第65回短歌研究新人賞は、受賞作候補作含めて読み応えのある作品が多かったように思う。なかでも受賞作であるショージサキ「Lighthouse」30首は、非対称の力ないし関係性の発現をつぶさに捉えつつ、歌同士が有機的に関連づけられて読まれ得る仕掛けの施された傑作である。
年上の女のひとが車道側歩いてくれて今だけ女児だ
顔も手も胸も知ってる友人が知らない男と生殖してる
種を蒔くほうに生まれてみたかっただろうか種を育てる身体
花を踏む 咎める人の足元はコンクリートで幸せですね
(ショージサキ「Lighthouse」「短歌研究」2022年7月号)
引用1首目、「年上の女のひと」によって守られる側となった自身を「女児」と呼び表した、というだけの歌ではないことに注意したい。一緒にいる相手より車道側を歩く、という行為に含まれる〈守る/守られる〉の関係は、今回はたまたま年齢の違いによって〈守られる〉役割を歌の主体側が担うことで発現したわけだが、しかしこれは「今だけ」のものだ。この〈守る/守られる〉という役割を伴った関係性には無数のヴァリエーションが存在するわけだが、共通するのは〈守る〉側の方が強いものとされる、という点である。相手の性別、年齢、身長や体格といったさまざまな要素が重なり合った地点で発現する、力の勾配を伴った、「今だけ」でありつつも無限に繰り返される関係性。そこにまで目が行き届いているからこそ、「今だけ女児だ」を書くことがかえって単なる一回性以上に、構造の気配のあぶり出しとして効いてくる。
2首目および3首目は、身体と生殖にまつわる冷ややかな視点が特徴的だ。「短歌研究」2022年9月号の短歌時評で鯨井可菜子は、2首目に対して「性的な親密さをもって「顔」「手」「胸」を知っていたのかはわからないが、これらのパーツを挙げることで、愛情の有無にかかわらない性行為の即物的な一面を描こうとしている」とし、3首目については「「種を蒔く」役割を羨むことも、「種を育てる」役割を忌避または自負することもない淡白な口調」に着目した上で、「逆説的に身体への絶望がにじむようだ」と鑑賞している。付言すれば、「知ってる」「生殖してる」という、いわゆる〈い〉抜き動詞の終止形の繰り返しが、認識したというよりもある事実に直面したというような印象を強めているように思うし、〈種を蒔く/種を育てる〉という関係に含まれる非対称性や現実社会において発生するジェンダー不均衡が、〈生まれる〉という原初的かつ行為以前の地点にまで意識を遡らせていることは、重く受け止めておきたいと思う。
ここまでくれば、4首目にある〈咎める/咎められる〉の関係性が、〈咎める〉側の「足元」が「コンクリート」という頑強さを伴っているというだけでなく、〈咎められる〉側の「足元」の不安定さ、あるいは一部を「コンクリート」にされることで、花を踏んでしまうかもしれない土の上に追いやられるという支配の構造にまで想起させるものであることが分かる。結句の「幸せですね」はだから、「コンクリート」の上に居られて花を踏まずに済む者たち、不均衡な構造によって他者を周縁に追いやっていることを自覚できない者たちに対する、たしかな皮肉である。
――だから私は、選考座談会で斉藤斎藤が「このところ短歌でも、女性の生きづらさといったフェミニズム的な視点がある作品だったり、LGBTQやアセクシュアルな人が主人公の作品がうたわれてきましたが、今回の応募作にも、「フェミニズム」とか「レズビアン」などと、定義づけできるような作品が多かったんです。でもこの連作は、その手前のなにか、自分をなにかの言葉で定義づけるそのちょっと手前のところがうたわれている」と述べているのを見て、それを「手前」と言うことに強い引っかかりを覚えた。「女児」であることを受け入れる一方で「種を育てる身体」に対し違和感を持つことが、定義づけられないようなアンビバレントな在り様かと言うと、そうではないだろう。一連を通じて〈する/される〉という非対称な構造に、その都度の関係性において晒され直され続ける主体の姿は、むしろ定義づけの後に、定義を更新したり温存したりする認識の絶えざる運動のなかで見えてくるものではないか。あたかも定義が自己の認識に先んじて外在しているかのような斉藤の認識は、それこそここで言及されていない「LGBTQやアセクシュアルな人が主人公の作品」に対する無関心と不寛容ではないか。「コンクリート」の上にいるのは、誰か。
美しいみずうみは水槽だった気づいた頃には匂いに慣れて
(ショージサキ「Lighthouse」「短歌研究」2022年7月号)
一連の最初に置かれた歌に立ち戻ってみよう。もしかすると「美しいみずうみ」が「水槽」であると気づかずにいられたかもしれない、という仮定は、必ずしも「美しいみずうみ」という過去の認識の否定ではない。たしかに「水槽」はもはや「美しいみずうみ」には戻れないが、かつて「美しいみずうみ」と思っていた何かであることは変わらないからだ。「匂い」が認識に溶け込むようにして、一見すると矛盾や曖昧さで捉えられてしまいそうな何かが、ある時点では確かに現出する。しかしそれは、定義づけからあらかじめ逃れた「幸せ」な地点からの着想ではなく、どこまでもついて回る非対称な構造に晒され続けるなかで記述された、複合的ないし交差的な定義づけの繰り返しだったのではないか。
真っ暗は真っ暗なままだ 灯台になんてわたしはならなくてよい
(ショージサキ「Lighthouse」「短歌研究」2022年7月号)
「ならなくてよい」という認識は、灯台になるべきだ、ならなければならない、という呪いを手放すことで得られるものだ。敢えて深読みするなら、〈灯台になる〉ことは無償のケアを強いられることであるのかもしれない。一方で、「ならなくてよい」という自己認識は将来なってしまうかもしれないというifを完全に排除するものではない。〈灯台になる/ならない〉と〈照らす/照らされる〉の、ある時点における認識の交差の一回性を、その一回性が引きずり続ける不均衡な構造の気配を、「Lighthouse」という連作は丁寧に見つめ続けている。
*
一行の誰もさわれぬ詩になって透明なまま駅に立ちたい
幸せそうに見えないように小田急に乗せられている数多のいのち
(小松岬「しふくの時」「短歌研究」2022年7月号)
小松岬「しふくの時」の冒頭1首目、「一行の誰もさわれぬ詩」という比喩は、ともすれば高潔なものを希求した表現であるかのように見える。だが、この表現は、一首において「駅」という現実に立つ際に、それこそ暴力的な他者によってさわられてしまう可能性に恐怖するなかで手にした言葉である。「駅」という公共の空間において「誰もさわれぬ」「透明」なものでありたいと願わずにいられない状況。この時点で、痴漢やストーカーといった性犯罪の気配を感じ取る読者もいるはずだ。だからこの歌に対して「これが痴漢とかといった問題を引きずってくると、この一首目が台なしになってしまうと思う」と言えてしまう加藤治郎の選考座談会中の発言は到底看過できない。「とかいった」と言えてしまう無関心さについて考えてみたらどうか。
引用2首目、「幸せそうに見えないように」というのは、2021年8月6日に発生した小田急小田原線での無差別殺傷事件の犯人が「幸せそうな女性を殺したいと思っていた。誰でもよかった」「大学時代にサークル活動で女性から見下され、出会い系サイトで知り合った女性ともうまくいかず、勝ち組の女性を殺したいと考えるようになった」「可愛らしい服を着て男性に好かれそうだったため殺そうと思った」等と供述していたことに由来する。
一部、この事件をフェミサイド(femicide)として扱うことを疑問視する言説が流布しているが、それらの言説はこの事件に含まれる女性憎悪(ミソジニーmisogyny)の側面を隠蔽し、触れずに済ませようとしているものだと言わざるを得ない。社会学者の牧野雅子は、フェミサイドを主張することが事件の背景を覆い隠してしまうという言説に対し、「「この事件はフェミサイドだ」と声をあげることは、女性に対する憎悪がこの事件の唯一の原因であると主張することとは違う。社会からの疎外感と女性に対する差別心を同時に抱くことはあるだろうし、社会からの疎外感が女性像をより募らせることもあるかもしれない」と書く(「「フェミサイドである」と言うことは何を意味しているのか」「現代思想」2022年7月号)。無論、牧野も指摘するように、この事件がフェミサイドの典型例として語られることで、DVやストーカーといった女性に対する暴力をフェミサイドとして可視化することが阻まれる可能性は考慮しなければならないが、それでもこの事件がフェミサイドと指摘し声をあげることは、抑圧の現状を認識し、社会全体の問題として捉える上で重要なことだ。
例えば引用2首目においても「小田急に乗せられている数多のいのち」は女性に限定されるものではないが、一方で「幸せそうに見えないように」という恐怖を抱かずに電車に乗れてしまう(「乗せられている」という仕方なさを理解せずに済んでしまう)人がこの社会のマジョリティであり、そのマジョリティがいわゆるシスヘテロ男性によって構成されているという点は、重ねて指摘しておく必要があるだろう。
ゆりかごのリズムで揺れて赤子抱く男に狛犬ポジション譲る
ランドセルの少女が無事に改札を抜けるまで見てスタバに入る
(小松岬「しふくの時」「短歌研究」2022年7月号)
これらの歌も、一首単位で抜き出してみれば、電車のなかでふと目にした日常のありふれた風景として受け取られてしまうかもしれない。だが、「赤子」も「ランドセルの少女」も、もっと言えば「赤子抱く男」も、「勝ち組」への殺意において被害の対象になり得るもの、「幸せそうに見え」るものである。選考座談会で栗木京子は「狛犬ポジション」について「たぶんドアの両脇のところだろうと思います。もたれやすいし、比較的痴漢にも遭いにくい。本当はそこを確保したいんだけれども、赤ちゃんを抱いている男性がいるから、そっと譲りましたと」と読み解いている。付け加えれば、座席ではなく「狛犬ポジション」を譲っているところも重要だ(おそらくこれは、抱っこしながら座ると赤ちゃんが泣き出し、立ち上がり歩き出すと泣き止む、という現象を踏まえている)。
雌伏という言葉に抗わずにいればわたしに沿って道がうまれる
くらがりを避けずにひとり歩けたらそれがわたしの最初の至福
(小松岬「しふくの時」「短歌研究」2022年7月号)
タイトルの「しふく」が、上記の2首に登場する「雌伏」と「至福」を掛けていることは明白だろう。抗わずにいた「わたし」に沿って生み出される「道」について、米川千嘉子は選考座談会で、「その「道」というのは、作者が否定しているものなのか、どういうものなのかわからないけれども」と前置きしつつ、〈わきまえているほど生きやすいらしく陽の差すところの蟻の行進〉や〈この道をゆけと背中を押してくる手たちのずいぶんやわらかいこと〉と合わせて読むことで「抗わないことに対する複雑な自己批評」の歌であると読み解き、「その道をゆけと押してくる手は女の手なんだと。複雑でニュアンスに富んでいて面白いと思いました」と評する。ただ、その読みでは「くらがりを避けずにひとり歩け」る道として提示される「至福」との対比がぼやけてしまうように思う。無論、「抗わずにい」るという選択を強いる存在は性別問わず存在するだろうが、「くらがり」で息を潜めて待っているのはやはり、フェミサイドの加害者ではないだろうか。
肉体の輪郭をそっとかたくして肌以上鎧未満のなにか
スカートにポケットがついていることは希望の変奏曲かもしれず
(小松岬「しふくの時」「短歌研究」2022年7月号)
――だから私は、選考座談会の補足として斉藤斎藤が自身の「しふくの時」の中盤の「ほのぼのした日常の描写」に対し「やや冗長だと感じたのだが、冗長であることに意味があったのだ。その冗長さには、犯人のような疎外された人物に、この平凡な日常はどのように見えているのか? という問いが込められていたのだった」と注を加えているのを見た時、ひどく戸惑った。何を言われたのか、一瞬分からなかった。
たしかにこの連作は、フェミサイドの加害者の視線が抑圧される側の日常にどのように侵食し、恐怖として顕在化するかを提示してはいるし、「この平凡な日常」が憎悪の対象とされることで冗長さそれ自体がメッセージ性を持つことには同意する。「犯人にとっての「至福」が、女性にとっては「幸せそうに見えないように」生きねばならぬ「雌伏」である」という読みにも異論はない。しかし、この連作は犯人を「疎外された人物」としては決して描いていない。むしろ犯人の人格や心理を描くことを徹底して避けている。それは「短歌研究」の抄出14首でもそうだし、のちに小松自身が私家版で発行した30首完全版[*1]を見ても同様だった。抄録外の〈眠らないようにするのはたやすいが憎悪にそなえるすべを知らない〉〈なつかしい兎のような熱を抱き これは怒り あなたにも抱かせる〉といった歌を通して描かれているのは、いわれのない憎悪に晒されることに対してたしかな怒りを持ち、あくまで被害者の側に立って協同しようとする姿だ。それは、加害者という存在から犯罪や社会問題に切り込んでいこうとする姿勢とは別の方法であり、実践である。
更に、「しふくの時」は小田急でのフェミサイドに取材した作品ではあるが、特定の事件や犯人を記述しているわけではない点も注意したい。「選考会時点でわたしは犯人の供述を知らなかった」「供述を知らなかったということ自体、私が男性であることに関係があるかもしれないとおもう」と斉藤斎藤は補注するが、この連作における憎悪の担い手(そんな言葉あってたまるか)は、具体的な犯人ではなく、フェミサイドによって意識により輪郭を伴った形で顕在化した恐怖や脅威である。それは言い換えれば、いつ、どこで、誰に、何をされるか分からないという、抑圧状態に常に晒されているということだ。無論、性犯罪加害者や差別に加担した者が内面化している無限責任的かつ複合的な恐怖は、加害者側がかえって被害者意識を抱く要因の根幹に関わっていたりするわけだが(西井開「恐怖するマジョリティ、揺れるバイスタンダー 性差別的なふるまいをした男性にどう関わるか」「現代思想」2022年7月号を参照)、加害者側に寄り添う役割までを「しふくの時」に求めるのは、それこそ女性をはじめとするマイノリティ側にケア労働を強いる行為であり、既存の差別の補強ではないか。
「しふくの時」は、フェミサイドの事例に呼応した#MeTooの、短歌における実践である。さて、選考座談会における斉藤斎藤の「しかし短歌の世界は、もちろんいろいろ問題はありますけど、外の世界よりかはリベラルで、短歌の世界でこういう作品を発表することで批判されることはなく、むしろ褒められやすいと。外の社会ではフェミニズム的な発言をすると、ツイッターで絡まれたりしてぜんぜん安全ではないんですけど、短歌の世界では追い風が吹いていて、むしろ安牌なわけです。そういう状況で、そういう作品を応募作として出すことに、ちょっとだけ考えてみてほしいんです。本当にこの視点に乗っかっていいのだろうか。ここにあるのは社会的な意義であって、文学的な意義ではないのではないか」という発言に関してであるが、これはフェミニズムに対する典型的なバックラッシュである。文学(Bungaku)を盾にしたバックラッシュ(Backlash)なので、ブンガクラッシュ(Bungaklash)とでも名付けておいて良いだろう。「短歌研究」2022年9月号の時評で鯨井可菜子は「当事者がその苦しさを作歌の動機とし、詩的な昇華に挑むことは、そんなに「安牌」なのだろうか」と疑問を呈しているが、同感である。
加えて、鯨井も指摘しているように、加藤治郎の「この作者は資質がライトバースなんですよ。あまり社会性にコミットしないで、もっと気の向くままに、軽やかにうたったらいいと思う」という発言もトーン・ポリシングであり、最悪である。私は加藤がノンセンスとほぼ同義でライト・ヴァースの語を用いるのを見るたびにこれまでも何度も頭を抱えてきたのだが(W.H.オーデンの定義に沿うなら、ノンセンス詩はライト・ヴァースであるが、ライト・ヴァースすなわちノンセンスとはならない。沢崎順之助・訳「共同体の詩」「現代詩手帖」1979年5月号を参照)、それは加藤の描く、岡井隆や塚本邦雄が志向していたライト・ヴァース性を「ニューウェーブ」という限定された存在が批判的に継承して現代短歌の今があるという史観にまったく賛同できないからである(加藤治郎『岡井隆と現代短歌』短歌研究社・2021年7月を参照)。かつてオーデンは「社会が同質的で、詩人が時代の日常生活に密着すればするほど、それだけ詩人の感得したものを伝えるのがたやすくなるが、反対に、時代の因習的な反応にとらわれずに正直に忠実にものを見ることはますます難しくなる。社会が不安定で、詩人が社会から遊離すればするほど、それだけ詩人はものをよく見ることができるが、それをひとに伝えるのは難しくなる」と記した。この矛盾を、ライト・ヴァースを乗り越えるというタテマエで30年ほったらかしにしてきたのがニューウェーブ以降の現代短歌ではなかったか。
*
ところで、「しふくの時」の同じ見開き上に遠藤健人「ゆっくりでいい」が14首抄録掲載されているのは、偶然だったとしてもとても重い意味を持つものだったように思う。「しふくの時」が先述した通り、被害者の立場に協同した#MeTooの実践だったとすれば、「ゆっくりでいい」は差別の現場においてみずからを加害者になり得るもの、どちらかと言えば加害者側に近い存在だとする認識が通底した作品だ。
なぜ彼が殺ったのかよりなぜ俺が殺らないのかの方が気になる
無差別が無差別だったことなんて一度もないとみんな知ってる
確実に俺は加害者側なのに自慰は被害者ぽすぎる言葉
まだ齧れる脛があと四本もある明日は歯医者の検診がある
(遠藤健人「ゆっくりでいい」「短歌研究」2022年7月号)
引用1首目を目にした時、私は思わず、分かる、と思ってしまった。それは普段、ほとんどアルトの声域に属するこの声(携帯電話で電話しても本人確認をされるくらいには高い)さえ発さなければシスヘテロ男性として見なされ扱われるであろう私自身(最近は顎髭まで蓄え始めた)が、外へ滲み出さないように、零さないようにと張り詰めた意識で接しているみずからの男性性に対して、不意にドアベルを鳴らされたかのような衝撃だった。
抄録14首と選考座談会で言及のあった3首を合わせて読んでいくと、「ゆっくりでいい」の「俺」は、就職活動からドロップアウトして、大学卒業後はアルバイトしつつ実家暮らしをしていることが分かる(栗木京子は選評に「摂食障害をかかえているようだが」と書き添えている。たしかに食べ物に関する歌にグロテスクさは感じられるが、これら17首以外に決定的な歌があったのかもしれない[*2])。親のことを「まだ齧れる脛があと四本」と表現し、性的な動画を見て自慰に耽る。いま、引用4首目を打ち込もうとして「歯医者」を「敗者」と誤変換しかけたが、ここに描かれているのはまさに勝ち組になれなかった敗者としての自意識の顕在化、いわゆる「非モテ」的男性像であるように思う(念のために付言するが、作者と主人公はイコールではない、というのは大前提である)。
臨床社会学者の西田開は『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書・2021年7月)のなかで、女性にケア労働を強いることの多い社会の歪みを前提とした「自分の好意・行為が多少強引でも「受け取ってもらえるだろう」という正当化」が「「非モテ」男性の加害行為のハードルを下げる機能を持つと予測される」と書く。これは言い換えるなら、加害行為を加害者の意志だけに還元してしまうことで見失うものがある(加害者に言い訳させてはならないが)、ということである。西井の著書では、「男らしさ」というヘゲモニックであるがゆえに曖昧模糊としたものに対して、なんらかのきっかけである集団内で周縁化したことをきっかけに、「男らしさ」に対して「未達の感覚」や「疎外感」を抱くようになり、自己否定を重ねる一方で「一発逆転」の思考を抱き、みずからをケアしてくれるであろう「女神」的女性に対する執着を重ねていく――という、「非モテ」男性の陥りやすい悪循環が丁寧に分析されている。
翻って、「なぜ俺が殺らないのか」という問いは、人は被害者にも加害者にもなる等という安易な相対主義からくるものではない。無差別な加害に陥る手前には、内面化された「男らしさ」が前提とする既存の差別構造がある。アルバイトを休んで性的な動画を見ながら自慰行為に耽る姿は、「就活」から「ドロップアウト」せずに正社員となった者たち、「男らしさ」の象徴とも言うべき架空の存在たちと常に対比され、見下される。選考座談会で米川千嘉子が「相手側からの言い分もあるわけですよね。外の世界とお互いに交わしているという感覚がない。それでいいのだろうかと感じます」と述べているように、倫理的に考えればこうした在り方は独りよがりなコミュニケーション不足であるだろう。しかし、あらかじめ何かが断たれてしまっているという疎外感がいかに意識を蝕むかという点で見れば、「ゆっくりでいい」の一連は極めて示唆的である。
ある意味では、アイロニカルな問いをみずからに投げかける「俺」は、その問いによってこそみずからを決定的な加害者にせずに済んでいるのかもしれない。一人称的な語りがセルフケア的なものとして働くか、あるいは単なる自己慰撫として問題認識の先送りに寄与してしまうかは、慎重に見極める必要があるだろうが、それでも私は、この「俺」の語りをもっと聞きたいと思った。顔を合わせればむしろ互いの傷を深め合うかもしれないから、手を取り合うような友人にはなれないかもしれないが、どこかで協同できるかもしれないと思ってしまった。その強烈な印象の意味を、初読からしばらく経った今も考え続けている。
このタオルケットがないと眠れない これも政治が悪いせいだろ
(遠藤健人「ゆっくりでいい」「短歌研究」2022年7月号)
*
新人賞の選考という場では、あるいは仕方のないことなのかもしれない。それでもここで、選考委員にかかる仕事量を、見返りに見合う/見合わないといった資本主義の観点で見なすことは避けよう。いや、むしろ避けなければならないだろう。応募総数に反比例して鑑賞の質が下がるなんて見方は何より選考委員に対し失礼であり、退けて然るべきだ。これは結社での選でも言えることだろう。まず前提とするリスペクトがあり、それが暗黙の形を取るにせよ、コミュニケーションとして機能する。私がここに記した読みだって、無数に存在する解きほぐし方の一例でしかない。
しかし、だからこそ――。
奪うな。作品に発現する意志を奪うな。構造の問題を視野に入れた語りを奪うな。協同し賛同する声を奪うな。疎外された生を奪うな。価値の再考に接近する機会を奪うな。権威やタテマエとすり替えて個々人の営みの形成と発展を奪うな。正統と異端の背比べに魂を奪うな。交差するみずからとの出会いを奪うな。
私が奪うなと言う時、私のなかにも含まれる「未達の感覚」が泥のように動き始めるのを感じる。新人賞も受賞していないくせに、私家版の評論集を一冊出しただけのくせに、非正規で奨学金返済に明け暮れて歌集を出す金もないくせに、筆一本で食っていけているわけでもないくせに、どこまでいっても所詮「男」のくせに……。だがそれでも、泥の上に浮かんできた泡をひとつひとつ潰しながら、つまりきちんとみずからの手を汚しながら、声を、どこまでいっても私の声であるそれらを引き受けながら、息を続けるために、もう一度言う――。
奪うな。
[*1]「しふくの時」30首完全版は、9月1日現在は第2刷が本屋lighthouse(千葉市幕張)およびtwililight(三軒茶屋)にて販売中。売上は性暴力被害者支援に取り組むNPO法人へ寄付される。
[*2](9/1 21:10追記)「ゆっくりでいい」30首完全版はこちらで読むことができる。