきかな
うつつにて われるかな いにしへの しろのかたみの ロンドンたふ
(バチェラー八重子『若き同族ウタリに』)

 

また、昨年文庫本で『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫・2021年6月)が刊行されて話題となった違星北斗(1901-29)の歌を論じた河路由佳の「一九二〇年代後半に現れた口語定型短歌の彗星 違星北斗論」にも重要な指摘があった。北斗の口語短歌について、河路は「口語定型は現代では一般的で、北斗の作品は読みやすいため、時の隔たりを忘れさせ、それが理解の邪魔をすることがある」とはっきり記している。北斗が生き、作品を書き記した時代にはまだまだ口語の短歌は実験の途上にあった。加えて北斗はアイヌ語を話せず日本語を用いる、八重子が「若き同族ウタリ」と呼び掛けた世代のアイヌでもあった(実際、八重子の歌集には〈はかて ともになにをか かたりなむ こともなき あきゆふぐれ〉という、「逝きし違星北斗氏」と詞書の付された歌が含まれる)。それゆえ、日本語の、しかも口語で書かれた北斗の短歌は、北斗によるアイデンティティ・ポリティクスの表明であるとして再読することができるだろう。

 

日本に自惚れてゐるシャモどもの優越感をへし折ってやれ
暦なくとも鮭来る時を秋としたコタンの昔 思ひ出される
(違星北斗『違星北斗歌集』、「シャモ」=「和人」の意)

 

もし、北斗の歌をその見た目上の分かりやすさだけを理由に口語短歌の初期の試みの一例としてだけ理解したとすれば、それは時代背景を無視した上に「和人」=マジョリティ側が持つ優位さや無徴性に無自覚な解釈であると言わざるを得ない。敢えて厳しく言うが、〈読み〉と〈詠み〉が先鋭化すると同時に抱え込むある種の遊戯性について、短歌という詩型は和歌以来の意味でもテクスト論的な意味でも無防備かつ無自覚が過ぎるように思う。その一方で、「和人」の側がアイヌの人たちの手による短歌を都合良く取り込むことも、八重子の歌が被った不幸せな受容=需要に繋がるものとして、警戒しなければならない。

同誌掲載の評論「異民族への「興味・関心」と「蔑視・差別」 近代短歌においてアイヌとは何だったのか」において松村正直は、近代歌人たちがアイヌを詠んだ歌を丹念に例示した上で、「そこには、異民族であるアイヌへの興味・関心とともに、同化政策や帝国主義的な世界観を背景とした蔑視や差別意識も含まれている。アイヌに対する深い考察というよりは、もの珍しさやエキゾチシズムにとどまっているものも多い」と結論づけている。一方で、たとえばヨーロッパを訪れた経験のある与謝野寛(鉄幹)における自己相対化の視点などに対し「興味を持って知ろうとすることは無関心よりも積極的な態度である」として一定の評価を与えているが、すでに評価の定まった近代歌人たちのその程度の興味・関心に「一定の評価」を改めて与える必要が果たしてあるのだろうかと疑問を感じた。昨今では漫画『ゴールデンカムイ』(野田サトル著、集英社・2014~22年、全31巻)等を通じてアイヌ文化に関心を持つ者も増えたが、果たしてその視線は、近代歌人たちのそれと変わったかというと、疑問符をつけざるを得ないのが現状ではないか。

「現代思想」2022年5月号の対談で、文化人類学者の石原真衣は「(…)今はアイヌの政治経済的な価値が高すぎる」と指摘し(石原自身、アイヌの祖母を持つクオーターである)、「やはり共生という言葉は特権性のある立場の人が一方的に振りかざしている印象で、自分が先住民フェミニストとして研究し発言していくうえでは――とりわけ日本人が自分の「白人性」に気づけていない今の状況のなかで――マイノリティの側から「共に生きる」なんて絶対言えない。共生も対話も、あるいは「ダイバーシティ」もそうですが、いずれもマイノリティにとって非常に暴力的な概念だと思ってます」と述べている。八重子や北斗の歌と向き合う時、「和人」の側は彼らの作品を自己のマジョリティ感情と差別意識に対してのリトマス試験紙か何かのように扱っていないか、もう一度検討して検討してみた方が良いだろう。そこにあるのは短歌である以前に圧倒的な〈他者〉の記録であり記憶である。〈私〉を通じた主観的表現を共有する手前でやらなければならないことが、まだまだたくさんあるはずだ。

 

 

北もあれば当然ながら南もある。先述した「現代思想」で石原と対談したのは、先に紹介した『インターセクショナリティ』の監訳者である下地ローレンス吉孝であった。下地自身はアメリカ兵の祖父と沖縄人の祖母を持つクオーターである。〈ハーフ〉や〈混血〉〈ミックス〉に関する社会学的見地からの研究を行っている下地はしかし、石原との対談の中で「私の場合は自分自身の存在がすでに矛盾を含んでいて、内地人とウチナーンチュと、さらに支配的な米兵のルーツまでもがミックスされている自分が、例えば基地問題などについてどんな立場で何を話せるのか――アイデンティティ・ポリティクスの文脈のなかで発言するのは未だに怖くて、なんと言っていいかわからないし、ずっと悩んできた部分があるんです」と語っていて、その割り切れない思いが強く印象に残った。

下地の発言を通して思い出したのは、浜﨑結花の歌と発言だった。「現代短歌」2018年8月号に採録されたパネルディスカッション「分断をどう越えるか ―沖縄と短歌―」(2018年6月17日開催)で為された浜﨑の会場発言を、運営スタッフの一人として私は現地で聴いたのだった。

 

会場(浜﨑結花)(…)私は基地容認派なので、まだ人生経験は浅いんですけど、自分なりの考えがあって容認しています。それに対して反対派の方から、圧力をかけているつもりはないのかもしれませんが、容認でいることが悪いみたいなのを感じてしまったり、短歌の良し悪しではなくて、題材にしたことを肯定するか否定するかという問題になっちゃうんじゃないかという不安もあって、沖縄を詠めなかったり、あえて詠まなかったりというのが実際あるので、詠みたい気持ちはあるんですけど、詠めない人、あえて詠んでいない人が若い世代のなかにいることを感じてもらえたらうれしいな、と思います。
(「分断をどう越えるか ―沖縄と短歌―」「現代短歌」2018年8月号)

 

いま、この発言を読み返して、恐らく浜﨑も何らかの怖さを感じながら自分の声を発したのではないかと改めて思った。

浜﨑の発言を受けて、パネリストの平敷武蕉は「しかしね、基地容認派は少数派じゃないですよ。なにしろ安保条約を容認する大多数の国民がおり、国策として基地建設を進めている。国家権力が味方としてある」と指摘し、同じくパネリストの吉川宏志は「そもそも、他国の軍隊によって七十年以上も占領されているのは、異常事態なんですね。知らず知らずのうちに慣らされてしまっているけれど。(…)短歌は無力な表現方法ですが、現実に対する疑いは大切にしたい。声高に詠わなくてもいいんだけれども、社会に対する違和感は言葉にしていく必要はあるんじゃないかと僕は思います」と述べたが、そんなことは言われるまでもなく浜﨑は理解していたはずだ。なのに何故、ここで敢えて基地容認派として発言したのか。

ここで平敷や吉川の指摘を否定するつもりはない。平敷の言うように基地問題は「国策」であり、外交問題でもあるし、沖縄と「本土」との不均衡な関係性は指摘するまでもない。吉川の発言も、浜﨑をはじめとする若い書き手へのエールだったと受け取るべきだろう。しかし、だからこそ、少数派ではないものが少数派に見える現象、「無力な表現方法」であるはずが「声高に」受け取られてしまう現象について、平敷と吉川の応答はスルーしてしまっているように見える。

同号に掲載されたパネルディスカッション印象記で浜﨑は、次のように書いている。

 

 「沖縄」は大きく、複雑なテーマだと思う。技巧よりもテーマ性を評価されることを私は何より恐れていた。ディスカッションの中でも触れられたが、「難しいテーマを選んで歌を詠んでいること」が、歌の持つ魅力以上の評価に繋がってしまうのではないかという不安が拭えなかった。詠みたいのに読めないという葛藤は、いつも胸の中にあった。
(浜﨑結花「現代短歌」2018年8月号)

 

ここにあるのは、容認と反対の二極化する立場のなかで引き裂かれつつある当事者性の一端ではなかったか。

「現代短歌」2022年7月号の特集「沖縄復帰50年」に掲載された評論「沖縄の短歌半世紀をふりかえる」で名嘉真恵美子は、かつて小高賢が「歌の弱さと強さ」(「短歌往来」2013年8月号)に記した沖縄の歌に対する批判的見解について「私は所属結社の全国大会や結社誌、短歌雑誌に寄稿された文章などから、中央歌壇(あるとするなら)の作歌の現場はある程度は理解しているつもりだったので、小高さんやその他の人の、沖縄の短歌に対する批判も何となくわかっていた」とする一方で、当時感じた「変な感じ」について回想しつつ、次のように記している。

 

 実際、小高さんの指摘と提案は至極もっともである。
 方言の使用には短歌の内容上、必然性があるかという確認と、理解しやすくするため共通語との対応関係を配慮することが必要だ。沖縄の歴史、史跡、観光地の歌などは心が入れやすいが、類型にならないかなどの注意が必要だろう。固有性が最も難しいところ。それは自己の生活と思想との総和したところから発露される。簡単には説明できないが、いい短歌を読みながら獲得していくという個人の勉強が必要だ。ついでに言うならば、固有性の問題は必ずしも沖縄だけのものではないだろう。
 ともすれば言語が示した意味内容中心に読む、そして詠むことの多い沖縄の短歌では、気持ちを表す言葉がなくても気持ちを表すことができる方法があるということを理解することが必要だ。(…)
 その後、沖縄の短歌は変わったか?ということが興味深い点だが、ダイナミックな変化はない。しかし、私自身を含め、いくらか沖縄の短歌が「弱く」なっていった気がする。特徴の一つであったインパクトがなくなっていくような気がする。インパクトは必ずしも表現上はマイナスではないはずだ。しかし、小高さんの文章以来、一部の人はインパクトがマイナス要素だと考えているようだ。
(名嘉真恵美子「沖縄の短歌半世紀をふりかえる」「現代短歌」2022年7月号)

 

中央-周縁の権力勾配が存在する以上、「至極もっとも」なことを中央の側から言われても困惑するしかないわけで、沖縄の短歌の歴史を抜きにした状態で「インパクト」に賭けた表現の先例を否定してしまうのは問題だ。一方で、「技巧よりもテーマ性を評価される」と感じ、「インパクトがマイナス要素だと考え」る者は、それこそ沖縄という現実の中で自分が何者であるのかを語る言葉にすら詰まってしまうのではないだろうか。反戦や基地反対のメッセージが含まれた歌を、アイデンティティ・ポリティクスの実践例として挙げることは容易いが、一方で二項対立による分断は、片一方が包摂することで乗り越えられるものでもないはずだ。

それゆえ、「分断をどう越えるか」という問いに対する答えは、越えようとする前にまず認識し、互いを横断するところから始めたらどうか、となるだろう。先述した「現代思想」の対談で下地は「現に違いは違いとして存在しているのだから、それをまず認識するところから始まるのではないか。だから乗り越えてしまうのではダメで、違いをそのままにしながら〝横断〟していくことが必要なのだと思っています」と語る。あの時、浜﨑の発言を場違いなノイズとして受け取った人がいるならば、むしろ何故自分が場違いでないかと、浜﨑の発言がどうして何らかの沈黙を破ったように感じられたのかと、考えてみる必要があるだろう。

 

大切じゃないわけじゃない 埋め立ての日取りの決まりゆく珊瑚礁
(浜﨑結花「まっすぐ」「現代短歌」2018年8月号)
だれにでもやさしい人を少しだけ呪う 手花火青くたなびく
(浜﨑結花「ゆいレール下り線(てだこ浦西方面)」「歌壇」2022年6月号)

 

社会的な文脈を再検討する際の方法として、インターセクショナリティの理論は今後さまざまに援用されていくだろう。それは〈私〉というある意味ではもっとも強烈な「当事者」を援用しがちな短歌においても、例外ではないはずだ。

 

 

ところで、ここまで書いたのだから、当然書かなければならないことがある。以下、次回。

 

[*1]タイトル全体が最初から会話を模した「」で括られているため、このような表記となった。
[*2]天草の論考では「バチラー八重子」で統一されている。